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27、青の魔女の唇は
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拓光とマクスウェルは、二人の魔女の戦いをただ、見ているだけしかできなかった。
いや、それはとても戦いと呼べるほどのものではなかった。
青の魔女が、柏木アリサをただ一方的に蹂躙し続けるだけの、遊びだ。アリサは青の魔女に一切の抵抗もできていない。
瓦礫の中の鉄骨がアリサを串刺しにし、青い炎がアリサを焼く。青い雷がアリサを直撃し、ガラスの破片がアリサの動脈を何度も切り裂く。
最初は勢いよく飛び出していったアリサも、あっという間に膝をつき、今ではうなだれてしまっている。それでも倒れ込んでいないのは、彼女なりの最後の意地なのだろう。
その両ひざの下には血だまりができている。とても、一人の人間から流れ出たとは思えないほどのおびただしい量だ。けれども、どれだけ血液を失おうとも、アリサは死なない。死ねない以上、この苦痛からは解放されない。
もはや、その肺に酸素を供給できているのかどうかさえも怪しいほどに、弱々しくなった呼吸。それでも、アリサの瞳からは光は消えていない。
「まだ折れないのね、貴方。反吐が出るほどに立派だわ」
青の魔女のその顔に、テクスチャのように張り付けていた機械的な笑みが消える。
「まだやるの? 正直、私飽きてきちゃったんだけど」
わざと、大きなあくびをするような仕草を見せる青の魔女。不満げな表情を浮かべながら、彼女は指を鳴らす。すると、その足元の瓦礫の中から一本の鉄骨が飛び出し、アリサを目掛けて飛んでいく。それを、アリサはなんとか体を捻ってかわす。けれども、かわしたはずの鉄骨は空中で軌道を変え、背後からアリサの肩を貫いた。
「っ……」
もはや、声を上げることさえもできなくなっているアリサは、静かにゆっくりと立ち上がる。
なぜ彼女はそうまでして、諦めずに立ち上がるのだろうか。そして、どうして俺はそれをただ見ているだけしかできないのだろう、と拓光は唇を噛む。
力なく立つアリサのその姿に、かつて見惚れてしまった面影は、ない。
――俺は、あの美しいものを守ることができなかったのか。
廃墟の中で初めて見た柏木アリサの姿。それが本当に美しくて、拓光は彼女のことをもっと知りたいと思ったのだ。
それは、単なる好奇心だと思っていた。
魔女という超常の存在に触れる、という非日常の出来事に興奮していたのだ、と。まるで、普段見ることのない実物のオーロラを目の当たりにして、もっとオーロラのことを知りたくなるのと同じような気持ちなのだと思っていた。
けれども、それは違ったのだ。
ボロボロになったアリサの姿を見て、拓光は守ることができなかった、と悔いた。
今ならば、明確にわかる。
――俺は柏木アリサを好きだったんだ。
廃墟の中で彼女を見た時に、もっと彼女のことを知りたいと思い、そして、この美しい人を守れる自分になりたいと思ったのだ。
アリサを守れる人、つまり彼女にとって特別な存在に自分がなりたいのだと思っていた。彼女の隣に並び立つのは、自分でありたい、と。その独占欲の名を、人は愛だとか恋だと言うのだろう。
今さら、改めて確認するようなことではない。初めて彼女を目にしたあの瞬間に、拓光は恋に落ちていたのだ。
今、アリサは輝きを失い、くすんでしまっているのかもしれない。けれども、今ならばまだ間に合うかもしれない。取り戻せるかもしれない。
そして、青の魔女を……
青の魔女と柏木アリサ。対峙するその二人の間に、正確にはアリサの目の前に拓光は飛び出して割って入る。そして、両手を広げる。
「もう、やめにしよう」
魔法も使えず、魔法に関する科学技術も知識も持っていない、ただの普通の人間。そんな人間が魔女と魔女の間に割って入る、というのがこんなにも心許ないものなのか。と、アリサは泣きそうになる。
「桐宮、拓光。貴方も邪魔をするのね……いえ、確か貴方も私の計画には反対だったわね」
と青の魔女は唇の端を持ち上げる。
「柏木、もうこれ以上キミが傷つく必要はない」
「桐宮くん、そこをどいて。貴方に心配なんてされなくても大丈夫。私なら大丈夫だから……」
「ゴメン、柏木。違うんだ」
「なにが違うのよ」
「今、俺が語りかけているのはキミじゃない」
そう言って、拓光は青の魔女の目を真っ直ぐに見る。
「俺が今、話しているのはキミだ。未来の柏木アリサ、青の魔女」
「私に……?」
青の魔女は未来から来た柏木アリサだ。だから、彼女に向けて柏木、と呼びかけるのは決して間違いではない。
けれども、青の魔女自身、他の人から柏木と呼ばれることがあまりに久しぶりで、拓光が自らに話し掛けているのだと、気付けなかった。
「そうだ。柏木、もうやめにしよう。これ以上傷付かなくていい」
「……は。何を言いだすかと思えば。これ以上傷付かないために、私はこの世界を切り取ることを決めたの。永遠に続いていく幸せを得るための工程に苦痛なんて無い。そもそも、そこの柏木アリサと私の戦力差は歴然。見ての通り、彼女は私に傷ひとつ付けることさえもできていない」
「でも、キミだって、本当はこんなこと望んではいないんだろう?」
拓光のその言葉に、青の魔女は小さく片眉を上げる。
「どうしてそう思うの?」
「だって、キミは柏木アリサだ。どんなに時が経っていても、今ここにいる柏木アリサの延長線上にキミがいる。そして、現在のアリサは永遠を否定している。なら、キミも本当はそんなものを望んでいないはずだ」
「私は八十万年以上生きてきているのよ。その間に色々なものを経験し、体験してきた。そうして考え方が変わっていくのは当然のことでしょう? 八十万年というのは、文明さえも滅びゆく歳月なのよ。人ひとりの思考なんて、変化して当然でしょう。私は、そこにいる十七歳の柏木アリサとは別人なの」
別人、と拓光は小さく反芻してから、首を振る。
「いや、やっぱり別人なんかじゃない。キミは柏木アリサだ」
「わからないの? 水が氷に変化するのとはわけが違うの。長い歳月の間に、川が干上がって砂漠になり、その砂漠の上に雪が降り積もるほどの変化なの。元あった川なんて、もうその痕跡すら残っていない」
「でも、そこまでの変化をキミはしていないだろう?」
「どうして変化していないだなんて、貴方が言えるの?」
「だって、俺がキミに囚われていたのは、ほんのわずかな間だけだったけれども、その時話をしたキミはやっぱり柏木アリサだった。俺の知っている、現在の柏木アリサとなんら変わりなかったよ。笑った顔なんて、今の時代の柏木アリサとまったく同じだったよ。きっと、あの時俺はキミが柏木アリサであることに、気付いていたのかもしれない。だから、キミが自らを柏木アリサだと告白したときも、そこまで驚きはしなかった。ああ、やっぱり。と、どこか納得していたんだ」
「……で? それがどうしたというの? それはあくまでも貴方個人の主観による意見でしょう。ただ、貴方が勝手にそう思っただけ。そう思うのは貴方の自由よ。でも、私自身は変わっていないとは思わない。そこに立つ、十七歳の頃の私とはもはやまったく別の思考を抱く別人よ。だから、この街を切り取る、という計画を今さら撤回するつもりもない」
「……そっか。なら、俺はキミを止める」
そう言って、拓光は広げていた両手を下げ、一歩前に踏み出す。
「ちょっと、桐宮くん」
アリサがその手を取ろうと、右手を伸ばすものの、届かない。
「あら、とっても勇敢ね。でも、貴方は魔女ではなく普通の人間でしょう? そこの魔法研究家のマクスウェルならまだしも、貴方に一体何ができるというのかしら」
と、嗤って青の魔女は人差し指を小さく振るう。
瓦礫の中から飛び出したガラス片が拓光の左腕に刺さる。
「うっ……ぐっ!」
「桐宮くん!」
アリサの声が聞こえたものの、拓光は振り返らない。ガラスが刺さった腕から流れ出る血液が指先から滴り落ちる。生温いその液体の感触が気持ち悪い。
「ああ、そうそう。私のこの理想の街において、基本的に人は死なないわ。だって、永遠に続くのに、人間が死んでしまっては元も子もないでしょう。だから、この街の住人は死なないように私が設定している。けど、それも私のさじ加減一つよ。つまり、桐宮拓光。貴方は私が殺そうと思えば殺せるの」
「……まあ、そうだろうね」
それは当然のことだろう。この街の中では、彼女は神に等しい存在なのだから。
腕に刺さったガラスを、抜くべきなのだろうか。いや、こういったものは抜かない方がいい、と映画か何かで見たような気がする。
結局、そのガラスは抜かずに、拓光はもう一歩前に進む。
傷口は熱を持ち、指先は少し痺れている。けれども、柏木アリサはこんなものなんかより、ずっと痛い思いをしてきている。それこそ、普通の人間ならば、死んでしまうほどの苦痛でさえ、彼女は死ねずに生き延びてしまう。その苦痛に比べれば、ガラス片ひとつ刺さっただけの傷なんて、傷とは呼べない。
「あら、死ぬのは怖くないのかしら」
青の魔女は見下すように囁く。
怖くないわけがない。けれども、死ぬことよりも、柏木アリサが輝きを失ってしまうことのほうが怖い。
魔女との距離は約二十メートル。走れば、五秒もせずに届く。
思い切って、拓光は走り出す。
それは唐突だったからだろう。青の魔女は、一瞬怯み、硬直する。その間に、拓光と魔女との距離はもう十メートルほどにまで縮まっている。
「う、くっ……!」
慌てて魔女は人差し指を振るう。
瓦礫の中から、ガラス片、鉄骨、コンクリートの塊が無数に飛び出し、拓光に向かってくる。
――ギリギリ間に合わないか⁉
けれども、その青の魔女が飛ばした瓦礫の破片たちは拓光には届かない。
拓光の背後で動けなかったアリサが手を伸ばして、青の魔女の飛ばした破片を、同じく瓦礫の破片をぶつけて落として、拓光を守っている。
突然走り出した拓光が、なにを考え、なにをしようとしているのか、アリサにはわからない。それはほとんど反射的に反応してしまっただけで、拓光を守ろうと意図したわけではない。けれども、拓光を守ることができたという結果に、安堵する。
拓光は止まらず走り抜ける。
目前にまで迫った拓光に、青の魔女は一歩後退り、上体は少し仰け反る。
構わず拓光はそのまま突っ込んでいく。もう、その手は青の魔女に届く。右腕を伸ばし、魔女の頭の後ろに回す。
そして、そのまま青の魔女の顔を寄せて、その唇に自らの唇を重ねる。
もう、これしかないと思った。これ以外に解決法が思いつかなかった。青の魔女は死なない。けれども、キスをすることによって、彼女はその力を失う。力を失えば、魔法も解けて、街は元に戻るのだろう。
そう彼女は言っていた。
青の魔女の唇は、思っていたよりも暖かかった。暖かくて、なんの味もしなかった。
いや、それはとても戦いと呼べるほどのものではなかった。
青の魔女が、柏木アリサをただ一方的に蹂躙し続けるだけの、遊びだ。アリサは青の魔女に一切の抵抗もできていない。
瓦礫の中の鉄骨がアリサを串刺しにし、青い炎がアリサを焼く。青い雷がアリサを直撃し、ガラスの破片がアリサの動脈を何度も切り裂く。
最初は勢いよく飛び出していったアリサも、あっという間に膝をつき、今ではうなだれてしまっている。それでも倒れ込んでいないのは、彼女なりの最後の意地なのだろう。
その両ひざの下には血だまりができている。とても、一人の人間から流れ出たとは思えないほどのおびただしい量だ。けれども、どれだけ血液を失おうとも、アリサは死なない。死ねない以上、この苦痛からは解放されない。
もはや、その肺に酸素を供給できているのかどうかさえも怪しいほどに、弱々しくなった呼吸。それでも、アリサの瞳からは光は消えていない。
「まだ折れないのね、貴方。反吐が出るほどに立派だわ」
青の魔女のその顔に、テクスチャのように張り付けていた機械的な笑みが消える。
「まだやるの? 正直、私飽きてきちゃったんだけど」
わざと、大きなあくびをするような仕草を見せる青の魔女。不満げな表情を浮かべながら、彼女は指を鳴らす。すると、その足元の瓦礫の中から一本の鉄骨が飛び出し、アリサを目掛けて飛んでいく。それを、アリサはなんとか体を捻ってかわす。けれども、かわしたはずの鉄骨は空中で軌道を変え、背後からアリサの肩を貫いた。
「っ……」
もはや、声を上げることさえもできなくなっているアリサは、静かにゆっくりと立ち上がる。
なぜ彼女はそうまでして、諦めずに立ち上がるのだろうか。そして、どうして俺はそれをただ見ているだけしかできないのだろう、と拓光は唇を噛む。
力なく立つアリサのその姿に、かつて見惚れてしまった面影は、ない。
――俺は、あの美しいものを守ることができなかったのか。
廃墟の中で初めて見た柏木アリサの姿。それが本当に美しくて、拓光は彼女のことをもっと知りたいと思ったのだ。
それは、単なる好奇心だと思っていた。
魔女という超常の存在に触れる、という非日常の出来事に興奮していたのだ、と。まるで、普段見ることのない実物のオーロラを目の当たりにして、もっとオーロラのことを知りたくなるのと同じような気持ちなのだと思っていた。
けれども、それは違ったのだ。
ボロボロになったアリサの姿を見て、拓光は守ることができなかった、と悔いた。
今ならば、明確にわかる。
――俺は柏木アリサを好きだったんだ。
廃墟の中で彼女を見た時に、もっと彼女のことを知りたいと思い、そして、この美しい人を守れる自分になりたいと思ったのだ。
アリサを守れる人、つまり彼女にとって特別な存在に自分がなりたいのだと思っていた。彼女の隣に並び立つのは、自分でありたい、と。その独占欲の名を、人は愛だとか恋だと言うのだろう。
今さら、改めて確認するようなことではない。初めて彼女を目にしたあの瞬間に、拓光は恋に落ちていたのだ。
今、アリサは輝きを失い、くすんでしまっているのかもしれない。けれども、今ならばまだ間に合うかもしれない。取り戻せるかもしれない。
そして、青の魔女を……
青の魔女と柏木アリサ。対峙するその二人の間に、正確にはアリサの目の前に拓光は飛び出して割って入る。そして、両手を広げる。
「もう、やめにしよう」
魔法も使えず、魔法に関する科学技術も知識も持っていない、ただの普通の人間。そんな人間が魔女と魔女の間に割って入る、というのがこんなにも心許ないものなのか。と、アリサは泣きそうになる。
「桐宮、拓光。貴方も邪魔をするのね……いえ、確か貴方も私の計画には反対だったわね」
と青の魔女は唇の端を持ち上げる。
「柏木、もうこれ以上キミが傷つく必要はない」
「桐宮くん、そこをどいて。貴方に心配なんてされなくても大丈夫。私なら大丈夫だから……」
「ゴメン、柏木。違うんだ」
「なにが違うのよ」
「今、俺が語りかけているのはキミじゃない」
そう言って、拓光は青の魔女の目を真っ直ぐに見る。
「俺が今、話しているのはキミだ。未来の柏木アリサ、青の魔女」
「私に……?」
青の魔女は未来から来た柏木アリサだ。だから、彼女に向けて柏木、と呼びかけるのは決して間違いではない。
けれども、青の魔女自身、他の人から柏木と呼ばれることがあまりに久しぶりで、拓光が自らに話し掛けているのだと、気付けなかった。
「そうだ。柏木、もうやめにしよう。これ以上傷付かなくていい」
「……は。何を言いだすかと思えば。これ以上傷付かないために、私はこの世界を切り取ることを決めたの。永遠に続いていく幸せを得るための工程に苦痛なんて無い。そもそも、そこの柏木アリサと私の戦力差は歴然。見ての通り、彼女は私に傷ひとつ付けることさえもできていない」
「でも、キミだって、本当はこんなこと望んではいないんだろう?」
拓光のその言葉に、青の魔女は小さく片眉を上げる。
「どうしてそう思うの?」
「だって、キミは柏木アリサだ。どんなに時が経っていても、今ここにいる柏木アリサの延長線上にキミがいる。そして、現在のアリサは永遠を否定している。なら、キミも本当はそんなものを望んでいないはずだ」
「私は八十万年以上生きてきているのよ。その間に色々なものを経験し、体験してきた。そうして考え方が変わっていくのは当然のことでしょう? 八十万年というのは、文明さえも滅びゆく歳月なのよ。人ひとりの思考なんて、変化して当然でしょう。私は、そこにいる十七歳の柏木アリサとは別人なの」
別人、と拓光は小さく反芻してから、首を振る。
「いや、やっぱり別人なんかじゃない。キミは柏木アリサだ」
「わからないの? 水が氷に変化するのとはわけが違うの。長い歳月の間に、川が干上がって砂漠になり、その砂漠の上に雪が降り積もるほどの変化なの。元あった川なんて、もうその痕跡すら残っていない」
「でも、そこまでの変化をキミはしていないだろう?」
「どうして変化していないだなんて、貴方が言えるの?」
「だって、俺がキミに囚われていたのは、ほんのわずかな間だけだったけれども、その時話をしたキミはやっぱり柏木アリサだった。俺の知っている、現在の柏木アリサとなんら変わりなかったよ。笑った顔なんて、今の時代の柏木アリサとまったく同じだったよ。きっと、あの時俺はキミが柏木アリサであることに、気付いていたのかもしれない。だから、キミが自らを柏木アリサだと告白したときも、そこまで驚きはしなかった。ああ、やっぱり。と、どこか納得していたんだ」
「……で? それがどうしたというの? それはあくまでも貴方個人の主観による意見でしょう。ただ、貴方が勝手にそう思っただけ。そう思うのは貴方の自由よ。でも、私自身は変わっていないとは思わない。そこに立つ、十七歳の頃の私とはもはやまったく別の思考を抱く別人よ。だから、この街を切り取る、という計画を今さら撤回するつもりもない」
「……そっか。なら、俺はキミを止める」
そう言って、拓光は広げていた両手を下げ、一歩前に踏み出す。
「ちょっと、桐宮くん」
アリサがその手を取ろうと、右手を伸ばすものの、届かない。
「あら、とっても勇敢ね。でも、貴方は魔女ではなく普通の人間でしょう? そこの魔法研究家のマクスウェルならまだしも、貴方に一体何ができるというのかしら」
と、嗤って青の魔女は人差し指を小さく振るう。
瓦礫の中から飛び出したガラス片が拓光の左腕に刺さる。
「うっ……ぐっ!」
「桐宮くん!」
アリサの声が聞こえたものの、拓光は振り返らない。ガラスが刺さった腕から流れ出る血液が指先から滴り落ちる。生温いその液体の感触が気持ち悪い。
「ああ、そうそう。私のこの理想の街において、基本的に人は死なないわ。だって、永遠に続くのに、人間が死んでしまっては元も子もないでしょう。だから、この街の住人は死なないように私が設定している。けど、それも私のさじ加減一つよ。つまり、桐宮拓光。貴方は私が殺そうと思えば殺せるの」
「……まあ、そうだろうね」
それは当然のことだろう。この街の中では、彼女は神に等しい存在なのだから。
腕に刺さったガラスを、抜くべきなのだろうか。いや、こういったものは抜かない方がいい、と映画か何かで見たような気がする。
結局、そのガラスは抜かずに、拓光はもう一歩前に進む。
傷口は熱を持ち、指先は少し痺れている。けれども、柏木アリサはこんなものなんかより、ずっと痛い思いをしてきている。それこそ、普通の人間ならば、死んでしまうほどの苦痛でさえ、彼女は死ねずに生き延びてしまう。その苦痛に比べれば、ガラス片ひとつ刺さっただけの傷なんて、傷とは呼べない。
「あら、死ぬのは怖くないのかしら」
青の魔女は見下すように囁く。
怖くないわけがない。けれども、死ぬことよりも、柏木アリサが輝きを失ってしまうことのほうが怖い。
魔女との距離は約二十メートル。走れば、五秒もせずに届く。
思い切って、拓光は走り出す。
それは唐突だったからだろう。青の魔女は、一瞬怯み、硬直する。その間に、拓光と魔女との距離はもう十メートルほどにまで縮まっている。
「う、くっ……!」
慌てて魔女は人差し指を振るう。
瓦礫の中から、ガラス片、鉄骨、コンクリートの塊が無数に飛び出し、拓光に向かってくる。
――ギリギリ間に合わないか⁉
けれども、その青の魔女が飛ばした瓦礫の破片たちは拓光には届かない。
拓光の背後で動けなかったアリサが手を伸ばして、青の魔女の飛ばした破片を、同じく瓦礫の破片をぶつけて落として、拓光を守っている。
突然走り出した拓光が、なにを考え、なにをしようとしているのか、アリサにはわからない。それはほとんど反射的に反応してしまっただけで、拓光を守ろうと意図したわけではない。けれども、拓光を守ることができたという結果に、安堵する。
拓光は止まらず走り抜ける。
目前にまで迫った拓光に、青の魔女は一歩後退り、上体は少し仰け反る。
構わず拓光はそのまま突っ込んでいく。もう、その手は青の魔女に届く。右腕を伸ばし、魔女の頭の後ろに回す。
そして、そのまま青の魔女の顔を寄せて、その唇に自らの唇を重ねる。
もう、これしかないと思った。これ以外に解決法が思いつかなかった。青の魔女は死なない。けれども、キスをすることによって、彼女はその力を失う。力を失えば、魔法も解けて、街は元に戻るのだろう。
そう彼女は言っていた。
青の魔女の唇は、思っていたよりも暖かかった。暖かくて、なんの味もしなかった。
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