完結済 『キスを待つ頬骨』

水ぎわ

文字の大きさ
8 / 153
第1章「ロンリーカナリア」

第8話「——この子が欲しいの、何があっても。でも洋輔は子供なんか欲しくない」

しおりを挟む

(Photo by Jill Sauve on Unsplash)

 
 真乃(まの)は、コルヌイエホテルのダブルルームでくったりと座っている。清春は異母妹に向かい、
「——どうするんだ。産むのか?」
 真乃はうつむいた。

「わからない」
「産むか産まないか。今ならまだ、おまえが決められるぞ。産まないつもりなら、洋輔に知られる前に、行動しろ。遅くなればなるほど、やっかいな事になる」
 清春の言葉に、真乃はようやくいつものようにニヤリと笑ってみさえた。

「なんだか、やけにリアルな話ね。キヨちゃん、女を妊娠させたことがあるみたい」
 清春は苦笑して
「あのな、おれが女と寝るときは、妊娠の可能性なんか1%も残さないよ。おれのおふくろは愛人だった。あの人は、望まなかった妊娠のせいで一生を棒に振ったんだ。しかしまあ、人生にはいろいろあるからな。
まずは、おまえの意志が重要だ」

 真乃はようやく身体を起こして、話しはじめた。
「昨日ね、佐江にはもう話したの。彼女は、産んだほうがいいって言ったわ。あたしも28歳だし、この子供をあきらめたらもったいないって。そうね、もし妊娠したのが佐江なら、彼女はきっと産むでしょうよ」

 ”佐江(さえ)”という名前に、清春の耳が反応した。昨日見たばかりの、清廉な岡本佐江の姿が頭に浮かぶ。
 同時に、自分を襲った魔のような激しい欲情がよみがえった。有無を言わさず清春を引き倒したあの欲情は、いったい何だったのか。
 そんなことに関係なく、真乃の話は続く。

「佐江なら、うっかり妊娠なんてしない。そもそも、うっかり男と寝るなんて絶対にしないから。彼女は昔から、自分がやっていることを完璧にコントロールしているのよ。あら、こういうところ、キヨちゃんと佐江は似ているわよ」
 岡本佐江が、男と寝る?
 清春の顔が、はっきりとしかめ面に変わった。
 清春は彼女のことを、誰とも話したくない。たとえそれが、血のつながった妹であっても。
 あるいは、血のつながった妹だからこそ、話したくないのかもしれない。

 清春は、静かに言った。
「真乃、少しでも迷いがあるなら、産むな。生まれてくる子供のことを考えろ。産むってことは、おまえが母親になるってことなんだ」

 こういいながら、清春は自分をあざ笑っている。
 おまえ自身は、父の苗字さえ与えられなかった愛人の子のくせに、何を偉そうに話しているんだ。
 清春は、真乃の小さな頭をぽんぽんとたたいた。

「まあ、いい。洋輔に知られたくないなら、あと一日、おとなしく部屋にこもっていろよ。おれは明日の日勤シフトに入っているから、何かあれば、言え」
 うん、と素直に真乃はうなずいた。そして兄を見上げて
「ねえ、キヨちゃん」
「なんだ?」
「——この子が欲しいの、何があっても」
 ささやくように、真乃はそう言った。

 清春は、思わず目を見開いて妹の小さな身体を見た。
 身のうちに、清春の親友の子供を抱いている妹だ。

「あたしは、この子が欲しいのよ。だって、洋輔の子供なのよ。でも洋輔は、子供が欲しくない。だから、迷うんじゃないの」

 真乃は、そそけだったような表情で、足元の絨毯を眺めていた。
 その表情を見て、清春は簡潔に言った。
「じゃあ、産むんだな」

 真乃の意思が産む方向に向かっている以上、清春に言えることはもうなかった。

「洋輔にばれないように、産めよ。産めば、あとはおれが何とかしてやる」
 清春がそう言うと、真乃はくくくっと苦しげに笑った。

「なんだよ? おれは本気だぞ」
「うん、分かってる。キヨちゃんがまかせろっていう時は、100%たよりにできるって、ことだもん。おかしかったのはね、佐江も同じことを言ったからよ」

 清春は、ようやく笑顔を取り戻した妹の顔を、まじまじと見た。
「——なんだって?」
「だから、佐江も、あたしが子供を産んだら何とかしてくれるって言ったのよ。
ねえ、あなたたち二人、事前に打ち合わせたわけじゃないわよね?
独身ふたりが、いったいどうやってあたしと子供を助けてくれるつもりなのかしら」

 と真乃は言葉を切り、何かから解放されたかのように笑いはじめた。

「ねえ、キヨちゃん。あなたいっそ、佐江と結婚したらどう? あたしと洋輔よりは、よっぽど似合いの夫婦になるわよ」

 清春は、とめどなく笑い続ける妹をみて、うんざりしたように言った。
「もういいよ、おまえは自分のことだけを考えろ。身体を大事にしろよ」
「キヨちゃん、いろいろありがとう」
「おまえは妹だ、仕方がないよ」
「あたしがキヨちゃんなら、こんな妹、助けようなんて思わないわ。キヨちゃん、人が良すぎる」
「おまえに言われたくない」

 すっかり苦い顔になった清春は、ホテルルームを出た。客室のドアを閉めても、まだ、真乃の軽やかな笑い声が聞こえてきた。


★★★
 翌日、清春は午後からのシフトで勤務に入った。
 ホテルマンは時間が不規則だ。慣れないうちは戸惑うが、やがてカレンダーは単なる数字表になり、自分のシフト表だけが生活を支配するようになる。

 清春はダークスーツ姿で、シルバーフレームの眼鏡をなおしながらコルヌイエホテルのロビーに入った。

 レセプションカウンターの中でスタッフを打ち合わせている時、深沢洋輔の華やかな姿がロビーを横切っていくのが見えた。清春は反射的に時計を見た。
 午後四時半、バーテンの洋輔が職場にいて、おかしくない時間だ。

 この時間なら、真乃も用心しているから、ロビーに出てこないはずだ。
 清春がそう思ったとき、あわただしく客用エレベーターに駆け込む真乃の姿を見た。時間を気にした真乃は、とりいそぎ、エレベーターに乗り込んでしまえばいいと思ったらしい。身を隠すこともせず、ただ急いでエレベーターに向かっていた。

 真乃のきゃしゃな身体がエレベーターに消えた瞬間、洋輔がちらりとそちらを見た。そして、わずかな時間だが動きを止めた。
 清春の背中に、イヤな予感が走る。
しおりを挟む
感想 22

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...