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運命の事件
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「すいませんキドさん、遅くなりました」
規制線を持ち上げながら声をかけると、数時間前にも拝んだ無愛想な顔が振り返った。
出世に全く興味のない男は、欲をかくこともなく、ゴマすりすることもせず、一課の古株を続投している。
そんな錦戸のもとで門叶が働くようになったのは、三十歳を迎えてすぐの頃だった。
念願の一課に配属されて意気揚々とする門叶に、先輩刑事からのアドバイスは、無口な男は面倒だぞ、だった。
配属したては右も左もわからないことばかりだったけれど、先輩刑事の言っていたことだけはすぐに理解した。
名前を呼んでも返事はしてくれないし、交流を図ろうと雑談を振っても、軽く無視された。
最初こそ腹が立ったが、二年も相棒を務めれば、愛想なしな彼の取り扱いも心得てくるものだ。今では、短い会話は成り立っているし、名前を呼べば返事をしてくれる。まあ、人としてそれは当たり前のことだけれど……。
「害者は此本千歳、ここの教育学部の三年生だ」
門叶は手袋をはめた手で錦戸から学生証を受け取り、勝気そうな瞳で微笑む端正な顔の女性に目をやった。
身勝手な人間に命を断絶され、彼女はもう写真のように微笑むことは出来ない。臨場で被害者と対面する度に、門叶は自分の無力さを痛感していた。
検証を終えた鑑識班長の西谷が門叶達に気付き、マスクを顎までずらしながらやって来た。
「死亡推定時刻は死後一日ってところですね。死因は恐らく絞殺。周りに血痕は殆どないので、殺害現場は他でしょうか」
血痕? 絞殺なのに? と首を傾げ、門叶は遺体を見て瞠目した。
「両手が……切断されてる……」
遺体は桜の木の幹を支えにし、腕はダラリと垂れ下がっている。頭部は重い荷物のように項垂れ、皮膚からは紫斑が透けて見えていた。
苦悶の表情を凝視していると「おい」と、突然背中を叩かれ、門叶はギョッとして身を強張らせた。
「ああ、すまん──」
額に薄っすら汗を滲ます門叶を目にし、錦戸が何か言いたげに眉根を歪ませている。
「い、いえ……大丈夫です」
「……第一発見者は、日本文学科の講師だ」
錦戸が指し示した中庭を見ると、背中を丸めた男がベンチに腰掛けていた。 二人は彼の側まで行くと、気配を感じたのか、男がゆっくりと顔をもたげてきた。
「生方さんですね」
錦戸の問いかけに、気怠そうな顔で生方が首を縦に動かす。
驚きも動揺もない双眸に、無精髭と手入れを怠ったような頭髪が、どこか世捨て人のように見える。
「お疲れのところ申し訳ありません、赤羽警察署の門叶です」
「錦戸です。早速ですが、被害者を発見した時のことをお聞かせ願えますか」
二人の刑事を反応悪く交互に見つめてくる生方が少し間を空けた後、ゆっくりと口を開いた。
「……私はいつも遅くまで大学に残ってる事が多いんです、だから、戸締りをするのは日課でした。他の先生は十九時には帰りますから。私は裏庭を確認して施錠する。でも今夜、そこで彼女を──見つけました……」
淡々とした口ぶりで話す姿は、酸鼻な遺体を目の当たりにした人間とは思えない落ち着きだった。
「裏庭を確認するんですか?」
「……はい。あそこは人気がないので、たまに生徒同士が──」
最後まで聞かずとも理解した門叶は、成程と、その質問を完結させた。
「では、何かいつもと違う感じはありませんでしたか? 誰かを見たとか……」
手帳を片手に門叶は尋ねたが、生方の首は左右に振られ、ページに書き込む内容は得られなかった。
「そうですか。では亡くなった此本さんについて、何か知っている事はありませんか?」
「……いえ、特には。彼女は私の講義をとってないので、よく分かりません」
そう言ったきり生方は口を噤んでしまった。
「──わかりました。今日はもう遅いので、また後日、ご協力下さい」
錦戸の言葉と同時に生方が立ち上がると、じゃ私はこれでと会釈し、二人の前から去って行った。
「いいんですか、帰しても」
「今夜はこれくらいでいいだろう」
生方の後ろ姿を見送りながら、門叶は首を捻った。
普通、遺体を前にすれば大概の人間は平然となんてしていられない。しかも手首を切断されているのに、生方の態度はあまりにも冷静過ぎる。
門叶としてはもっと彼を追求したかったが、古参に従うしかないと言い聞かせ、現場に戻ると西谷がビニール袋を掲げている姿が目に入った。
差し出されたのは、一枚のレポート用紙だった。
「これ、教科書の中に挟まってました。何か意味があるかと思って、お見せした方がいいかと」
「ふーん。これは短歌、懸想文か」
「懸想文? 何ですかそれ?」
「古のラブレターみたいなもんだ」
門叶は目を丸くした。
まさか錦戸の口から、甘い単語を聞くとは夢にも思っていなかった。
「え、えっと、これは古文ですか。でも彼女は日本文学を専攻してないのに」
「……あとは鑑識に任せろ。聴き込みは明日だ。一旦、署に戻るぞ」
西谷へ挨拶をした錦戸が歩き出したから、門叶も後を追いかけようと大学に背を向けた。その時、ふと背後に視線を感じ、振り返って闇の中へと目を凝らしてみる。だが生暖かい風が木の葉を掠めるだけで、そこには何も、誰もいない。
気のせいかと肩の力を抜き、門叶は逃げるようにその場を離れた。
規制線を持ち上げながら声をかけると、数時間前にも拝んだ無愛想な顔が振り返った。
出世に全く興味のない男は、欲をかくこともなく、ゴマすりすることもせず、一課の古株を続投している。
そんな錦戸のもとで門叶が働くようになったのは、三十歳を迎えてすぐの頃だった。
念願の一課に配属されて意気揚々とする門叶に、先輩刑事からのアドバイスは、無口な男は面倒だぞ、だった。
配属したては右も左もわからないことばかりだったけれど、先輩刑事の言っていたことだけはすぐに理解した。
名前を呼んでも返事はしてくれないし、交流を図ろうと雑談を振っても、軽く無視された。
最初こそ腹が立ったが、二年も相棒を務めれば、愛想なしな彼の取り扱いも心得てくるものだ。今では、短い会話は成り立っているし、名前を呼べば返事をしてくれる。まあ、人としてそれは当たり前のことだけれど……。
「害者は此本千歳、ここの教育学部の三年生だ」
門叶は手袋をはめた手で錦戸から学生証を受け取り、勝気そうな瞳で微笑む端正な顔の女性に目をやった。
身勝手な人間に命を断絶され、彼女はもう写真のように微笑むことは出来ない。臨場で被害者と対面する度に、門叶は自分の無力さを痛感していた。
検証を終えた鑑識班長の西谷が門叶達に気付き、マスクを顎までずらしながらやって来た。
「死亡推定時刻は死後一日ってところですね。死因は恐らく絞殺。周りに血痕は殆どないので、殺害現場は他でしょうか」
血痕? 絞殺なのに? と首を傾げ、門叶は遺体を見て瞠目した。
「両手が……切断されてる……」
遺体は桜の木の幹を支えにし、腕はダラリと垂れ下がっている。頭部は重い荷物のように項垂れ、皮膚からは紫斑が透けて見えていた。
苦悶の表情を凝視していると「おい」と、突然背中を叩かれ、門叶はギョッとして身を強張らせた。
「ああ、すまん──」
額に薄っすら汗を滲ます門叶を目にし、錦戸が何か言いたげに眉根を歪ませている。
「い、いえ……大丈夫です」
「……第一発見者は、日本文学科の講師だ」
錦戸が指し示した中庭を見ると、背中を丸めた男がベンチに腰掛けていた。 二人は彼の側まで行くと、気配を感じたのか、男がゆっくりと顔をもたげてきた。
「生方さんですね」
錦戸の問いかけに、気怠そうな顔で生方が首を縦に動かす。
驚きも動揺もない双眸に、無精髭と手入れを怠ったような頭髪が、どこか世捨て人のように見える。
「お疲れのところ申し訳ありません、赤羽警察署の門叶です」
「錦戸です。早速ですが、被害者を発見した時のことをお聞かせ願えますか」
二人の刑事を反応悪く交互に見つめてくる生方が少し間を空けた後、ゆっくりと口を開いた。
「……私はいつも遅くまで大学に残ってる事が多いんです、だから、戸締りをするのは日課でした。他の先生は十九時には帰りますから。私は裏庭を確認して施錠する。でも今夜、そこで彼女を──見つけました……」
淡々とした口ぶりで話す姿は、酸鼻な遺体を目の当たりにした人間とは思えない落ち着きだった。
「裏庭を確認するんですか?」
「……はい。あそこは人気がないので、たまに生徒同士が──」
最後まで聞かずとも理解した門叶は、成程と、その質問を完結させた。
「では、何かいつもと違う感じはありませんでしたか? 誰かを見たとか……」
手帳を片手に門叶は尋ねたが、生方の首は左右に振られ、ページに書き込む内容は得られなかった。
「そうですか。では亡くなった此本さんについて、何か知っている事はありませんか?」
「……いえ、特には。彼女は私の講義をとってないので、よく分かりません」
そう言ったきり生方は口を噤んでしまった。
「──わかりました。今日はもう遅いので、また後日、ご協力下さい」
錦戸の言葉と同時に生方が立ち上がると、じゃ私はこれでと会釈し、二人の前から去って行った。
「いいんですか、帰しても」
「今夜はこれくらいでいいだろう」
生方の後ろ姿を見送りながら、門叶は首を捻った。
普通、遺体を前にすれば大概の人間は平然となんてしていられない。しかも手首を切断されているのに、生方の態度はあまりにも冷静過ぎる。
門叶としてはもっと彼を追求したかったが、古参に従うしかないと言い聞かせ、現場に戻ると西谷がビニール袋を掲げている姿が目に入った。
差し出されたのは、一枚のレポート用紙だった。
「これ、教科書の中に挟まってました。何か意味があるかと思って、お見せした方がいいかと」
「ふーん。これは短歌、懸想文か」
「懸想文? 何ですかそれ?」
「古のラブレターみたいなもんだ」
門叶は目を丸くした。
まさか錦戸の口から、甘い単語を聞くとは夢にも思っていなかった。
「え、えっと、これは古文ですか。でも彼女は日本文学を専攻してないのに」
「……あとは鑑識に任せろ。聴き込みは明日だ。一旦、署に戻るぞ」
西谷へ挨拶をした錦戸が歩き出したから、門叶も後を追いかけようと大学に背を向けた。その時、ふと背後に視線を感じ、振り返って闇の中へと目を凝らしてみる。だが生暖かい風が木の葉を掠めるだけで、そこには何も、誰もいない。
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