異邦人と祟られた一族

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第一章 白神健

対峙

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       ★


 
「おかえり、健」

 帰宅すると、軒先で父が待っていた。

 家の中は暗く、人の気配がない。
 敷地を囲む塀の内側には、先ほど凛から手渡されたものと同じ呪符――星札が、無造作に大量に貼られていた。

「準備は整っております。何卒、よろしくお願いいたします」

 父はそう言って深々と頭を下げた。

 凛は全てを悟ったように頷く。

「……何? 何の話?」

 話が見えず、俺は一人置いてけぼりをくらった。
 何が何だかわからないまま、父は門の外へ出て行こうとする。

「父さん、どこ行くんだよ」

 俺が呼び止めると、父は一度だけこちらを振り返って言った。

「健。母さんはお前を怨んだりしない。母さんは最期までお前を愛していた。それだけは忘れるな」

「父さん……?」

 なんだか様子がおかしい。

 戸惑う俺の背後から、今度は凛が言う。

「健様。あなたはこれから、祟り神と対峙することになるでしょう。けれど決して恐れないで。あなたの命運は、あなたの心が握っています。あなたが生きる意志を見失わなければ、必ず道は開けます」

 眼前で門が閉められていく。
 父の姿が見えなくなる。
 扉の閉まる音はやけに重々しく、腹の底に響いた。

 俺の胸にあるのは不安ばかりだった。

「始めましょう」

 凛はそう言って、胸の前で手を合わせた。

「……──『アストラル』!」

 その声を合図に、辺りは一面青い光に包まれた。

 夜の闇を吹き飛ばすような、眩い光。
 そこら中に散りばめられた呪符の一つ一つが、一斉に発光したのだ。

「なっ……!?」

 強い光に眩んだ視界が──周囲の空間が、一瞬だけぐにゃりと歪んだように見えた。

 やがて光が弱まってくると、頭上の空は一層闇の色を深めたように思われた。

「何をしたんだ?」

 返事はなかった。

「凛?」

 静かだった。
 虫の音一つ聞こえない。

 凛は合掌したまま動かない。
 指先一つ微動だにしない様は、まるで人形のようだ――なんて思っていると。

 彼女はいきなり、ぷつりと糸が切れるようにしてその場に崩れ落ちた。

「凛!」

 俺はすぐさま駆け寄り、ぐったりとした彼女の上半身を抱き起こす。

「おい、どうしたんだよ。しっかりしろ!」

 意識はなかった。
 けれど、薄く開かれた唇の隙間からは安定した吐息が漏れている。
 どうやら大事ではなさそうだ。

 と、不意にぞくりと悪寒が走った。

 見られている。

 言い知れぬ気配を感じ取り、俺はハッと顔を上げた。

 正面で、青い光の玉がゆらゆらと揺れていた。

 その光の向こうに、母がいた。

 固く閉じられた門扉の手前に、母はいつもの喪服姿で立っていた。

「健……」

 母は紫がかった唇をゆっくりと動かして、幽かな声で言った。

「お前が死ねばよかったのに……」

 もっとも怖れていた言葉が、母の口から告げられた。

 俺の身体は雷でも受けたかのように、全身が凍り付いて動かなかった。

 やはり母は、俺を産んだことを後悔しているのだ。
 父の助言などアテにならない。

 母は俺を怨んでいる。
 だから殺しに来たんだ。

「健……」

 静かに持ち上げられた母の右手が、ぎらりと光った。
 冷たい色を放ったそれは、包丁だった。

「あ……。と、父さ……っ」

 思わず助けを求めようとして、無駄だとわかった。

 父は遠い。
 門の外からは何の音も聞こえない。
 まるでこの敷地内だけが世界から切り離されているかのようだ。

 凛は依然も眠ったまま。

 母は音もなく足を踏み出して、徐々にこちらへと近づいてくる。

「い、いやだっ!」

 咄嗟に凛の身体を抱え上げ、俺は走った。

 庭の方へ回り、土足のまま縁側に上がる。
 左右を見渡すが誰もいない。
 メイドの姿もどこにもない。

「……そうだ、『ギルバート様』……!」

 そろそろ目覚めてもいい頃だろう。
 いや、そうでないと困る。

 一縷の望みをかけ、縁側伝いに北へ抜けて居間を目指す。

 やがて障子が開かれたままのそこへ辿り着いたとき、

「わっ!」

 何かに足を取られ、勢い余って派手に転んだ。
 抱えていた凛の身体は俺の腕を離れ、居間の中ほどまで投げ出された。

 俺は強打した顔面を顰めつつ、すぐに視線を上げた。

 部屋の隅には布団が敷かれている。
 けれど、肝心の中身はもぬけの殻だった。

「う、うそだろ……」

 『ギルバート様』が、いない。
 頼みの綱は呆気なく断ち切られる。

 そこへ、確かな殺気が迫った。

 足音はない。
 けれど、近くにいる。

 後ろか、と振り返るが誰もいない。
 淡い青色の光が点々として、消えかけた炎のように揺れているだけだ。

 見えない殺意が辺りを支配する。
 五感を研ぎ澄ませて動かずにいると、不意に、指先に息を吹きかけられたような感触があった。

「ひっ……!」

 思わず、びくりと肩を跳ねさせる。
 それから恐る恐る見てみると、人差し指の先には一本の髪の毛が絡み付いていた。

「……な、なんだ」

 ただの髪の毛か、と胸を撫で下ろす。
 しかし気味が悪い。

 すかさず反対の手でそれを払い除けようとすると、今度は小指の辺りにもう一本、別の髪が落ちてきた。

「……?」

 髪は上から落ちてきた、ということは。

 それが指し示すことはただ一つ。

(上にいる!)

 弾かれたように頭上を仰ぐ。

 すると薄闇の中、まるで蜘蛛のように天井に張り付いた母が、白目を剥いてこちらを見下ろしていた。

 恐怖のあまり、声が出なかった。

 母の右手が鈍い光を放つ。
 その手に握られた包丁が、正確に俺の脳天に狙いを定め、

「死ね。健」

 言い終えるが早いか、母の身体はまっすぐにこちらを目掛けて落ちてきた。

「うわああああああ────ッ!!」

 もう終わりだ、と固く目を瞑った。

 怖い。
 殺される。
 死にたくない。

 けれど……。

 俺が殺されることで、少しでも母の魂が報われるのなら……──と、そんな諦めにも似た感情が、俺の中で形成されていた。

 贖罪というのだろうか。
 ただの自己満足かもしれない。
 それでも、これで少しは母への償いになるのかもしれない、と思った。

 震え上がる程の恐怖の裏で、心のどこかが満たされていく。
 確かな安堵感が生まれ出す。
 これでやっと、母に償うことができる。

 なのに。

 俺を貫かんとする刃の衝撃は、いつまで経っても訪れなかった。

 不思議に思って目を開くと、すぐ目の前に、何者かの影が見えた。

 初めに足が見えた。
 視線を上げると背中があった。

(子ども……?)

 幼い背中だった。
 こちらに背を向けたその子どもは、俺を庇うようにして、片腕を掲げて立っていた。

 腕の先を見ると、その手は何かを掴んでいた。

 母だった。
 痩せ細った母の白い首を、その手はしっかりと掴み上げていた。

 母は唸り声を上げて髪を振り乱し、獣のように四肢をばたつかせる。

「……おはよう、健」

 こちらに背を向けた子どもが、高い、けれど落ち着いた声で言った。

「会うのは十一年ぶりだな」

 そう言って肩越しにこちらを振り返った顔には、見覚えがあった。
 正確には初対面のはずだが、その瞳の色は以前にも見たことがある。

「……ギルバート……様」

 気づけば俺は、その人の名を呼んでいた。
 
 
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