飛べない少年と窓辺の歌姫

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第2章

ネグレクト

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 母親に初めて『手を焼かれた』のは、小学四年の冬のことだった。

 『世話を焼かせた』という意味ではない。
 文字通り、熱したフライパンに無理やり手を押しつけられて火傷を負ったのだ。

 当時はいきなりのことで、一体何が起こったのかわからなかった。
 わけもわからず、ただ激しい痛みに泣き叫ぶことしかできなかった。





 その日を境に、母はどこかへ出かけたまま帰らなくなった。
 雑然とした家の中に自分ひとりだけが残されて、その状態が何日も続き、いつしか食料も底をついて、飢えた身体は見る見るうちに痩せ細っていった。

 やがて事態を重く見た小学校が児童相談所に通告し、市の職員が自宅を訪問したそのときになってやっと、鷹取隼人は自分が育児放棄ネグレクトを受けていることを知ったのだった。





 ――ねえ、昨日の新聞。鷹取さんのコメント見た?

 児童養護施設で暮らすようになってしばらくが経った頃、施設職員たちの噂話がたまたま耳に入った。

 ――見た見た。コウノトリのニュースについてのコメントでしょ。
 ――自慢の息子ですーって、さも自分がそんな風に育てましたってアピールするようなコメントだったわよねえ。

 ふふふ、と含み笑いをするような声とともに、三人の職員たちが互いに目を見合わせる。

 コウノトリ、というキーワードから、鷹取はすぐにその内容を察した。

 ちょうどその頃、地元ではコウノトリのニュースがにわかに話題になっていた。
 二人の幼い少年――鷹取隼人と鳩山翔が、コウノトリのヒナをカラスから守ったというニュースだ。
 それについて、いつのまにか地元のマスコミは鷹取の母にインタビューをしていたらしい。

 ――ロクに顔すら見せに来ないくせに、よくあんな発言ができるわよねえ。
 ――たとえ育児放棄してたって、母親は母親だものね。立場上は。

 職員たちからの評判は散々なものだった。

 しかし鷹取にとっては他人の評価などどうでもよかった。
 ただ、間接的にでも母の言葉を聞けたことが純粋に嬉しかった。

 自慢の息子、と母が言った。
 それ以上に嬉しいことはない。

 母が少しでもこちらに興味を持ってくれるのなら、他のことはどうだっていい。

 それで母が振り向いてくれるのなら、たとえどんな手段を使っても、その内容は鷹取にとって気にかけるまでもない些末なことでしかなかったのだ。





         ◯





「隼人ぉ。お酒、買ってきてよ」

 呂律の回らない母の声で、鷹取はハッと我に返った。

 見ると、ダイニングテーブルに突っ伏したままの母が、生気のない虚ろな目をこちらに向けていた。
 目の下に深いクマを作ったその顔は、ここ数年で急激に老け込んだように思う。

 雨の日の週末。
 シャッターを締め切った家の中はまだ昼間だというのに暗くじめじめとしている。
 長いあいだ掃除されていない部屋の床には空の酒瓶や生ゴミが散乱し、辺り一帯に嫌なニオイを充満させていた。

「……まだ飲むのか?」

 壁際でスマホを弄りながら、鷹取は非難じみた目を向けて言った。

 ここのところ、酒の消費量が普段の倍以上に増している。
 もともと母がそれほど酒に強くないことを知っている鷹取からすれば、これ以上飲ませるのには不安があった。

「いいから買ってきてよ。お金はあるからさあ」

 言い終えるが早いか、母はテーブルの上に散らばっていた小銭をかき集めると、それを壁に打ち付けるようにして投げて寄越した。
 じゃらじゃらと耳障りな音を立てて小銭が床に落ちる。

 鷹取は仕方なくそれに手を伸ばしながら小さく溜息を吐いた。

「あんま無茶な飲み方すんなよ。もう若くないんだしさ。イライラしてんのはわかるけど、ヤケ酒なんかしてたらそのうち身体も壊して――」

 そこまで言ったところで、鷹取は不意に目の前まで迫った酒瓶の存在に気がついた。
 間一髪のところでそれを避けると、酒瓶は勢いよく壁に叩きつけられ、乾いた音とともにバラバラに砕け散る。
 なんとか直撃は免れたものの、飛び散った破片が頬をかすめ、傷口からは赤い血の色が滲んだ。

「……こんな若くもない、オバサンで悪かったわね。どうせ男の人は若い子の方が好きなんでしょ? あの人だってそうだったのよね、きっと」

 酒瓶を投げ終えた姿勢のまま、わなわなと肩を震わせて母が言った。

 なるほど、今の精神状態で年齢の話は禁句だったなと、鷹取は改めて反省した。

 母の言う『あの人』というのは、最近まで母が付き合っていた年下の男のことだ。
 どうせ遊びだか金目当てだからやめておけと忠告したのだが、それを無視して貢ぎに貢いだらしい結果、最後はあっさりと捨てられてこのザマだ。

 もともと男運のない母の貞操観念は、もう随分と前から破綻していた。
 少なくとも鷹取がこの世に生を受けたとき、父親が誰だかわからないという事実があったときからすでに、母の恋愛に対する感情は何かが欠如していたのだろう。

 できることなら、いつかは良い縁談に恵まれて幸せになって欲しいと思う。
 けれどその一方で、どこの馬の骨ともわからない男に母を委ねるというのも癪に触る。

 モヤモヤとした思いが腹の底で渦を巻く。

 気晴らしにまた新しい動画でも撮りたかったが、手元のスマホを見下ろせば、画面上にはそれを拒絶する文言が表示されていた。

『明日の件だけど、やっぱり遠慮しとく。また電話する』

 烏丸翔からのメッセージだ。
 昨夜、あの病院の中庭から送信されたものだった。

 あのとき、桜の木を隔ててすぐ後ろに鷹取がいたというのに、烏丸は目の前の少女に夢中で気づかなかったらしい。

 一体どれだけあの少女に入れ込んでいるのか。
 最近やけに聞き分けが悪いのも、おそらくはあの少女のせいだろう。

 鷹取は烏丸からのメッセージに「わかった」とだけ打って返すと、今度は看護師の百舌谷ことり宛に文字を打ち込む。

 あの少女の素性が知りたい。
 烏丸とは一体どういう経緯で顔見知りになったのか。
 そして、どういった理由であそこに入院しているのか。

 スマホを弄っている間も、テーブルの方では母が何事かを喚きながら物に八つ当たりしていた。
 甲高い奇声を上げながら、周りに散乱したゴミをめちゃくちゃに投げている。
 どうやら酒を買ってくるまで収まりそうにもない。

 鷹取はスマホの操作を一通り終えると、小銭をポケットに突っ込み、仕方なく知り合いのいる酒店へと足を向けた。
 
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