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第13章「姫の逆襲」

第112話「かしま・しろう」

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(UnsplashのRichard Stachmannが撮影)


 今野はたまらず、環を押し倒した。柔らかい身体を強く抱きしめ、こめかみに軽くキスをする。
 ……いい匂いがした。
 植物性の油のような清涼感のある香り。
 男の欲情をあおりつつ、じょうずにコントロールしてくれる匂いだ。

「”哲史《てつし》さん”っつうの。なんか、無性にエロいよ。ねえ、もう一回いって」
「……いやです、恥ずかしい。あの、Kが苗字のひとは今野さん以外にもまだいるんですよ、ほら、御稲《みしね》先生も”北方《きたかた》”だからKです」

 環は、亡き松ヶ峰紀沙の親友、御稲の名をあげた。
 しかしこれも”みしね”でMだから、イニシャルを逆にしてもK・Sとは合致しない。
 今野と環はしばらくあれこれと考えてみたが、やはり紀沙と松ヶ峰家の周辺でK・Sのイニシャルを持っている人間はいなかった。

「あきらめなよ、環ちゃん」

 今野は環の身体の上に軽く乗り、柔らかい胸のあいだに顔を乗せて言った。

「逆イニシャルだとしてもK・Sなんていないし、名前がKの人もいねえもん。
 イニシャルから持ち主を割り出すのはあきらめたほうがいいよ。

 しかし、なにか引っかかるな……ま、そんなことより、環ちゃん……」
「あっ……」
「さっきの“哲史《てつし》さん”ってのが、すげえエロかったんだよ。もうちょっと……さわりたい」

 スカートの中をためらいもなく進み、環の柔らかいところにふれるまであと数センチと言うタイミングで、ぴかり、と今野の頭にひらめいた名前があった。

「かしま・しろう」
「ん……え? なんですか」
「『かしま・しろう』だよ。ほら、逆イニシャルだけど、KとSだろ」
「その方、どなたです?」

 環は起き上がって問い直す。
 今野は一瞬ためらった。言ってもいいものかどうか、考えているようだ。
 やがて、静かに口をひらいた。

「環ちゃん、コイツは聡さんには内緒だぜ?
 『鹿島史郎《かしましろう》』ってのは、自由党の鹿島幹事長のだよ。
 もう、何十年も前に亡くなった人だ」
「……なくなられた?」
「事故死だって聞いたよ。しかしちょっと怪《あや》しい部分もあって、警察が調べたとか聞いたな」
「怪しい部分」
「うん。司法解剖の結果で、運転前に多量の睡眠導入剤を飲んでいた形跡が見つかっている。
 自殺の可能性も高かったんだが、結局は事故で済ませたらしいよ。
 何十年も昔の話だけれど、そのころの鹿島幹事長はもう自由党の若手議員のリーダーだったから、家族がらみのスキャンダルは避けたかったんだろう」
「くわしいですね、今野さん」

 環がいぶかしげにきいた。
 その質問のタイミングの良さに、今野は思わずうなった。
 この女の子は柔らかくて温かいだけじゃない。藤島環は頭が切れるのだ。

 これを覚えておかないと今後は困った事になる、と今野は意識のすみで考えた。

「最近、調べたんだよ」
「しらべた? その、亡くなられた鹿島幹事長の弟さんについてですか」

 今野は環の脚のあいだからしぶしぶ手を抜き、じっとその丸い顔を眺めてからゆっくりと言った。

「鹿島史郎さんは、北方先生の昔の恋人だったんだ」
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