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第2章「ここから登る、坂の途中」~真乃×洋輔 編
第49話「あたしが、一緒にいるから」
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(Unsplashの🇸🇮 Janko Ferličが撮影)
真乃はテーブルの向こうにいる佐江に、にやりと笑った。
「キヨちゃんは策略家よ。でもまだ、お父さんのほうが上手かな。だって宴会部の末井《すえい》さんをチーフにしたのと同時に、キヨちゃんもアシスタントマネージャーに昇格だもの」
真乃はバッグから小さな名刺を取り出して、佐江に差し出した。
コルヌイエホテルのシンプルな名刺には
「宿泊部 アシスタントマネージャー 井上清春」
とあった。
佐江はまじまじと名刺を眺めて、
「すごいわね、キヨさん。まだ三十にもなっていないのに、もうあの巨大なホテルのアシスタントマネージャーなんて」
「キヨちゃんはあの仕事っぷりだもん。アシマネに昇進しても、だれも”七光り”なんて言わないわね。この五年間、ほとんど休みなく働いているし」
「身体は大丈夫なのかしら」
「キヨちゃん、ああみえてけっこう体力あるから平気。仕事だけじゃないもの、遊びだって派手にやっているわよ」
真乃がそう言うと、佐江はアーモンド形の目をほそめて、真乃を見た。
「派手に遊んでいるのは、キヨさんだけじゃないでしょう?」
「あたしなんて可愛いものよ」
「自分とキヨさんを比べてはいけないわ。このあいだ会った商社のひととは、どうなったの?」
真乃はちょっぴり情けない顔をして答えた。
「飽きちゃったから、別れた」
「もう?」
真乃はアクアパッツァの最後の身をこそげ取り、白ワインで流し込むように食べた。
佐江が、なにかをうかがうような表情でこちらを見ているのが分かる。
「なによ、佐江」
「あの人と付き合い始めたのは先月でしょう」
「そうだったかな」
「一カ月もたなかったのね」
「そうかも」
「ねえ、真乃。最近、男とつきあう期間がどんどん短くなっていない?」
ふっと真乃は押し黙った。
古い友人は、こういうとき本当に始末が悪い。
とくに怜悧《れいり》な佐江を相手にしていると、真乃の隠そうとしていることがどんどん、あらわになってくるのだ。
「真乃。なにか、あるんでしょう」
「何にもないわよ」
アクアパッツァの皿がカラになったので、今度は真乃はレンコンのバルサミコソースに手を出した。
その手の上に、そっと佐江の手が乗る。
佐江の手は長身のわりに小さくて、まるで子供のように可愛らしい。
真乃は、指輪ひとつはまっていない親友の手をじっと見た。
ポロリと涙がこぼれ落ちた。
「おかあさんが、もうだめなの」
真乃の口から、自分でも信じがたいほど弱々しい声がこぼれ出た。同時に涙がとまらずにあふれてきた。
「もうダメなの、肝硬変の一歩手前で。入院しているけど、先生から覚悟してくれって言われたわ」
ぎゅっと、真乃の手に乗せられた佐江の手に力がこもった。
「真乃」
「こんなこと誰にも言えない。お父さんは相変わらずコルヌイエのスイートに住んでいて、松濤《しょうとう》の家には帰ってこないし。キヨちゃんとお母さんには、なんの関係もないし」
いつもなら真乃が全面的に頼れるはずの清春だが、真乃の母とは血がつながっていない。清春は父親の正妻に対して礼儀正しい距離を保ったままである。
父親と真乃の母が結婚する前に生まれていた庶出の息子としては、それ以外にやりようがないのだろう。
だから、今回ばかりは清春にも頼れない。
真乃は追い詰められていた。
ついさっきドリー・Dの試着室で、佐江に痩せたことを見抜かれた時でさえ、何も言えなかった。
渡部真乃は、弱音を吐くのが苦手だ。
これまでの人生で、誰に対しても弱音を吐いてこなかったので、どうやって人に頼ったらいいのか分からないのだ。
ただひとり、佐江を除いては。
「……真乃。あたしが、一緒にいるから」
十年来の親友が高雅な美貌を傾けてこちらを見ている。佐江は手を伸ばして、真乃の頬をそっと包み込んだ。
どんな時でも有能な佐江の手は、弱り切っている真乃の身体にあたたかな力をくれる。
ああ、だいじょうぶ。
ここには、佐江がいる。
佐江は女にしては低い声でテーブル越しにささやいた。
「何があっても、あたしがついているから」
「佐江」
真乃は泣きながら笑った。
「あんたと結婚する男は幸せね。どんなときでも、あんたがいると思えばその男はなんだってできるわよ」
「こんなときに何を言っているの」
佐江は真乃の頬にふれている手に、静かに力を込めた。
「あたしはあなたの親友。何があっても一緒よ」
真乃は静かに目を閉じる。
目の前にいる佐江の身体からは、彼女がいつも使っているディオリッシモの優しい香りが立っていた。
渡部真乃が、唯一我が身を預けられる親友が、そこにいた。
真乃はテーブルの向こうにいる佐江に、にやりと笑った。
「キヨちゃんは策略家よ。でもまだ、お父さんのほうが上手かな。だって宴会部の末井《すえい》さんをチーフにしたのと同時に、キヨちゃんもアシスタントマネージャーに昇格だもの」
真乃はバッグから小さな名刺を取り出して、佐江に差し出した。
コルヌイエホテルのシンプルな名刺には
「宿泊部 アシスタントマネージャー 井上清春」
とあった。
佐江はまじまじと名刺を眺めて、
「すごいわね、キヨさん。まだ三十にもなっていないのに、もうあの巨大なホテルのアシスタントマネージャーなんて」
「キヨちゃんはあの仕事っぷりだもん。アシマネに昇進しても、だれも”七光り”なんて言わないわね。この五年間、ほとんど休みなく働いているし」
「身体は大丈夫なのかしら」
「キヨちゃん、ああみえてけっこう体力あるから平気。仕事だけじゃないもの、遊びだって派手にやっているわよ」
真乃がそう言うと、佐江はアーモンド形の目をほそめて、真乃を見た。
「派手に遊んでいるのは、キヨさんだけじゃないでしょう?」
「あたしなんて可愛いものよ」
「自分とキヨさんを比べてはいけないわ。このあいだ会った商社のひととは、どうなったの?」
真乃はちょっぴり情けない顔をして答えた。
「飽きちゃったから、別れた」
「もう?」
真乃はアクアパッツァの最後の身をこそげ取り、白ワインで流し込むように食べた。
佐江が、なにかをうかがうような表情でこちらを見ているのが分かる。
「なによ、佐江」
「あの人と付き合い始めたのは先月でしょう」
「そうだったかな」
「一カ月もたなかったのね」
「そうかも」
「ねえ、真乃。最近、男とつきあう期間がどんどん短くなっていない?」
ふっと真乃は押し黙った。
古い友人は、こういうとき本当に始末が悪い。
とくに怜悧《れいり》な佐江を相手にしていると、真乃の隠そうとしていることがどんどん、あらわになってくるのだ。
「真乃。なにか、あるんでしょう」
「何にもないわよ」
アクアパッツァの皿がカラになったので、今度は真乃はレンコンのバルサミコソースに手を出した。
その手の上に、そっと佐江の手が乗る。
佐江の手は長身のわりに小さくて、まるで子供のように可愛らしい。
真乃は、指輪ひとつはまっていない親友の手をじっと見た。
ポロリと涙がこぼれ落ちた。
「おかあさんが、もうだめなの」
真乃の口から、自分でも信じがたいほど弱々しい声がこぼれ出た。同時に涙がとまらずにあふれてきた。
「もうダメなの、肝硬変の一歩手前で。入院しているけど、先生から覚悟してくれって言われたわ」
ぎゅっと、真乃の手に乗せられた佐江の手に力がこもった。
「真乃」
「こんなこと誰にも言えない。お父さんは相変わらずコルヌイエのスイートに住んでいて、松濤《しょうとう》の家には帰ってこないし。キヨちゃんとお母さんには、なんの関係もないし」
いつもなら真乃が全面的に頼れるはずの清春だが、真乃の母とは血がつながっていない。清春は父親の正妻に対して礼儀正しい距離を保ったままである。
父親と真乃の母が結婚する前に生まれていた庶出の息子としては、それ以外にやりようがないのだろう。
だから、今回ばかりは清春にも頼れない。
真乃は追い詰められていた。
ついさっきドリー・Dの試着室で、佐江に痩せたことを見抜かれた時でさえ、何も言えなかった。
渡部真乃は、弱音を吐くのが苦手だ。
これまでの人生で、誰に対しても弱音を吐いてこなかったので、どうやって人に頼ったらいいのか分からないのだ。
ただひとり、佐江を除いては。
「……真乃。あたしが、一緒にいるから」
十年来の親友が高雅な美貌を傾けてこちらを見ている。佐江は手を伸ばして、真乃の頬をそっと包み込んだ。
どんな時でも有能な佐江の手は、弱り切っている真乃の身体にあたたかな力をくれる。
ああ、だいじょうぶ。
ここには、佐江がいる。
佐江は女にしては低い声でテーブル越しにささやいた。
「何があっても、あたしがついているから」
「佐江」
真乃は泣きながら笑った。
「あんたと結婚する男は幸せね。どんなときでも、あんたがいると思えばその男はなんだってできるわよ」
「こんなときに何を言っているの」
佐江は真乃の頬にふれている手に、静かに力を込めた。
「あたしはあなたの親友。何があっても一緒よ」
真乃は静かに目を閉じる。
目の前にいる佐江の身体からは、彼女がいつも使っているディオリッシモの優しい香りが立っていた。
渡部真乃が、唯一我が身を預けられる親友が、そこにいた。
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