完結『まず、キスから始めよう~キスを待つ頬骨② オトナの恋愛小説です

水ぎわ

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第2章「ここから登る、坂の途中」~真乃×洋輔 編

第34話「清春くんなら……」

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(UnsplashのHunters Raceが撮影)

 渡部真乃《わたべまの》が、父の所有するコルヌイエホテルに入職したのは22歳の時だった。

 初出勤の日。コルヌイエの制服を着た異母妹の姿を見て、なんとも言えない顔つきをしたのは、すでに2年前からコルヌイエで働いている異母兄の井上清春《いのうえきよはる》だ。
 真乃は、配属先のレセプションカウンターに向かう途中に清春を見かけた。

「キヨちゃん」
「……真乃か」

 美貌の兄は白いシャツにレジメンタルタイをしめ、黒ベストに黒いパンツという料飲部の制服を着ていた。
 どこからみても端正なホテルマン。
 清春は足を止め、185センチの長身から妹を見おろした。

「おまえ、ここで働くって……本気か?」
「本気よ。キヨちゃんだって働いているじゃない」

 はあ、と清春はため息をつき、

「おまえを受け入れる宿泊部スタッフの身になれよ、わがままが過ぎるぞ」
「大丈夫。キヨちゃんだって、オーナーの子供だからって特別扱いされなかったでしょ?」

 清春は形のいい肩をすくめて、

「おれは”井上”だから平気なんだ。”渡部”のおなえとは違う」
「じゃあ、あたしも井上になる」
「ムチャ言うな。”井上”は、おれのおふくろの名前だ」

 清春は苦笑して、コルヌイエの制服を着た妹をもう一度見た。

「配属は、レセプションカウンターか?」
「うん」
「カウンターは夜勤もある。できるか?」
「やるわ。キヨちゃんがやったことは全部やる。お父さんにもそう言ったの」

 その言葉を聞いて、一瞬だけ清春の顔に笑いが浮かんだ。

「まあ、無理せずに先輩の言うことをよく聞いて。困ったことがあれば白石《しらいし》さんに相談しろ」
「白石さん?」
「おれが、宿泊部で世話になった先輩だ。なんでも教えてくれるからちゃんと聞けよ。じゃあな」

 清春は足早に去っていった。
 ホテルマンとして、まったく隙のない姿を眺めつつ、真乃はコルヌイエで働くことが決まってからさんざん周囲に言われたことを思い出した。

 誰もが、異母兄の清春をほめちぎっていた。

『まあ、あれだ。清春君がいるから、大丈夫だね』
『清春君に任せておけばいい』
『清春君が……』
『清春くんなら』
 
 清春自身もまだコルヌイエに入って2年しかたっていないはずなのに、信じられない評価だ。
 コルヌイエではすでに宿泊部の研修を終え、ハウスキーピングとランドリー部で働き、つい最近、宴会部での研修が終わったところだ。
 これからしばらくはホテル内のレストランやバーを担当する、料飲部で働くという。

 異動には、あるていど本人の希望が反映されるとはいえ、清春のように半年から一年ごとの部署移動は珍しい。
 本人が強く多彩な現場での研修を希望したのだろう。

 真乃は、兄ほど本気で働くつもりはない。
 大学を卒業してから仕事もせず遊んでいて、突然、無為な生活が嫌になったのだ。

 しかし、一代で国内、アジアにまたがる巨大なホテルチェーンを作り上げた男の娘が働ける場所は、それほど多くない。父親は真乃が働くことに反対したし、真乃の母に至っては真乃がおかしくなったのかと言い出したほどだ。

 大学を出てしばらくしたら、しかるべき男と結婚する。
 これが『渡部真乃』に求められていたことだった。

 結局、異母兄のいるコルヌイエホテルだけが、最終的に父親から許可が下りた職場だった。
 そのとき、父である渡部誠《わたべまこと》も同じことを言った。

『清春のいるところなら、働いてもいい』

 コルヌイエホテルの廊下を足早に歩きながら、真乃はうんざりしてつぶやいた。

「キヨちゃん、キヨちゃん、キヨちゃん。みんな、ほめすぎよね……」
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