完結『まず、キスから始めよう~キスを待つ頬骨② オトナの恋愛小説です

水ぎわ

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最終章「薤露青(かいろせい)」~清春×佐江 編

第60話「あなたとは今夜でおしまい」

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(UnsplashのNathan Bingleが撮影)

 25歳の岡本佐江は、人目を惹く女だ。
 170センチに近い長身はほっそりとしてバランスが良く、長い首をかしげると白鳥のようだ、と学生時代からの親友である渡部真乃は言う。

 今、コルヌイエホテルのダブルルームで座っている佐江を、『恋人』である安原の視線がからまりついている。
 佐江は、とろみのある生地のリトルブラックドレスを身に着け、ノースリーブのアームホールからほどよく肉のついた白い二の腕をのぞかせている。
 丸みのある肩や二の腕を、佐江はさりげなくシルクウールのストールでおおい隠してていた。

 佐江は小さなため息をつき、目を閉じた。真乃の小柄な体を思い浮かべる。
 小さな頭、きゃしゃな肩、すんなりと伸びた腕。
 離しながら、真乃はよく指さきをひらめかせて会話を盛り上げる。真乃の指が饒舌《じょうぜつ》に動き始めると、佐江は欲情のあまり頭の中が真っ白になる。
 指先を口に入れて、歯を立ててやりたいと思う。
 渡部真乃は、いついかなる時であっても佐江を魅了する。佐江はその小さな足元にひれ伏したくなる。

 それほど焦がれている女に、佐江はまだ一度しかキスをしたことがない。
 それも7年前、眠っている真乃から盗みとった秘密のキスだ。
 しかし一度きりのキスの記憶は、佐江の身体の中に真珠色の釘《くぎ》のごとく、深く深く食い込んで離れない。

 佐江が記憶の中のささやかなキスを味わっていると、ややのんびりした男の声が聞こえてきた。
 シャワーを浴び終えた安原だ。

「ごめん、佐江。仕事先から来たから、シャワーを浴びたくてね」

 佐江は安原を見上げて、儀礼的にニコリとする。そして壁に架けてある今夜のパーティ用スーツを見る。
 真っ白なシャツにネイビーブルーのスーツ。定番で品が良く、はずしようのないコーディネートだ。

 この男は、いつも無難《ぶなん》な洋服を着る、と佐江は思った。
 つまり女の好みもオーソドックスでスタンダードということだ。
 おだやかで、安穏な人生を保証してくれる男。
 岡本佐江がぜったいに欲しいと思わないような男だ。

 佐江はすばやく微笑んで、

「そろそろ支度をなさいます?」
「うーん……キスくらいしてもいいんじゃないかな」

 佐江と安原は、付き合ってそろそろ半年。育ちのいい安原は、デートの後もキスだけで、それ以上距離を詰めようとしない。
 そのおかげで、佐江は25歳にしてまだヴァージンを維持できている。
 安心、安全な男。
 同性の親友・渡部真乃に対するきわどいほどの濃厚な片思いを隠すために、佐江はつねに安原のような穏やかな男を必要としていた。
 適度な男と付き合っていることが、秘密の恋情を隠す絶好のカムフラージュになるからだ。

 とはいえ、この男もいつまでも引っ張っておけないと考えながら、佐江は壁のスーツを眺めつづけていた。

「佐江、僕の話を聞いている?」
 
 ふいに、安原はそう言った。
 佐江は、はっと我に返った。わずかに顔を赤らめて、

「ちょっと疲れているものですから」
「仕事が忙しすぎるんだろう。あまり熱心に働くのはどうかな」

 安原はそう言うと、スッと佐江の手を取った。
 白くて柔らかい指先。身体を使う仕事を、したことがない男の指だ。
 魚の腹のような安原の指を、佐江は少し気味悪く思いながら眺めた。
『男性の指は、仕事に慣れているほうがいい。少し骨ばっていて、長くて、でも敏捷で……』

 安原はあらためて、彼女を見た。

「今日の大地銀行《だいちぎんこう》の頭取就任パーティで、頭取に、君の事を話してもいいかな」
「私のこと?」

 安原は軽く声を上げて笑った。

「僕は来月から大地銀行に入るだろ。だから今日、この就任パーティに君を呼んだんだよ。
出席者はパートナー同伴と決まっているから」

『パートナー』という言葉に、佐江の耳がピクリとした。安原はそんな佐江のデリケートな反応に全く気がつかず、

「新頭取《しんとうどり》は、君を子供の頃から知っていると言っていたよ。ご挨拶しないとね」
『それはあなたの勝手な事情でしょう』

 と言いたいのを佐江はおさえる。無難な話題が欲しくて、
 
「出席者はパートナー同伴って、結婚なさっていない方には厳しい条件ね」
 
 と笑に紛らせた。すると安原は、

「本当は、未婚組はひとりでもいいんだ。でもほら僕たちは、いずれ……」

 安原は佐江の手首の内側を撫であげた。

「今夜は帰さないよ。パーティが終わったら、ここに泊るんだ。いいね?」

 ぞっとした。
 女の都合を一切聞かない鈍感さに、寒気すら感じる。
 佐江は立ち上がり、テーブルからビーズのパーティバッグを取った。

「そろそろ時間ですね。行きましょうか?」
「……うん」

 叱られた子犬のような安原とともに、佐江は部屋を出た。

『この部屋には、戻らない。あなたとは今夜でおしまいよ』という一言を飲み込んだのは、せめてもの礼儀だ。

 パーティ会場でこの男をまいて、一人で帰ろうと決めた。
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