完結『まず、キスから始めよう~キスを待つ頬骨② オトナの恋愛小説です

水ぎわ

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最終章「薤露青(かいろせい)」~清春×佐江 編

第61話「問題は、井上清春」

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(UnsplashのKorie Cullが撮影)

 コルヌイエホテルの廊下を並んで歩きながら、安原は嬉しげに、

「よく似合うよ、僕も鼻が高いよ」
『あなたの為のドレスじゃないわ』

 佐江は内心で毒づくが、もちろん顔には出さない。ただ静かに笑うだけだ。
 今夜のドレスは勤務先の海外ブランドショップで購入したものだ。ごくシンプルな黒いショート丈のドレスは、てカッティングが美しい。佐江が動くたびになだらかに腰に沿って揺れ動いた。
 真珠のネックレスを合わせているだけなのに、華がある。

 佐江は大学を卒業した3年前から、ある海外デザイナーの直営店で働きはじめた。
 実家は裕福だから働く必要はなかったが、佐江はどうしてもそのデザイナーのところで働きたかった。
 両親が娘の就職に反対しないのをいいことに、長時間労働もものともせずに働きまくり、今ではかなりの顧客を抱えた有料ショップ店員となっていた。

 このドレスを買うとき、佐江は勤務先の”ドリー・D 銀座本店”で何度もため息をついていた。それをショップにいた大男が聞きとがめた。

「うるせえな、岡本。なんなんだ、さっきから」
「山中《やまなか》先輩」

 ひょいと、カウンターをはさんで佐江の向かい側に立ったのは、肉厚な身体を持つ若い男だ。
 佐江の直属の上司に当たる山中善彦《やまなかよしひこ》は、20代前半という若さながらも、太い客をしっかりとつかんでいる腕利《うでき》きのショップ店員だ。
 この男は、毎月コンスタントに1000万円近くを売り上げる。

「なんだよ、コルヌイエホテルでやるパーティなんだろう? 一流どころじゃねえか」
「銀行主催のパーティなんて、気が重くて」
「ふうん……それじゃ、お堅いドレスがいるなあ」
「黒のタンクドレスでいいですよね?」

 佐江がそう言うと山中は190センチの身体からじろりと彼女を見おろした。

「黒のタンクだあ? よっぽど気のねえパーティなんだな」
「行きたくないんです」
「せっかくのパーティ会場だ。うんとスタイリッシュにして、うちの宣伝をしてこい」

 そう言うと服が並んだバーから無造作に一枚のドレスをハンガーごと引っ張り出した。

「黒のタンクならシンプルな形がいい。小物に凝《こ》ってやる」

 ごくごくふつうのノースリーブのドレスに、山中が次々と小物を合わせていく。
 薄いクリーム色のキッド革の長い手袋、三連《さんれん》のパールネックレス、色あざやかなバングル、角度によってかすかに真紅の色が見えるビーズのパーティバッグ。
 足元は、パイソン柄のピンヒールだ。

「これにな、フェイクパールのピアスを付けろ。おまえ、ビンテージシャネル風のピアスを持っていただろう」
「いつも思うんですけど、先輩は、どうしてひとのクローゼットの中身をそんなに覚えているんです?」

 山中は筋肉の厚い肩をすくめて、

「俺はプロだ。頭の中には、お得意さんのクローゼット写真がずらっと納まってる。客に売ったものは写真みたいに頭の中に全部入っている。組み合わせを考えながら売るから、無駄がねえんだよ」
「……さすがですね、うらやましい」

 てめえも、と佐江に売りつけるものをレジに通しながら山中は言った。

「てめえも六年いりゃあ、どうにかモノになるだろ。今年で何年目だ、岡本?」
「3年目です。まだまだひよっこですよ」
「ひよっこにしちゃあ、先月は頑張ったじゃねえか。―――ついに、俺たち二人の売り上げが四千万を超えたぜ」
「本当ですか?」

 思わず佐江の声も明るくなった。
 先月は佐江も山中も太い客が多く、売り上げは相当な金額まで行ったのではないかと思っていた。
しかしまさか、四千万とは。

「やりましたね、先輩」

 山中はニヤリと笑った。

「本社から報奨金《ほうしょうきん》が出るぜ。だからお前、これは正札《しょうふだ》で買えよ」
「いやです。ちゃんと六掛《ろくが》けにしてくださいよ、先輩」

 佐江は鼻先をつんと尖《とが》らせて答えた。山中が選んだものを丁寧にたたみながら、ふいに、


「ねえ先輩。そろそろ別れたいと思う男には、なんて言ったらいいんでしょうね」

 と尋ねた。山中はじろっと佐江を見て

「今の男の何が気に入らない? 女ってのは高く売れるときに売っとかねえと、残るぞ」
「あたしは残っていいんです。先輩だって遊びまわっているくせに」
「俺はゲイだから結婚なんかしねえし。てめえはそう言うわけにいかねえだろ。それともあれか、昔っからの男をまだ引きずっているってわけか」

 『男じゃありません、女です』と思うが、口には出さない。山中を信頼してはいるが、真乃とのことは誰にも言わないと決めている。
 この恋は、佐江のすべてだから。

 佐江はもう一度、新頭取就任パーティの日時を思い出す。
 午後6時開始、場所はコルヌイエホテル。

 コルヌイエホテル。

 問題は銀行主催のパーティにあるんじゃない。安原にあるのでもない、と佐江は思った。
 正確に言うならコルヌイエホテルにも罪はない。
 ここに勤務する井上清春が問題なのだ。
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