桜はそっと淡く咲く

久遠ユウ(くおんゆう)

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バイバイ

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 警察署からの帰り道、いつの間にか肩を並べ、自分の歩調に合わせて歩く律に気付く。
 側にある腕に触れそうで触れられず、気軽に戯れついていた過去の湊を、今の湊が打ちのめす。
 隣を歩く律に鼓動を逸らせながらも、侮蔑を込めた双眸を思い出すと、湊は何も喋れなかった。

 街灯が灯る黄昏に道行く人の姿はなく、遠くで車が駆け抜ける音が聞こえてくるだけだった。
 無言の時間が苦しくもあり、でも、このままずっと道が続けばいいのにとも思った。だが、容赦なく別れ道はやってくる。
 いつもの十字路はもう目の前だ。
 あの頃の自分は律と離れ難くて、何だかんだと話を引き伸ばしては律を引き止めていた。

 身勝手な習慣を思い出し、気まずさを感じた湊は、「じゃ……」と踵に力を込めた。
 一緒に歩くことがこれで最後だと思うと、切なすぎて苦しい。それでも勇気を出して律に背を向けた。何か声をかけたかったけれど、喉が乾燥してうまく声が出ない。
 名前も呼ぶ勇気すらなかった。
 追い込まれることに慣れていない湊は、無言で立ち去ることを選んだ。
 自分の感情を切り捨てるつもりで。なのに、家路へ向かおうとする背中に、思いがけない言葉が注がれる。

「湊、家まで送るよ」

 予想もしない言葉に振り返られずにいると、再び律が肩を並べ、鷹屋敷家へと歩き出した。
 これまでは湊が拗ねると、律は家の前まで送ってくれた。今、その記憶が再現され、嬉しくて涙腺が緩みそうになる。けれど千載一遇のチャンスは短く、それを生かすことが出来ないまま自宅の門が現れた。

 鷹屋敷家を前にすると、不意に律の足が止まり、「湊……」と呼び止められた。
 律の声は砂糖菓子のように、やんわりと湊の心を甘く包む。名前を呼ばれただけなのに、多幸感に満たされてしまうのは、この男を好きすぎるからだ。

「……俺は、やっぱりお前が許せない」
 律の言葉で手にした甘みはみるみる冷え固まり、鋭い先端に姿を変えて容赦なく湊の胸を貫く。
 真正面から律を見る度胸もなく、「ああ……わかってる」と、目を逸らして罪から逃げた。

「けどな、俺はお前をどうしても憎めないんだ。東郷に襲われた時にわかったよ、お前のことも大事なんだって。大事な、ダチだ」
「律……」
 項垂れていた心と顔が、律という引力に引き寄せられ、次第に上昇し、背けていた視線を戻した。
 綴られる言葉を聞き漏らさないよう、湊は全てを甘んじて受け入れる姿勢をとった。

「お前が一楓にしたことは許せない。でも……その後に湊がとった行動は温ったかいもんもあった」
 上着のポケットに手を突っ込みながら、律が真っ直ぐ自分を見つめている。それは咎めるものでも、詰るものでもなく、いつもの優しく凛々しい律の顔だった。

「り……つ、俺……」
「許せないって気持ちはお前にだけじゃなく、お前を許そうとする自分自身にもあるんだとおも──」
「違う。律は悪くないっ! 俺がバカだった、バカっだんだ……」
「湊、俺は一楓にたくさん教えてもらったんだ。人を大切に想う気持ちや、誰かを許すこと。幸せも……全部、一楓が教えてくれた。だから俺は一楓に恥じないよう、真っ直ぐに生きて行きたいんだ」
「りつ……」
「それと……今更だけどありがとな、一楓のために親に頼んで最後まで入院させてくれたり。あと、ガーベラだっけ。届けてくれてたんだろ?」

 情動性が引き起こす分泌物が、堪えきれず湊の目から溢れ、頬を伝う。
 懐かしい大きな手のひらが髪を撫でてくれると、湊は崩れるようにその場に蹲ってしまった。
 視線を合わせるよう律も屈み、背中を撫でてくれる。大好きな人の手の温もりで涙が止まらない。

「り……律。俺、お前らに……ひ、酷いことやった……ごめ、ごめん。本当に……ごめん」
 小さく折り曲げた体を一層丸め、湊は周りも気にせず小さな子どものように泣きじゃくった。
「俺も知らずにお前を傷つけてた。お前がどんな気持ちで俺との関係を望んだこととか、俺は知ろうともしないで、ずっと無視してた……。ごめんな」
 湊は応える代わりに何度も首を左右に振った。
 懺悔さんげの雫を手で覆い、ひたすら首を横に振った。

「俺……い、一楓にも謝れて……ない。千歳……にも。俺……ごめん、ごめん……なさい」
 消えない原罪と、傷付け傷付いた過去を吐き出すよう、湊は身体中の水分を使って涙を流し続けた。
「東郷が言ったこと、俺は事実かどうかは分からない。けど、お前の両親には感謝してる、感謝しても仕切れないよ。ちっぽけな高校生との約束を守ってくれたんだからな」
 微笑む律の顔は、湊が大好きな変わらない、いつもの律だ。けれど涙で滲んでよく見えない。

「……お、俺は……優位にいたかった……だけな……んだ」
「理由なんていい。本当に感謝してるよ。今思うと、非常識なことしてたよな。一楓のためなんて言って、俺のエゴでしかないのに。けど、これからも金は受け取ってくれよ。俺のケジメだから」
「わ、わかった……」
 振り絞った声で湊は応える。

「ほら、立てよ。あーあ、明日はきっと休講だろーな」
 たくましい腕が差し出され、湊はその大きな手に戸惑いながらも縋って立ち上がった。
 男二人が玄関先で何やってんだろな、なんて笑いながら言ってくれる。大好きで、大切な人。
 ずっと泥濘の中でもがき、苦しかった思い。でもそれ以上に一楓は苦しく、律は悲しかったはずだ。
 全てが許されるとは思わない。だが、救われた命に感謝し、それを忘れずに生きようと、少しだけ軽くなった心で湊は誓った。
 湊はようやく素直な気持ちで、「ありがとう」と律に笑って言えた。

 苦しくても息をする。悲しくても逃げ出さず、無様な過去を忘れないようにこれからも生きて行く。
 いつか誰かのために笑顔を向けられるよう、暗闇にも挑める人間になれるように……。
 そう教えてくれたのは、目の前で笑ってくれるかけがえのない人だ。
 この先で、律より好きになる人はきっと現れないだろうなと、切ない感情が知らしめる。

「見ててやるから、早く家に入れ」
「ダメだ、律が先に行けよ。たまには俺に見送らせろ」
 散々泣いた後なのに、いつもの強気な口調で言ってみる。
 ちょっと照れ臭かったけれど。
「お、おお。わかった……じゃまたな」
 以前と同じ湊の様子に安心したのか、手を上げると、律は踵を返して前を進んだ。
 背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を歩く律の後ろ姿を、湊は眩しそうに見つめていた。

「じゃあな……律。……バイバイ」
 大好きだった人の名前を、噛み締めるように呟く。
 夜の色へとグラデーションに移り変わる空の下で、湊は律の残像をいつまでも見送っていた。
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