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第3章
逢魔 1
しおりを挟む最初は、ヒマなんだ。
会社ごとに仕事の進め方は違う。
人間関係もある。
どれだけ職務経験はあろうとも、最初から、仕事なんてまかせてもらえない。
だから、最初はヒマでいい。
最初だけだから……。
わかっていても、遼は、満たされない思いだった。
住居を変え、仕事を変え……。
パワーネット社に、勝手に辞表を送られたことは、本当に腹が立った。
会社に乗り込んで、辞表を撤回しようかと、本気で思った。
だが、よく考えてみると、自分は、あの会社が好きなわけではない。忠義を尽くす気など、毛頭ない。あれほどの激務を、定年まで続けるなんて、こちらから願い下げだ。
パワーネット社は、蒼を過労死に追い込んだ会社だともいえる。
そこに何年も在籍し続けたなんて、自分は、どうかしていた。
本当なら、三年前、蒼が死んだときに、辞表を叩き付けるべきだったのだ。
そう気づくことができたのは、石川の家でよく休んだせいかもしれない。
実際、あれほど眠ったことは、今までになかった。
食事も、きちんと摂らせてもらえた。
食事……ごみ箱に捨てられた冷凍保存袋を思い出し、遼の胸がちくりと痛んだ。
……あいつ、自分が料理ができないからといって、恋人に料理を作らせるなんて。
……それを、この俺に食べさせるなんて。
石川のことは、何とも思っていないといったら、嘘になる。
街や公園を意味もなく歩いたり、映画を見たり。
それらは確かに、楽しかった。
過保護なまでの心配は鬱陶しくはあったが、その鬱陶しさの底に、微かな心地よさを感じた。
気にかけてもらえているという、心地よさだ。
心が、動きかけているのかもしれなかった。
でも、あいつは、自分とセックスをした。
つまりあの男は、その程度の人間なのだ。
自分とセックスするような、価値のない……。
もっと悪い。
あの男には、ちゃんと女の恋人がいる。それなのに、あいつは、自分に手を出した。
いや。
あいつは、もともと、普通なのだ。
そう。
自分は蒼を、拒絶した。
同じ理由で、あいつも拒絶しなければならない。
もう、忘れるべきだ、と思った。
大丈夫、簡単に忘れられる。
仕事をしていれば。
仕事に没頭していれば。
転職は、思いのほか、簡単だった。
経験がものをいった。
なあんだ、と、遼は思った。
どこでだって働ける。
それなのに、まだ、大した仕事は任せてもらえない。
与えられた仕事は、すぐ、片付いてしまう。
ヒマでヒマで、たまらない。
……ねえ、柳ヶ瀬さん。あなたの背中には、羽根があるんだ。真っ白で光り輝く羽根が、ね。
だが、そう言った蒼は、ここにはいない。
二人で会社を創ることは、もう、永遠にない。
ひとりぼっちで、自分はどこまで飛ぶのだろうか。
飛ばなければならないのか。
……「あんたのカエはいくらでもいる」
石川のやつ、ひどいことを言ったな。
遼は思った。
ひどいことではあるが、正論だ。
自分は取り換え可能な部品として、ブラックな会社を渡り歩くのだ。
生身の体に仕込まれた電池が切れるまで。
石川の家を出たその日のうちに、スマホを替えた。
電話番号とメールアドレスも替え、古いアドレスは削除した。
過去に関係してきた男たちとは、こうではなかった。
もっとゆるく、次第に連絡が途絶え、しつこい場合には、きっぱりと会う意思はないと伝えた。
それほどひどい言葉を使う必要はなかった。
なぜなら、傷つけあうほどの関係ではなかったからだ。
人は、深く知れば知るほど、相手を傷つけることができる。
単に体だけの関係なら、そこまで強い態度に出る必要はない。
そもそも、連絡手段は、スマホアプリだけだった。
だが、石川には、自分のもっと深いところを握られた感じがする。
当然、住所も知られているだろう。
あいつは絶対、追ってくる。
そう確信した途端、運送会社に連絡を入れていた。
夜逃げ専門の運送屋だ。
男の依頼であっても、その事務的な態度は変わらなかった。
石川の家から逃げ出したその日のうちに、引っ越した。
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