ナポレオンの妊活・立会い出産・子育て

せりもも

文字の大きさ
26 / 38

26 ロシア遠征における医師の責任

しおりを挟む



 ドレスデンから、ナポレオンはポーランドへ旅立っていた。そこから、ロシアへ向けて、侵攻を開始した。
 短かった平和の終焉だった。ヨーロッパはまた、戦乱の渦に巻き込まれていく。同時にそれは、ナポレオン自身の没落の始まりでもあった。





 ……やっぱり、あれがまずかったかなあ。
 パリでは、ローマ王の断乳を見届けたコルヴィサール医師が悩んでいた。

 それは、出産の少し後のことだった。ローマ王の検診に訪れたコルヴィサールは、皇帝の部屋に立ち寄った。
 息子の順調な生育具合に、皇帝は、大層、満足げだった。言うなら今だと、コルヴィサールは思った。

 「今回のお産は、皇妃様におかれましては、大変なご負担でした。実は、皇妃様は……」
「皇妃は?」

ナポレオンは怯えたように繰り返した。思い切って、コルヴィサールは先を続けた。
「この先、皇妃様におかれましては、お子をお産みになることは、難しいかと存じます」

 ナポレオンは、長く息を吐き出した。
「女にとって、お産というのは、大変な仕事だものな。男にとっての戦場と同じだ。今回のことで、余も思い知った。その苦しみの中で、皇妃は、ローマ王を与えてくれた。彼女を、再びあんな目に遭わせるくらいなら、子どもは、ローマ王一人でたくさんだ」

 それは、コルヴィサールが予想していた反応とは違った。もっと驚き、嘆くかと思ったのだ。
 子どもは、どんなに大事に育てても、成人できるまで生きられるとは限らない。たとえ王家の子であっても、同じことだ。子どもは一人でいいなどという言葉が、あれだけ世継ぎを望んだナポレオン口から出てくるとは、考えもしなかった。

 ややあって、ナポレオンは、気遣わし気に尋ねた。
「それで、コルヴィサール。あっちの方は、どうなんだ?」

 「あっちの方」が何をさすかは、自明の理だった。この皇帝に、それを禁止することは、サカリのついた獣を欧州全土に解き放つようなものだ。
「それは、問題ないかと」
急いで、コルヴィサールは答えた。



 実はコルヴィサールは、皇妃のマリー・ルイーゼから、極秘に頼まれたのだ。
 ……自分はもう、お産はいやだ。母のように、産褥で死にたくない。

 あんな苦しい目に遭ったのだから、無理もないと、コルヴィサールは同情した。皇后にやたら子を産ませる、オーストリア宮廷の方針に、反感を覚えてもいた。

 ……皇妃様がローマ王に冷淡なのは、ご自分の母親から、同じ扱いを受けていたせいではないか。
 密かにコルヴィサールは疑っていた。皇妃の実母は、亡くなるまで、ほぼ毎年子どもを産んでいる。長女であるマリー・ルイーゼに構っている余裕がなかったとしても、不思議ではない。

 ……いずれそのうち、皇妃様も、お二人目が欲しくなるだろう。
 コルヴィサールは考えた。
 ……皇帝がきちんと夫の務めを果たしていたなら、「思いがけない妊娠」だってありうるわけだし。

 それで、ナポレオンに、あのように奏上したのだ。


 ……まさか、開戦とは。
 ……しかもロシアと!

 次の子を、すぐにも授かれるという見込みがあったなら、ナポレオンは、少なくともあと数年は、皇妃のもとでおとなしくしていたかもしれない。人としての喜びを知り、平穏に浸かりきったまま息子に譲位、ということだってありえたかもしれないのだ。
 ローマ王の元、ヨーロッパの平和は保たれたかもしれないのに!

 疼くような後悔を覚えた。悶々と、コルヴィサール医師は悩み続けた。





 掴みどころのないロシア軍に、フランス軍は、長期戦を強いられた。ロシア兵は、神出鬼没だった。追いかけ、逃げられ、いつの間にか、後戻りのできないところまで来ていた。

 夏。日中の酷暑と、夜の思いがけない寒さで、兵士も馬もやられた。戦乱で物資の補給路が絶たれたが、町々は焼かれており、現地調達もできない。


 8月15日は、ナポレオンの43歳の誕生日だった。
 マリー・ルイーゼからのプレゼントは、少し遅れて、戦場に届いた。
 荷を解くと、それは、大きな絵だった。
「ローマ王だ。素晴らしい!」
 テントの周りに、兵士達が集まってきた。





「諸君!」
ナポレオンが声を張り上げた。
「15歳になったら、わが息子は、この絵とは、随分違ったふうになっているだろう。ただ、その時、彼は、確実に、諸君と共にあり、共に戦っているであろう!」

「ナポレオン、万歳! ローマ王、万歳!」
兵士達の間から、叫び声が上がった。

 不意にナポレオンは、ため息を付いた。
「絵を片付けろ。戦場を見せるには、彼はまだ、幼すぎる」



 モスクワに入ったのは、秋だった。首都は、静まりかえっていた。白昼夢のような静けさの中、ナポレオン軍は、クレムリンの宮殿に入った。
 翌早朝、火事が起きた。この大火で、街の8割が焼き付くされた。


 ナポレオンからの和睦の呼びかけに、ロシア皇帝アレクサンドルは、まだ戦争になってもいないと、鼻で笑った。






しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

処理中です...