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第三章
脳と心臓
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病院の中はいつだって消毒液のにおいがした。
このにおいに当てられる度に、俺はどうしても死の気配を感じてしまう。
病院というのは怪我や病気を治療する場所ではあるけれど、それと同時に、人の最期を看取る場所でもあったから。
全身ずぶ濡れのまま院内に入ると、顔見知りの看護師からすぐに清潔なタオルと着替えを渡されて、そのまま手術室の方まで案内された。
どうやら急患として病院に運ばれてきたのは、交通事故に遭った一人の少女のようだった。雨で視界の悪い中、赤信号の交差点に急に飛び出してきたという。
車に撥ねられ、全身に打撲や擦過傷ができていたものの、幸い骨に異常はなく、出血の量も大したことはなかった。しかし頭の打ち所が悪かったらしく、未だ意識は戻っていない……。
そんな説明を受けながら、俺は辿り着いた手術室で件の患者と対面した。
手術台の上で静かに目を閉じていたのは、小麦色に日焼けした肌を持つ、愛らしい顔をした少女だった。
体の大部分が青い布で隠されていたので、ほとんど顔の部分しか見えなかったが、その姿は見間違えるはずがない。
俺が捜し求めていた、愛崎美波のものだった。
「美波……どうして」
手術台に寝かされた彼女の口と鼻には、酸素を送るための管が通されていた。これが見知らぬ患者なら、俺にとっては子どもの頃から何度も見たことのある光景だった。
けれど、いま目の前にいるのは他でもない美波なのだ。まるで現実味のないその光景に、俺は呆然と立ち尽くしていた。
「その子はやっぱり、お前の知り合いなのか」
いつのまにか隣に立っていた父が、俺にそう確認した。
「……うん。友達だよ。美波は俺の……大事な友達なんだ」
声が震える。
自分で言いながら、『友達』という響きがなんだか虚しかった。
俺はどうしたって、彼女と友達以上の関係を築くことはできなかった。
「意識は……美波の意識は戻るんだよな? 外傷は大したことないって、さっきも言ってたし。今は麻酔で眠っているだけなんだよな?」
縋るように俺が聞くと、俺の視線を受け止めた父は、わずかな躊躇いの後に首を横へ振った。
「残念だが、この子の脳はすでに機能している気配がない。心臓はまだ動いているが、いずれはそれも停止するだろう」
父の言ったことが、すぐには理解できなかった。
脳が機能していない。
心臓もいずれは停止する。
それはつまり、
「……死ぬってことか? 美波が?」
まるで熟睡しているようにしか見えないこの少女が。
傷も大したことはない、四肢がもげたわけでもない、内臓が外へ飛び出したわけでもない。
今までこの病院で目にした患者の中には、もっと酷い怪我を負いながらも、じきに回復していった人間も多くいたというのに。
「嘘だよ。だって……心臓はまだ動いてるんだろ?」
足が震えて、その場に崩れ落ちそうになる。
そんな俺とは対照的に、父は至極冷静に言った。
「脳の機能が停止して、すでに脳波もない。今のこの子は、ほぼ間違いなく脳死状態にある。それが意味することは、お前ならわかるだろう?」
脳死状態。
美波の脳が、死んでいるということ。
「脳が死ぬということは、体の全ての機能が停止するということだ。自発呼吸もできなければ、臓器を働かせることもできない。……人工呼吸器を使えば、しばらく心臓は動いているだろう。けれどそれも長くはもたない。数日のうちに、この子の心臓は完全に止まる」
心臓が止まる。
美波が死ぬ。
信じたくなかった。
だって美波は、いつも俺と一緒にいた。小学生の頃から。最近は会う回数が減っていたけれど、それでも休みの日には一緒に出かけていたし、今度の花火大会だって、ずっと前から一緒に見ようと約束していたのに。
「美波……嘘だよな?」
彼女の、俺にだけ見せるイタズラっぽい笑顔で「冗談でした」と言ってほしかった。事故なんてなかった。全部がただの演技で、さすがは演劇部のリーダーだと拍手を送ってやりたかった。
「何か……何か手はないのかよ。父さんは医者だろ? 医者は患者を救うためにいるんじゃないのかよ」
目の前の命も救えなくて、何が医者だ。
俺にあれだけ勉強して医者になれと言っておきながら、自分はこんな簡単に患者の命を見捨てるなんて。
「医者は神様じゃない。医療にも限界がある。お前もいずれ医者になるつもりならわかっているだろう。辛いとは思うが、今は耐えてくれ」
それから父は俺に、美波の家族への連絡先を聞いてきた。どこまでも事務的な作業で、まるで他人事のようなその対応が、俺には信じられなかった。
「なあ。助けてくれよ。頼むから」
美波を殺さないでほしい。
まだ心臓は動いているのだから。
そんな俺の思いに応えてくれる人間は、この病院の中にはいなかった。
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