完結済 『キスを待つ頬骨』

水ぎわ

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第1章「ロンリーカナリア」

第7話「産まれたかもしれない子供は、男の身体にいつまでも後悔となって残る」

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(karosiebenによるPixabayからの画像 )

 翌日、清春は休日であるにもかかわらず、仕事用のダークスーツを着て、午前中に職場であるコルヌイエホテルにやってきた。午前中を選んだのは、夕方からメインバーに出勤する親友、深沢洋輔と会いたくないからだ。
 コルヌイエホテルは宿泊棟が3つ、総客室が1500室にもなる巨大ホテルだ。ここに清春と洋輔、清春の異母妹であり、洋輔の恋人でもある渡部真乃(わたべまの)が勤務している。もっとも真乃は、休暇中で、こっそりコルヌイエに止まっているのだが……。

 清春はかるくダークスーツの襟を整えながら、従業員入り口からロビーを抜けて宿泊棟へ入った。真乃が泊まっているエグゼクティブフロアの、ダブルの部屋をノックする。
 あらかじめ来訪を知らされていた真乃は、すぐにドアを開けた。
 朝の光の中、メイクと身じまいを済ませた真乃は、疲れが見えるが、やはり華やかに美しい。清春は黙って部屋に入り、窓ぎわに立って腕組みをした。言いたいことがあるのなら、妹から言ってくるだろう。

 しかし真乃は何も言わず、ただぐったりと小さな椅子に座り込んでいる。清春は、いたましげな視線で異母妹に見た。

「——真乃。なにか、おれに言うことがあるだろう?」
 うん、と真乃は短く答えた。それだけ言うのさえ、つらいと言った雰囲気だ。清春はかっきりした形のいい眉をひそめる。
 女が妊娠すると、こんな様子なのだろうか。
 身近に妊婦を見たことがない清春は、妹の様子の変化に戸惑いを隠しきれない。ようやく真乃が、口を開く。

「あたしがコルヌイエに泊まっていること、洋輔には、ばれていない?」
「まだな。だが、時間の問題だぞ」
「明後日にはアウトして、オリエンタルホテルのスイートに移るわ。それまで、黙っていてよキヨちゃん」

 ふむ、と清春はうなった。
 真乃が、住みかをコルヌイエからオリエンタルホテルに移したところで、根本的な問題解決にはならない。真乃の胎内の命は育って行き、やがて、産むしかないところまで成長するだろう。
 父親である、洋輔のあずかり知らぬところで、子供だけが育っていく。

 もし、おれが同じ状況になったらどうだろう? そう考えて、清春はぞっとした。
 子供ができるのも困るが、なによりも、自分の子供が生まれる事実を知らされないということが恐ろしい。もっと恐ろしいのは、女が産まない選択をして、男が何も知らないうちに血を分けた子供が消えることだ。

 すべては、終わってから男に告げられる。
 産まれたかもしれない子供は、男の身体にいつまでも後悔となって残るだろうと清春は思う。たとえそれが、欲しいと思っていない子供であっても。
 清春は、眉間をこすった。

「おれはおまえが、負け犬みたいに洋輔から逃げているのを見たくない。問題があるのなら、一度、洋輔と会って、きちんと話せ」
「話したくないの」

 ぐったりとしていた真乃は、ここだけは強い語気で言い切った。
「真乃、いつまでも洋輔から逃げることはできないぞ」
「なぜよ」

 と、清春の美しい妹は悪びれずに言った。

「洋輔には、関係のないことよ。ただ、知られたくないの」

 そう言う真乃からは、かすかに、甘いディオリッシモの香りがする。真乃は昔から、この花の香りがするトワレか、エルメスの“ナイルの庭”を使っていた。いつもより香りが濃厚でないのは、体調が悪いせいだろう。

「ねえ、キヨちゃん。よく考えたいのよ。あたしの人生にとって、大事なことだから」

 清春は軽く舌打ちして妹の前に立ち、その小柄で、きゃしゃな身体を見おろした。身長が百八十五センチある清春が上から見下ろすと、かなり圧迫感があるはずだ。
 こんな状態の妹を責めてはいけないと思うものの、清春は男としていら立ちを隠せない。

「真乃、おまえ、子供がいるな?」

 びくん、と真乃の肩が震えた。
 ああ、佐江ちゃんが言ったことは本当だったのだ、と清春は男を狂わせる唇を思い出しながら、ひそかにため息をついた。
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