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第18章「コルヌイエホテルにて」

第154話「どうしよう、泣けてきた。昨日は、続いている」

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(UnsplashのMimipic Photographyが撮影)
 
 城見龍里《しろみ りゅうり》は長身をかがめ、上着のポケットを叩いた。
うつむいている目じりにしわが寄っている。
 困っているというより、照れているような表情だ。

「チケット……どこだろう。あれをなくすと香港のスタッフに怒られる。なにしろ急に取ったチケットだから正規料金で買わされたんだ」
「もっと探しましょう」
 
 環はもう一度、しゃがみこんだ。目の前に、城見の靴がある。金具がふたつ付いてる修道僧のような靴だ。
 やがて、環は男の座っていた椅子の真下にチケットを見つけた。
 拾い上げて渡す。

「ありがとう。今夜の飛行機だから、失《な》くすと面倒でね」
「今夜? 何時です?」
「深夜ゼロ時。だからあまり時間がなくて。すまないね」

 城見の言葉に環はゆっくりとかぶりを振った。

「こちらこそ、お忙しい時にお時間を取っていただきましてありがとうございました。あの、ここでお話しますか?」

 男は急に我《われ》に返ったように、まわりを見渡した。コルヌイエホテルのライブラリーラウンジは静かだが、いつほかのゲストが入ってきてもおかしくない。

「そうだね。ここだとちょっとまずいな。
 少し、歩いてもいいだろうか。このホテルにはたしか大きな日本庭園があったと思うんだが」
「はい」
「行ってみよう。日本は久しぶりなので、日本らしいところを歩きたいんだ。あ、その前に本をしまって――」

 男は本のページを開きなおし、しおりがわりにチケットを挟んだ。それからふと、誰に言うでもなく、

「”どうしよう、
泣けてきた。

昨日は、続いている”」

 とつぶやいた。環がたずねる。

「それは、詩ですか?」

 うん、と言って男は大きな手で本をしめした。

「梶谷和恵(かじたにかずえ)の『朝やけ』という詩集でね。去年の暮れに出た本らしいよ」
「日本の本ですか」

 環は男とともに小さなライブラリーラウンジを出ながら、微笑んだ。

「城見さまは、長いあいだ日本を離れていらしたとお聞きしましたが」
「ああ。日本を出てもう24年になる。だがこの本は、紀沙《きさ》が最後に送ってくれた本でね」

 『紀沙』という名前に環の足がぴたりと止まった。城見の長身を見上げる。

「おばが、その本をあなたに送ったのですか?」
「ああ」
「でも、その本は去年出版されたものでしょう」
「そうだね」
「では、おばはいったいいつあなたに本を送ったんでしょう……亡くなったのは、今年の三月の初めですが」

 城見は柔らかな笑顔のまま、しかし目じりにせつない色をたたえて答えた。

「本が届いたのは2月の初めだ。それが最後になった。さあ、日本庭園へ案内してくれ。ここはちょっと人が多すぎるね」

 混乱したまま城見の先に立ってコルヌイエホテル自慢の広大な日本庭園へ向かった。
 環の中で、大きな物が散らばるような音がしている。

 紀沙は香港にいる昔の恋人とずっと連絡を取っていた。
 そのうえ、名古屋市内に秘密のアトリエを持ち、誰にも見せない絵をずっと描いていた。

 いったい、なぜ。

 ここまできて、松ヶ峰紀沙の秘密はより一層深くなったようだ。
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