完結『まず、キスから始めよう~キスを待つ頬骨② オトナの恋愛小説です

水ぎわ

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第1章「まず、キスから始めよう 」~佐江×清春 編

第28話「彼女がかけた甘い呪文」

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(Unsplashのshahin khalajiが撮影)

「キヨちゃん!」

 身体の横をすり抜けていく異母兄の腕を、真乃《まの》が、ガシっと掴んだ。

「ちゃんとした覚悟もなしに佐江《さえ》に手を出したら、たとえキヨちゃんでも殺してやるわよ」
「しないと、言っただろう」

 清春は妹を見た。
 朝帰りの妹は、晩中どこかで遊んでいたために化粧は落ちかけ、疲れた様子だった。それでも親友を守ろうという気迫を見せていた。

「おれを信じろよ、真乃。おまえの親友には手なんか出さないよ」
「ほんとうね?」
「彼女はおれのタイプじゃない」
「キヨちゃん、美人が好きでしょう? でもまあ、そうか、キヨちゃんのタイプってもっと年上だもんね」

 真乃が少しほっとしたような顔で、兄から手を離した。そして軽い足取りで二階に向かって行った。

 ”おれのタイプじゃない”

 そう、昨日までは岡本佐江のような端麗な若い女は、清春のタイプではなかった。
 でも、今日からは。
 今日からはもう、清春は岡本佐江に似た女にしか欲情できない。


 清春はため息をつき、荷物をもって父の家を出た。寝不足の身体をなんとかワンルームのアパートに運び、倒れるように眠った。
 夕方、清春は重い頭のままバイト先のバーへ向かう。
 親友の深沢洋輔《ふかざわようすけ》は、もうとっくに来ていてカウンターの準備をしていた。
 清春の顔を見るなり、洋輔は顔をしかめて、

「ひでえ顔だな」

 と、グラスいっぱいの水を清春に差し出した。

「休むか?」
「いや、働いていたほうが楽なんだ」
「死にそうなツラだぜ」
「着替えて、ホールに出れば何とかなるよ。あと五分、待っていてくれ洋輔」
「いいけどな。キヨ、女か? いや、昨日は松濤《しょうとう》の家に帰ったんだな。女じゃねえか」
「女じゃ、ないよ」

 清春はぼそりと言ってバックルームに入っていった。
 荷物を片付け、白いシャツに黒いパンツをはき、黒いベストを身に着けて、ようやく息を吐いた。

 「……女じゃない」

 清春はつぶやいた。
 あれが女だとしたら、これまで清春が抱いてきた女たちは、いったい何だったのか。

 佐江は、清春のシャツのボタン一つはずさず、キスだけで清春を狂わせた。

「なんとかなる」

 清春はワックスで髪を固め、店へ出た。



 動きなれたバーの中で、清春の身体は水を得た魚のように生き生きと動く。
 しかし、岡本佐江がかけた甘い呪文は、それから長い間ずっと清春を苦しめた。
 清春の身体のどこかに佐江の切ない声と体温が染み込み、どれだけたっても清春を捕らえて放さなかった。
 いつか、と清春は思う。
 いつか佐江の体と心の両方を手に入れたら、彼女がかけた甘い呪文は清らかな雪のように、ほどけて溶けるだろう。
 それがいつになるか、今の清春には見当もつかなかった。

 ふと、カウンターの中の洋輔を見る。
 洋輔は、女たらしの美貌をやけにとがらせて、何か考え込んでいるようだった。

「洋輔――”マンハッタン”のオーダーだ」
「あ、おお。チョイ待て」
「洋輔、それはブランデーのボトルだ。”マンハッタン”はウィスキーベースだ」
「……お?」

 まじまじとボトルを見てから、洋輔は顔をしかめた。

「くそ。なっちゃいねえな、俺も」

 そう言うと、鮮やかな手つきで”カナディアンクラブ”ウィスキーをカクテルグラスに入れ、スイートベルモットとビターズを入れてステアした。

「そら、持っていけキヨ」
「……ああ」

 いぶかしげな顔で、清春は酒を盆にのせた。

 どうも、百戦錬磨の女たらしに異変が起きているようだ。
 それも災害救助法が適用されるほどの、甚大な異変だ。


(第一章 了  このさき、洋輔と真乃が活躍する第二章「ここから登る、坂の途中」が始まります。
今後とも よろしくお願いします。)

 
 
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