桜はそっと淡く咲く

久遠ユウ(くおんゆう)

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律と一楓 独占欲

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 激しく踏みつける路面の水音は、角を曲がったところで足の勢いを緩めると大人しくなった。
 短い白息を繰り返し、律は前のめりになった体を膝に預けながら、自分の態度がおかしくなかったかと自問自答した。

 背中に一楓の視線を感じながらも、照れ臭くて振り返ることが出来ず、急ぐフリをして走り去ってしまった。
 息遣いは元に戻っても、胸に当てた手のひらから鼓動が乱れているのが伝わってくる。
 ふと、指先に視線を落とすと、触れられた箇所が火傷したように熱い。空気は冷え冷えとしているのに、全身も風邪を引いたみたいに熱っぽく感じる。
 温もりがまだそこに残っているように感じた律は、反対の手で閉じ込めるように指を包み込んだ。

 初めは肩だった。次は髪、そして指先──。

 経験したことのない高揚感が脊髄を刺激してくる。心臓が猛然と騒ぎたて、雨の中で立ち竦んだまま、律は自分の中で芽生えている感情に戸惑っていた。

 あいつも俺も男だぞ……。

 友達として自分の家に誘った。なのに、心のどこかで、別の感情を持つ自分が、行きたい、と言ってくれた一楓に心を踊らせていた。

 一楓の行動、そこに付随する自分の感情を確かめるよう、雨足が酷くなっていく、鈍色の世界で律は立ち竦んでいた。
 京都で初めて一楓の存在を知ってから、源泉を掘り起こしたかのように、自分の中で温かいものが湧き出てくる感覚。
 それが何なのか、どんな名前なのか、気付いていないフリをしていたのかもしれない。
 理由はひとつ。二人とも男だからだ。

 激しく雨が打ち付ける靴先を見ながら、律はゆっくりとを進めた。
 いくら正論を唱えても、心がどうしてもと、一楓を求めている。
 だから律は想像してみた、一楓が誰かと付き合うことを。自分以外の人間に一楓が微笑み、触れることを。

 嫌だ。絶対に嫌だ──。

 一歩、一歩と足を踏み込むたび、感情が確信に変わっていく。
 一楓の隣にいるのは自分だ。もっと触れたいし、笑顔も見たい。そして一楓からも触れて欲しい。
 自分以外の人間が一楓に声をかけ、体に触れているのを目にする度に、独占欲が湧いていた。
 反対に優しく微笑まれると、空でも飛べるんじゃないかと思えるほど浮かれた。

 激しく雨が降る中、律は濡れるのも構わず思いっきり走った。
 雨粒が全身に打ちつけてくるし、空気も冷たい。それでも律の体も心も、発酵するほど熱を帯びていた。




 図書室での一件以来、律は一楓の白い肌に触れることを想像し、何度も欲情してしまった。
 一楓の顔を見ると、申し訳ない気持ちと後ろめたさで反省はしたけれど、自覚した気持ちを押さえることは無理だった。
 挙句、眠れない夜を味わい、一楓が家に遊びに来る日を待ち焦がれ、穴が開くほどカレンダーを確認した。

 そうしてとうとう、念願の日がやって来たのだ。

「一楓、今日晩飯食って帰るだろ? 母さんがカレー食い切れないくらい作ったんだ」
「うん。食べる、ありがと」
 初めて家に来て、わかりやすいくらいに一楓は緊張していた。それでもゲームや漫画の話題で次第に気持ちはほぐれ、数分後にはいつもの屈託のない笑顔を見せてくれた。

「律ー、母さん仕事に行ってくるね」
 居間でテレビゲームに釘付けの律に、母親が慌ただしく身支度をしながら声をかけた。
「おー。行ってらー」
「何その挨拶! これから働きに行く親に言うセリフ?」
 律の頭を軽く叩くと、母親は早々に玄関へと向かった。
「痛ってー」
 自分の頭を労いながら、律は渋々腰を上げて玄関まで母を見送る。幼い頃に父親をなくした、二人家族のささやかで大切なルールだ。

「そんなの痛くないでしょ。一楓君、カレー沢山食べてね。お口に合うといいんだけど」
 靴を履きながら母親が一楓に声をかけた。
「ありがとうございます、おばさんのカレー楽しみです」
「もう、なんて可愛いの。律、あんたも見習いなさいっ」
 はいはいと、軽口で母親を見送り、そそくさとコタツへ戻った律はコントローラーを手に、まだ玄関にいる一楓に「おーい、続きやろうぜ」と、呼びかけた。

 ゲームを満喫し、満腹までカレーを堪能した律は、後片付けをする手を止めて時間を気にした。
 時計の針はもう、九時を指そうとしている……。

「一楓。その……家は大丈夫か? 妹とか──」

 まだ一緒にいたい気持ちと痩せ我慢を隠しながら、皿を拭く横顔に聞いてみた。
「今日は大丈夫なんだ。九州からおばさんと従姉妹が来てて、美琴……妹は一緒にホテルに泊まるんだよ」
「へえ、そうなんだ。それは嬉しいだろうな」
 露骨に安堵した顔になり、ココア飲むだろと、鼻歌混じりに牛乳を温め始めた。
 嬉しいのはお前だろと、自分に説教しながら。
 幼い妹に悪いと思いつつも、盛大に喜んでしまった。二人っきりの兄妹なんだと知っているくせに、と……。

 甘い湯気が立ち込めるカップを二つ手にし、コタツまで運ぶと一楓が嬉しそうな顔をくれる。
「美味しそう。でも、これ飲んだら帰るから」

 ──帰る……。この三文字はこんなにも寂しい言葉だったのか。

 律は寂寥感をなんとか隠し、送ってやるからなとギリギリの笑顔を作った。
「一人でも平気だよ、寒いから律が風邪ひいたら困る──あ、アッチッ!」
 カップを持とうとした手を一楓が見誤り、コタツの上がココア色に染まった。
「大丈夫か!」
 火傷を心配した律は、咄嗟に一楓の手を掴んだ。初めて握った手は想像以上に小さく、自分の中にすっぽりと収まってしまう。
 あまりの儚さを知って一楓の顔を見つめると、戸惑う眸は逸らされ、律の手も振り払われてしまった。

「だ、大丈夫。ごめん、汚した……」
 行き場を失った手を空中に残したまま、律は紅く染まる頬を隠すように俯く一楓を直視した。
 下を向くから、うなじが露わになり、隠れていた肌が湯上がりのように桃花色に染まっている。 
 一度見てしまうと、もう、そこから目が離せなくなった。

「や、やっぱ、俺もう帰る」
 上着を掴んだ一楓が廊下へと飛び出した。 
 反射的に去って行く腕を掴んだ律は、勢いよく体を引き寄せ過ぎて、バランスを崩し、一楓の背中を抱き締めたまま、後ろへと転倒してしまった。

 倒れてくる一楓を全身で受け止め、律の頭は廊下に直撃すると鈍い音を放った。
「りつ! 律! 大丈夫?」
 心配して差し出された手を、今度は逃さないようしっかり掴み、後頭部の痛みを堪えて自分の上に小さな体を重ねた。
「律、どうしたの? どっか痛いのか!」
 心配してくれる声に酔いながら、抱き締めた腕に夢中で力を込める。

「律どう──」
「……なよ」
「え、何?」
 拘束を解こうと一楓が身じろぐ。だが、律は力を緩めず、華奢な体に抱き付きながら、「帰るな……」と再び耳元へ囁いた。
「り──」
 一楓の後頭部に手を回し、自分の方へ引き下げると、唇同士をくっ付けた。
 薄い背中に腕を添え、小さな体を手繰り寄せると、一楓の鼓動が律の中に一気に流れ込んでくる。
 初めての口付けはぎこちなく、真正面から挑んだものだから、鼻頭同士がぶつかってしまった。
 心臓が口から飛び出すほど緊張していたけれど、考えるより先に呟いていた。
「一楓が……好きだ」

 吹き溜まりにあった感情が巻き上がり、燻っていた欲望が言葉を後押ししてくれる。
 律は冷えた廊下に背中を預けたまま、一楓の温もりをひたすら引き留めていると、見下ろしてくる眸が、物言いたげに揺れているのを見つけた。
 虹彩が潤み出し、白い頬が徐々に赤く染まっていくのも。

「ごめん、男に言われても気持ち悪いよな。でも京都で、初めて見た時から、きっとずっと──」
 駆け足で想いを口にしたけれど、感情が先走って上手く言えない。律は告白を補うように一楓の頬にそっと触れてみた。
 図書室で一楓がこっそりくれた、好きを表す仕草が律の告白の手助けをしていたから、この想いは届くと信じて迷いなく告げた。

「俺も……律が好き。ずっと、ずっ──んんっ」
 打ち明けてくれた言葉が嬉し過ぎて、たまらず一楓を抱き寄せてまた唇を合わせた。 
 もっと触れたくて、もっと欲しくて、今度はちゃんと角度を変えて重ねた。
 想いを確かめるよう、何度も何度も蜜を味わった。

 甘く柔らかな感触に溺れ、とどまることを忘れて夢中になっていると、不意に鼻の奥がむず痒くなり、律は堪えきれず豪快にくしゃみをしてしまった。
 おかげで、甘い空気は一気に吹き飛んだ。
「ご、ごめん。俺、カッコ悪すぎるな」
 お互いが同じ思いだった証が、一回のくしゃみで台無しだ。
 情けない……と、手のひらで顔を隠そうとしたら、一楓に手首ごと奪われた。

「ダサくなんかないっ。カッコいい……よ。そ、それより律、風邪ひくから早くこたつに──」
 細い指が心配げに頬を包み込んでくれる。一楓がくれるささやかな仕草も愛おしくて、また口付けた。際限なく求めてしまう自分を戒めると、律は立ち上がって一楓を引っ張り上げた。

 ココアを作り直そうと、台所へ向かう律のパーカーが引き止められ、肩越しに振り返ると、不安そうな一楓が裾を掴んでいる。
「……いいの? 律。俺、男だし……律、モテる……し」
 掴んでいる指が震えている。律はその手を自分の指で絡めて強く握った。

「俺だって男だ。それに、一楓が男でも女でも好きになったよ。性別は関係ない、お前だから好きになったんだ」
 一楓の手を一段と強く握り、強さで想いを伝えようとした。
「……うん、ごめん、律」
「何で謝るんだ? それに『ごめん』じゃなくて『ありがとう』だろ。俺はありがとうだよ、一楓と出会えたんだから」
「律……」

「俺はずっと一楓と一緒にいたい。俺の願いを叶えてくれるのは一楓だけなんだ」
 目に見えない気持ちを言葉で示し、一楓の指先を唇まで運んでそこへ口付けた。

「俺も……律と一緒にいたい、ずっと……」
 最高に嬉しい言葉を言ってくれた一楓の虹彩は膨れ、後から後から雫が流れ落ちてくるから袖口で拭ってやった。
「律、ごめ──」
「ありがとう、だろ?」
 一楓の不安を取り払うよう、律は表情筋を最大限に緩めた。

「あり……がと、律」
 涙を溢すまいと、一楓が目をしょぼしょぼさせながら微笑んでいる。
 可愛らしい表情に庇護欲を掻き立てられ、華奢な体を思いっきりまた抱き締めた。
「座って待ってろ、ココア作るから……」
 耳元で囁くと、返事の代わりに細い腕が辿々しく背中に触れてくる。
 嬉しさのあまり、採蜜する蜂のように一楓の髪に顔を埋めると、二つの体の隙間を埋めるよう、さっきよりも一段と強く抱き締めた。
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