45 / 50
第六章 兄と妹
44 赤い袴
しおりを挟む強い風が吹き渡った。木々の葉が舞い落ち、あたり一面に渦巻いた。
風が鼻を、口を塞ぎ、息ができないほどだ。
凄まじい突風に、全てが舞い飛んだ気がした。
気がつくと、夜の都が見えた。
皓皓と月に照らされ、白く輝く大路。
木枯らしが小さく吹き渡る。
酷寒の月下に、下着姿の娘が、一人。
赤い袴をはいている。
ふらふらと、心ここにあらずという風に歩いている。足取りは、まるで酔っ払いのように、心もとない。
遠くから歩いてきたのだろうか。その足は、汚れて傷だらけだ。
右に左に、体が揺れる。
娘の姿が、ふっと消えた。
しばらくして、道端の溝から、白い手が、ぬっと現れた。
溝に落ちたのだ。蓋のしてない溝には、汚れた排水が、膝の高さくらいまで、溜まっていた。
彼女は、渾身の力をこめて、体を持ち上げた。ずぶぬれになって、全身から滴をしたたらせて、溝から這い上がってきた。
冷たい風が吹き渡る。
彼女はしばらく、路に倒れ伏せていた。
盗賊はびこる夜の大路、人は、一人も通らない。
娘が動いた。
何度か身じろぎをして、やっとのことで立ち上がる。
髪が、凍えて固まっている。
こおりつくほどの寒さなのだ。
数歩歩き、そこにあったお邸の門を叩く。
人の気配はあるが、返事はない。
門の内から、息を殺して、外の様子を窺っている。
娘はふらふらとよろめき、真っ直ぐ立っていることができない。
扉の向こうの、人の気配が消えた。
みすぼらしい下着姿に、扉を開けるまでもないと判断したようだ。
女は再び歩き出し、向かいの家の門を叩く。
こちらの家も、反応はない。
しかし、門の扉の向こうから、短い、人の呼吸の音が聞こえる。この家の、使用人であろう。
中の一人が、奥の主人の元へ駆けて行った。
再び走って戻ってきた彼は、静かに首を横に振る。
憐れな娘を、門の内側に入れる許しは、出なかった。
扉は開かれない。
どこからか、野良犬たちが、集まってきた。やせこけた、目つきの鋭い犬たちだ。
飢えた目をして、大路のあちこちから、娘の周りに集まってくる。
意を決したように、娘が、歩き出した。犬の一団も、彼女の後に、蹌踉と付き従う。
土塀の果てに再び現れた門を、娘は、ほとほとと叩く。
返事はない。
次の家。
そのまた、次の家。
どの家の門も、開くことはない。
門番は、暫くの間、じっと、娘の様子をうかがっている。主人のご意向を伺う者もいた。そして、誰かが結論づける。
扉を開ける必要など、ない。
何軒目かの家で、声もなく拒絶された後、娘は、大路に倒れ伏した。
腹を空かせた犬たちが、娘を取り囲んだ。娘は、ぴくりとも動かない。
犬たちの輪が、次第に狭くなっていく。
木の葉が激しく舞い散り、宙に渦巻く。
男が走ってきた。何日も着替えていないような、薄汚いなりをしている。彼は、太刀を抜く間も惜しんで、犬どもの真ん中に飛び込んでいった。
最初の一匹を蹴倒す。しかし、二匹目は、そうはいかなかった。獲物を横取りされた燃える目をした痩せた犬どもが、ぐるりと男を取り囲んだ。
「何をしている、沙醐! 早く漂を!」
大きな声で呼び立てられ、沙醐は、はっと我に返った。
月に照らされた都大路は、あまりに幻想的で、沙醐の正気を惑わしていた。
こんな夜中に、若い娘が一人、寄る辺なく惑っているのに、誰も助けないなどということが、あっていいはずがなかった。
それも含めて、まるで、何かに化かされているような気がしていた。
「沙醐! 早く!」
繰り返されるまでもなかった。沙醐は、犬どもの間を走り抜け、漂の君に駆け寄った。
「漂の君! 漂の君!」
ぐったりと打ち伏しているのを、助け起こす。
その体は、冷たかった。だが、抱き起した時、微かに、うめき声が聞こえた。
「漂は!?」
犬に囲まれ、アラマサが怒鳴る。彼は、大ぶりの太刀を構えていた。
「大丈夫です。生きてます!」
蛍邸に連れ帰れば、百合根が何とかしてくれるに違いない。
「よかった……」
アラマサが、息を吐いた時だった。
犬たちの中で、一番痩せたやつが、唸り声を上げて、彼にとびかかった。
アラマサは肘で受け止め、払い落とそうとする。
一瞬遅く、犬の牙は、彼の腕に、深々と突き刺さった。
苦痛と怒りの叫び声を上げ、アラマサは、犬を切りつけた。
沙醐にさえわかるほど、濃厚な血の匂いが、辺り一面に漂う。人の血と、犬の血の入り混じった、強い匂いだ。
それが、合図だった。
犬たちが、一斉に、手負いの男に飛び掛かっていった。
0
あなたにおすすめの小説
【受賞作】小売り酒屋鬼八 人情お品書き帖
筑前助広
歴史・時代
幸せとちょっぴりの切なさを感じるお品書き帖です――
野州夜須藩の城下・蔵前町に、昼は小売り酒屋、夜は居酒屋を営む鬼八という店がある。父娘二人で切り盛りするその店に、六蔵という料理人が現れ――。
アルファポリス歴史時代小説大賞特別賞「狼の裔」、同最終候補「天暗の星」ともリンクする、「夜須藩もの」人情ストーリー。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる