7 / 36
4
しおりを挟む
授業が終わってすぐ、ダッシュで学校を飛び出した。
必死で走っている理由は、一葉からのメッセージを読んだからだ。
バスに乗って一息つくと、凛は鞄に手を伸ばして確かめるように触れた。
よかった、今日持って来てて……。
『巾着袋持ってたら、それ持ってすぐ病院に来て』
メッセージはそれだけだった。
シンプルな内容は、勤務中に送ってくれたことが、ありありとわかる。
でも、母さんが仕事中にスマホ触るなんて、珍しいな……。
よほどのことがあったんだろうか。既読もついてない。
不安な気持ちで景色を見ていると、車内アナウンスが聞こえた。
海星総合医療センター前でバスが停車すると、凛はジャンプして降り立った。
バスが通り過ぎた風で、前髪がふわっと揺れ、初夏の香りが鼻をかすめた。
気持ちいいな、今が一番いい季節だ……。
晴れた空に、心地いい温度とほのかな潮の匂いがよく似合っている。
凛は風に背中を押されるよう、病院までの慣れた道を歩いた。
潮風ヶ丘の中腹に建つ、海星総合医療センターは『海が見える病院』として評判だった。
特に、最上階にある小児科病棟からの景色は最高だったらしい。
『らしい』というのは、今は、その美しい景色を見ることができなくなったからだ。
プレイルームの窓から見える青い海に、微かに聞こえる波の音。
夜になるとそれは子守唄のように、子どもたちを眠りにつかせてくれる。
病院であることを忘れてしまいそうな、まるでおとぎの国のような空間だった。
「……何も、病院の真ん前に建てなくってもいいのに」
病院のすぐ前に建ったホテルを恨めしく見上げながら、凛は一葉の言葉を思い出していた。
──海はね、もうここから見えなくなっちゃったんだよ。
一葉が苦笑まじりに言ったとき、凛は頷くだけしかできなかった。
まだ父が生きていた頃、祖母の見舞いにこの病院を訪れたことがある。
幼かった凛は、病室の窓いっぱいに広がる海を見て、大声ではしゃいだ──らしい。
時々、一葉が思い出したように笑うから、「そのネタは古いっ」と反論していた。
「小学校入る前だったもんな、覚えてないの、当たり前だ……」
祖母が入退院を繰り返している間、父の病気が見つかった。
東京の大学病院で長期の闘病生活を余儀なくされた。
佐伯家に明るい兆しが得られないまま祖母が亡くなり、あとを追うように父も逝ってしまった。
悲しみに暮れる日々を過ごしていると、ある日、一葉が頭を下げてきた。
──凛、お願い。一緒にお父さんの生まれた町で暮らしてくれない?
わけを聞けば、遺産整理の流れで、祖母の家は取り壊しを求められていた。
一葉が父の生まれ育った海の町が大好きなのは、凛も知っている。
だから正直、迷った。
母一人子ひとり。離れて暮らす選択肢は最初からない。
だからといって、東京を離れるのも簡単じゃなかった。
高校でできた友達、気に入っていた通学路、通い慣れた絵画の予備校。
凛の心は、東京と海の町を何度も行ったり来たりしていた。
悩ましい日々を過ごしていたとき、ふと、棚に置いていた金魚鉢が目に入った。
色とりどりのシーグラスの中に、ひときわ目立つ群青色。
小学二年の夏休み、一週間だけの、短くも濃い思い出がそこに詰まっていた。
『また来年』と交わした約束は果たせなかった。
遠い夏の記憶が、転校を迷う凛の心を優しく、くすぐった。
「シーグラス見て転校決めたなんて、母さんが知ったら凹むよな」
病院の入り口を抜けると、灰色の建物に遮られた景色が目に入る。
待合には影が落ち、水平線も半分しか見えない。
寂しい気持ちのまま、凛はエレベーターへと向かった。
通院や入院中の患者、そして医療従事者も、みんなこの海に癒されてきた。
それが見えなくなったのなら──だったら、それを届けてあげればいい。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
でも、どうやって……。
考え込んでいた凛に、一葉が言った。
──シーグラスを見てると、海を思い出すね。
そのひと言で、凛は、父との思い出だったシーグラス集めを再開した。
拾い集めたかけらを一葉に預けると、直接みんなに渡してあげてと言われた。
それからは時々、小児科病棟へ顔を出しては、凛は子どもたちと過ごした。
一緒に絵を描いたり、絵本を読んだり。少しだけ見える海を一緒に眺めたり。
小さな子どもたちと触れ合うと、こっちが癒される。
ましてや、病いを抱えてる姿は健気で尊い。
何かしてあげたい、そんな思いは自然と色濃くなっていた。
「でも……母さん、何の用事だろ」
スマホを見ると、まだ既読はついていない。
凛は、さっきより少しだけ早足になって、エレベーターのボタンを押した。
必死で走っている理由は、一葉からのメッセージを読んだからだ。
バスに乗って一息つくと、凛は鞄に手を伸ばして確かめるように触れた。
よかった、今日持って来てて……。
『巾着袋持ってたら、それ持ってすぐ病院に来て』
メッセージはそれだけだった。
シンプルな内容は、勤務中に送ってくれたことが、ありありとわかる。
でも、母さんが仕事中にスマホ触るなんて、珍しいな……。
よほどのことがあったんだろうか。既読もついてない。
不安な気持ちで景色を見ていると、車内アナウンスが聞こえた。
海星総合医療センター前でバスが停車すると、凛はジャンプして降り立った。
バスが通り過ぎた風で、前髪がふわっと揺れ、初夏の香りが鼻をかすめた。
気持ちいいな、今が一番いい季節だ……。
晴れた空に、心地いい温度とほのかな潮の匂いがよく似合っている。
凛は風に背中を押されるよう、病院までの慣れた道を歩いた。
潮風ヶ丘の中腹に建つ、海星総合医療センターは『海が見える病院』として評判だった。
特に、最上階にある小児科病棟からの景色は最高だったらしい。
『らしい』というのは、今は、その美しい景色を見ることができなくなったからだ。
プレイルームの窓から見える青い海に、微かに聞こえる波の音。
夜になるとそれは子守唄のように、子どもたちを眠りにつかせてくれる。
病院であることを忘れてしまいそうな、まるでおとぎの国のような空間だった。
「……何も、病院の真ん前に建てなくってもいいのに」
病院のすぐ前に建ったホテルを恨めしく見上げながら、凛は一葉の言葉を思い出していた。
──海はね、もうここから見えなくなっちゃったんだよ。
一葉が苦笑まじりに言ったとき、凛は頷くだけしかできなかった。
まだ父が生きていた頃、祖母の見舞いにこの病院を訪れたことがある。
幼かった凛は、病室の窓いっぱいに広がる海を見て、大声ではしゃいだ──らしい。
時々、一葉が思い出したように笑うから、「そのネタは古いっ」と反論していた。
「小学校入る前だったもんな、覚えてないの、当たり前だ……」
祖母が入退院を繰り返している間、父の病気が見つかった。
東京の大学病院で長期の闘病生活を余儀なくされた。
佐伯家に明るい兆しが得られないまま祖母が亡くなり、あとを追うように父も逝ってしまった。
悲しみに暮れる日々を過ごしていると、ある日、一葉が頭を下げてきた。
──凛、お願い。一緒にお父さんの生まれた町で暮らしてくれない?
わけを聞けば、遺産整理の流れで、祖母の家は取り壊しを求められていた。
一葉が父の生まれ育った海の町が大好きなのは、凛も知っている。
だから正直、迷った。
母一人子ひとり。離れて暮らす選択肢は最初からない。
だからといって、東京を離れるのも簡単じゃなかった。
高校でできた友達、気に入っていた通学路、通い慣れた絵画の予備校。
凛の心は、東京と海の町を何度も行ったり来たりしていた。
悩ましい日々を過ごしていたとき、ふと、棚に置いていた金魚鉢が目に入った。
色とりどりのシーグラスの中に、ひときわ目立つ群青色。
小学二年の夏休み、一週間だけの、短くも濃い思い出がそこに詰まっていた。
『また来年』と交わした約束は果たせなかった。
遠い夏の記憶が、転校を迷う凛の心を優しく、くすぐった。
「シーグラス見て転校決めたなんて、母さんが知ったら凹むよな」
病院の入り口を抜けると、灰色の建物に遮られた景色が目に入る。
待合には影が落ち、水平線も半分しか見えない。
寂しい気持ちのまま、凛はエレベーターへと向かった。
通院や入院中の患者、そして医療従事者も、みんなこの海に癒されてきた。
それが見えなくなったのなら──だったら、それを届けてあげればいい。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
でも、どうやって……。
考え込んでいた凛に、一葉が言った。
──シーグラスを見てると、海を思い出すね。
そのひと言で、凛は、父との思い出だったシーグラス集めを再開した。
拾い集めたかけらを一葉に預けると、直接みんなに渡してあげてと言われた。
それからは時々、小児科病棟へ顔を出しては、凛は子どもたちと過ごした。
一緒に絵を描いたり、絵本を読んだり。少しだけ見える海を一緒に眺めたり。
小さな子どもたちと触れ合うと、こっちが癒される。
ましてや、病いを抱えてる姿は健気で尊い。
何かしてあげたい、そんな思いは自然と色濃くなっていた。
「でも……母さん、何の用事だろ」
スマホを見ると、まだ既読はついていない。
凛は、さっきより少しだけ早足になって、エレベーターのボタンを押した。
21
あなたにおすすめの小説
【完結】言えない言葉
未希かずは(Miki)
BL
双子の弟・水瀬碧依は、明るい兄・翼と比べられ、自信がない引っ込み思案な大学生。
同じゼミの気さくで眩しい如月大和に密かに恋するが、話しかける勇気はない。
ある日、碧依は兄になりすまし、本屋のバイトで大和に近づく大胆な計画を立てる。
兄の笑顔で大和と心を通わせる碧依だが、嘘の自分に葛藤し……。
すれ違いを経て本当の想いを伝える、切なく甘い青春BLストーリー。
第1回青春BLカップ参加作品です。
1章 「出会い」が長くなってしまったので、前後編に分けました。
2章、3章も長くなってしまって、分けました。碧依の恋心を丁寧に書き直しました。(2025/9/2 18:40)
先輩のことが好きなのに、
未希かずは(Miki)
BL
生徒会長・鷹取要(たかとりかなめ)に憧れる上川陽汰(かみかわはるた)。密かに募る想いが通じて無事、恋人に。二人だけの秘密の恋は甘くて幸せ。だけど、少しずつ要との距離が開いていく。
何で? 先輩は僕のこと嫌いになったの?
切なさと純粋さが交錯する、青春の恋物語。
《美形✕平凡》のすれ違いの恋になります。
要(高3)生徒会長。スパダリだけど……。
陽汰(高2)書記。泣き虫だけど一生懸命。
夏目秋良(高2)副会長。陽汰の幼馴染。
5/30日に少しだけ順番を変えたりしました。内容は変わっていませんが、読み途中の方にはご迷惑をおかけしました。
【完】君に届かない声
未希かずは(Miki)
BL
内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。
ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。
すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。
執着囲い込み☓健気。ハピエンです。
【完結】君の手が、入道雲を彫る
江夏みどり
BL
【完結】
彫刻をやめた高校生の天才彫刻家・時原夏樹(ときはらなつき)は転校先の同級生・須縄霜矢(すのそうや)に片想いしてしまう。
北海道雪まつりに出展することを夢見る霜矢は、夏樹を強引に「美術部・雪像班」に入部させ、雪像づくりに巻き込んでいく。
過去のトラウマから人の手に触れることが苦手な夏樹。ある日霜矢が「人の手に触れる練習」と称して夏樹の手に触れてきて……?
天才肌のトラウマ持ち彫刻家×天真爛漫な夢見る男子高校生の、じれきゅんBL!
仲良くなったと思った相手は、どうやら友達なんて作りたくないらしい
たけむら
BL
仲良くなった相手は、どうやら友達なんて要らないっぽい
石見陽葵には、大学に入ってから知り合った友人・壬生奏明がいる。少し冷たそうな第一印象から周りの学生に遠巻きにされている奏明に、とある提案をしてみると、衝撃的な一言が返ってきて…?
消えない思い
樹木緑
BL
オメガバース:僕には忘れられない夏がある。彼が好きだった。ただ、ただ、彼が好きだった。
高校3年生 矢野浩二 α
高校3年生 佐々木裕也 α
高校1年生 赤城要 Ω
赤城要は運命の番である両親に憧れ、両親が出会った高校に入学します。
自分も両親の様に運命の番が欲しいと思っています。
そして高校の入学式で出会った矢野浩二に、淡い感情を抱き始めるようになります。
でもあるきっかけを基に、佐々木裕也と出会います。
彼こそが要の探し続けた運命の番だったのです。
そして3人の運命が絡み合って、それぞれが、それぞれの選択をしていくと言うお話です。
三ヶ月だけの恋人
perari
BL
仁野(にの)は人違いで殴ってしまった。
殴った相手は――学年の先輩で、学内で知らぬ者はいない医学部の天才。
しかも、ずっと密かに想いを寄せていた松田(まつだ)先輩だった。
罪悪感にかられた仁野は、謝罪の気持ちとして松田の提案を受け入れた。
それは「三ヶ月だけ恋人として付き合う」という、まさかの提案だった――。
猫と王子と恋ちぐら
真霜ナオ
BL
高校一年生の橙(かぶち)は、とある理由から過呼吸になることを防ぐために、無音のヘッドホンを装着して過ごしていた。
ある時、電車内で音漏れ警察と呼ばれる中年男性に絡まれた橙は、過呼吸を起こしてしまう。
パニック状態の橙を助けてくれたのは、クラスで王子と呼ばれている千蔵(ちくら)だった。
『そうやっておまえが俺を甘やかしたりするから』
小さな秘密を持つ黒髪王子×過呼吸持ち金髪の高校生BLです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる