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忍び寄る触手

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 インターホンが鳴った。

「あ……」
 ディスプレイに映っていたのは、尭司だった。
「知り合い?」
「あ、はい……」
「……ふーん? あ、そうか、彼、ね?」
 顔を赤らめて口ごもる亜夜果の様子から、絵巳子はそれが『高校時代の同級生』だと察した。
 絵巳子に散々言い当てられっぱなしの亜夜果は、素直にうなづく。

「早く入れてあげなさいよ? 心配してきてくれたんでしょう?」
「はい、でも……」
「お邪魔虫は退散しますから。ってか、どっちにしても私も外に出ないとね?」
 そう言えばそうだった。
 亜夜果は、ドアをそっと開ける。
 絵巳子の来訪を知らされた時に着替えておいて良かった。
 ルームウェアに毛が生えた程度の格好だけど、一応カットソーとフレアースカートは、変じゃないよね?
 
 ドアの外では、尭司がちょっと照れ臭そうに立っていた。
 リュックサックを肩がけし、シンプルな白いYシャツに、下もシンプルなネイビーのスラックス。首元のボタンははずし、ネクタイはしていない。仕事帰りのようだった。

「こんばんは。ゴメン、急に」
「こんばんは。ううん。昨日は、ありがとう」
「キズ、どう?」
「あ、うん。ちょっと、熱も出ちゃったけど、今は落ち着いてる」
「そっか、やっぱり……ちょっと顔火照ってるし」
 
 絵巳子に青アザを指摘されて、顔の左側は前髪を被せて見えないようにしていたが、尭司はそこには触れなかった。
 ドアの外に立ったまま、部屋には入ろうとしない尭司に、何と声を掛ければよいか迷っていると。

「ごめんなさーい。通してもらえますか?」
 亜夜果の背後から、絵巳子が顔を出す。
「え?」
「あ、先輩、すみません」
「いえいえ。じゃ、また連絡するわね。彼氏さん、どうぞ入って」

 突然現れた女性に戸惑う尭司を、さらに戸惑わせる一言で固まっている青年を尻目に、絵巳子は外に出た。
 すれ違いざま、尭司の背中に両手を当て、ちょっと強引に部屋に押し込み。
「おやすみなさーい」
 と、そそくさの退散した。
 ドアの内側に押しやられた尭司ごと亜夜果も部屋の内側に後退したため、絵巳子に別れの言葉を掛けることも出来ず。
 ドアがパタン、と閉じた。

(あれは、相当鍛えている感じね)

 ドアの内側に消えた青年の姿を振り返って、絵巳子は両手を広げて見た。Yシャツ越しにも分かる鍛えられた背筋。高校時代にレスリング部のマネージャーをしていたから、選手の体に触れたこともある。日頃から鍛えている柔軟性のある筋肉。

(スポーツマン系エリート? でも、会社員って感じじゃないわね。でも、チャラい感じもないし。むしろ、かっちりして公務員っぽい。消防士とか警察官? それならあの鍛え方も分かるかも。細マッチョで、顔立ちも整ってるし、知性もありそう。あれは、会社の男性陣には勝ち目はないわ)

 恋人の前田から聞いた話では、亜夜果に憧れを抱いている若手社員が少なくないらしい。
 そうでなくても、今日の欠勤で落胆している何人かの同僚の様子から、何となく目星もついている。
 おっとりとした、けれども実直で勤勉な亜夜果は、部署の唯一の新人ということもあって課長を始め年長者も気に掛けている。上司陣のお気に入りということと、本人のガードが固い(と言うか、アプローチされても気が付いていない、というのが本当のところだろうけど)ため、手を出しかねているらしい。

(まあ、どっちにしても高嶺の花だった、ってことよね。何となく聞いていたけど、娘が心配だからって、こんなセキュリティが効いたマンションに住まわせちゃうようなお家だもの。ここ、家賃結構高いよね?)

 とは言え。どんなにセキュリティが高いマンションでも、一歩外に出れば危険はあるのだ。今まで気にせず通っていた道だったが、ちょっと注意しないといけない。
 マンションから少し離れたコンビニに待ち合わせた恋人の姿を認めて、絵巳子は小走りに道路を渡った。



「ゴメン、来客中だったんだね」
「あ、うん。職場の先輩。心配して見に来てくれて。ちょうど帰るところだったから」
「そっか。ありがたいね」
 絵巳子に無理やり室内に押し込められたものの、尭司は靴を脱いで上がるのをためらっていた。
 顔の左側を隠そうと何度も前髪に触れる様子から、頬の打撲痕が目立っているのだろう。
 経験上、治癒の過程だと分かってはいるが、女性にとっては顔のアザなど見られたくないだろうし。
 だから、今夜も様子だけ見て、帰ろうと思っていたのだが。
「……」
「……」 

 じゃあ帰るね、という一言が、出てこない。
 本当は、帰りたくない。
 今日一日、いや、夜中から、ずっと亜夜果の様子が気になっていたのだ。昨日の事件のこともあって、今日は警らの組み直しや本署への報告もあって忙しかったお陰で、何とか仕事に没頭できたが。
 マンションの周囲もパトロールしたが、外からは詳しく分からないし。洗濯物が見えたので、日常生活は大丈夫そうだ、ということくらいで。

「……えっと、昨日はバタバタしていて、連絡先とか、訊けなかったから、教えてもらえるかな?」
「え? 書類に書いたけど? 携帯も」
「あ、うん。でも、あれは、個人情報だから、私用に使っちゃいけないんで……出来れば、個人的に教えてほしいな、って」
「そうなんだね。うん、教える。私にも教えて欲しいな」
「うん」
「ちょっと待ってて」
 室内にあるスマホを取りに行こうとして、亜夜果は振り向く。
「あの……忙しくなければ、上がっていかない? コーヒーでも……あ、お夕飯、もしかしてまだ?」
「いや、だいじょ……」
 途端、グルル、と腹の虫が鳴る。
 タイミングの良すぎる生理現象に、尭司は真っ赤になる。
「上がって? 簡単なものしか出来ないけど」
 クスッ、と亜夜果が微笑み、入室を促す。

「……お邪魔します」

 まだ、顔を赤らめたまま、尭司は靴を脱いだ。


「はい、どうぞ」

 冷凍庫にもご飯のストックはあったが、ちょうど絵巳子がレトルトのご飯を買ってきてくれていたので、それにあり合わせの食材を乗せて、簡単な丼物を作った。
「ホントにあり合わせだけど」
「いや、こんなにちゃんとした飯、ありがたいよ。これがあり合わせって、亜夜果、スゴいな」
「誉めてもこれ以上は出ないですよ……あ、納豆平気なら乗せるけど。意外にサケに合うのよ?」

 ご飯の上に瓶詰めの鮭フレークと、野菜室にあったオクラを湯通しして刻んだものを乗せて。これも絵巳子が買ってきてくれた温玉をトッピングした。あとは、レトルトのお味噌汁。
 正直、尭司に誉められるほどのものではない。もうちょっと肉っぽいものがあれば良かったのだが。
「そうなんだ? せっかくだから、試してみようかな?」
 男性だし、体を使う仕事だからとご飯を多めにしたが、尭司はあっという間に平らげた。
 メニュー的にコーヒーよりお茶かな、と、亜夜果はほうじ茶を出した。

「……なんか、スッゴい幸せを感じる食卓だな」
 温かいほうじ茶をすすりながら、ふうっ、と尭司は息をつく。
「このくらいで大袈裟ね?」
「いや、一人暮らしの男にとっては、食後にお茶まで来るような贅沢、家ではなかなかね。がっと食べて、終わり! って感じだし。ほうじ茶なんて、自分じゃ入れないし」
「実家から持たされたのよ。一人暮らしじゃ一袋飲みきれなくて、仕方なく毎日ボトルに入れて持っていってるくらい。小袋であるから、よかったら持っていって?」
「いや、いいよ。自分じゃ多分入れないし……亜夜果に入れてもらったのが、飲みたい」
「……また、来てくれる? こんな適当なご飯じゃなくて、もっとちゃんとしたの、作るから」
「あ、あの、ご飯じゃなくて……いや、それも嬉しいけど……亜夜果に、会いたいから、来たいんだけど。っていうか、俺の気持ち、伝わっているよね?」
 亜夜果はコクン、とうなづく。見えている右頬が赤く染まる。
 
「あんなことがあったばかりだし、俺は亜夜果を大事にしたいし、だから……部屋に上がるのは怖かったんだけど。こんな状況で、ガマンしきれる自信ないし。亜夜果が好きだから……触れたくてたまらない」
「……間宮くん」
「尭司」
「?」
「ちゃんと、名前で呼んで欲しいな。高校の時は叶わなかったけど、もう、呼べるだろ?」
「……尭司」
「うん……やべっ、めちゃくちゃ嬉しい」
 
 尭司は、赤くなった顔を隠すように両手で覆う。
 一方の亜夜果も、本人の前で初めて名前を呼び、いたたまれないような恥ずかしさに身をすくめる。

(いやだ、夜中のことを思い出しちゃう)

 尭司の名前を呼びながらの行為がよみがえり、何だかムズムズする。
(いやっ、私、こんなに淫乱だったの? あんなことがあったのに。ううん、尭司、だから。あんな人とのこと、関係ない!)

「……尭司。私の気持ち、知ってるよね?」
 先ほど尭司から訊かれたのとほぼ同じ、問い。

「うん、知ってる」
「だから、いいんだよ? あのことは、関係ない。尭司とは全然別のことなんだから。尭司が私を大事にしてくれるって気持ちだけで、もういいの……ガマン、しなくて、いいよ?」
「……」

 途端。
 尭司が真剣な目で、亜夜果を見つめる。
 その目に宿る欲情を読み取り、亜夜果は一緒身動ぎ、しかし、静かに見つめ返す。

「亜夜果……」


 そっと手を伸ばし、亜夜果の体に触れ。
 励ますように微笑む亜夜果を引き寄せ、抱き締める。
 その顎に手をあてがい、上向かせると、口付けしようと顔を近付けて。

「亜夜果……」
「うん?」

 寸前で尭司は動きを止め。

「……お前さ、……ううん、これは俺の失敗だ」
「?」
「なんか、さすがに納豆食べた口で、キスは……ちょっとやめた方がいいよね?」
「……!」
「歯、磨いてきていい? って言うのも、なんか、間抜けだし……何となく」
「……磨く? 歯ブラシ、貸そうか?」
「いや、なんか、ちょっと……メンタル、やられた。今日は、これでガマンする」
 そう言うと、尭司は亜夜果をギュッと抱き締める。
「はあ、やっぱり、ちっちゃいな、亜夜果」
「そう?」
「うん、すっぽり腕に収まって……あ、でも、やっぱり大きいか……」
「……尭司!」
 それが自分の胸のことを指していると分かり、亜夜果は尭司の胸をドンと拳で叩く。
 厚い胸板は、亜夜果の拳くらいではびくともしない。
 こうして抱き締められていると、力強い筋肉の厚みが伝わってくる。
「尭司って、痩せてるように見えるのに。結構筋肉あるのね?」
「鍛えられているし。警察入ってから柔道始めたから、上半身も、前より筋肉ついたかも」
「昔は走ってばっかりだったものね」
「一応全身筋トレしてたけどな。やっぱり、陸上と格闘技とは筋肉の付き方、変わるよ……って、何筋肉トークしてんだ?」
「ふふ」
「亜夜果」
「なあに?」
「ゴメン、やっぱり、歯ブラシ借りて、いい?」
「……ガマンするって、言ったのに」
「……ガマンしなくていいって、言ったのに」

 二人で目を見合わせて笑うと、亜夜果は尭司の手を引き寄せ、洗面所に誘導した。
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