ひたむきに恋して

久遠ユウ(くおんゆう)

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 授業が終わってすぐ、ダッシュで学校を飛び出した。
 必死で走っている理由は、一葉からのメッセージを読んだからだ。
 バスに乗って一息つくと、凛は鞄に手を伸ばして確かめるように触れた。

 よかった、今日持って来てて……。

『巾着袋持ってたら、それ持ってすぐ病院に来て』

 メッセージはそれだけだった。
 シンプルな内容は、勤務中に送ってくれたことが、ありありとわかる。

 でも、母さんが仕事中にスマホ触るなんて、珍しいな……。

 よほどのことがあったんだろうか。既読もついてない。
 不安な気持ちで景色を見ていると、車内アナウンスが聞こえた。
 海星総合医療かいせいそうごういりょうセンター前でバスが停車すると、凛はジャンプして降り立った。

 バスが通り過ぎた風で、前髪がふわっと揺れ、初夏の香りが鼻をかすめた。

 気持ちいいな、今が一番いい季節だ……。

 晴れた空に、心地いい温度とほのかな潮の匂いがよく似合っている。
 凛は風に背中を押されるよう、病院までの慣れた道を歩いた。

 潮風ヶ丘しおかぜがおかの中腹に建つ、海星総合医療センターは『海が見える病院』として評判だった。
 特に、最上階にある小児科病棟からの景色は最高だったらしい。
『らしい』というのは、今は、その美しい景色を見ることができなくなったからだ。

 プレイルームの窓から見える青い海に、微かに聞こえる波の音。
 夜になるとそれは子守唄のように、子どもたちを眠りにつかせてくれる。
 病院であることを忘れてしまいそうな、まるでおとぎの国のような空間だった。

「……何も、病院の真ん前に建てなくってもいいのに」

 病院のすぐ前に建ったホテルを恨めしく見上げながら、凛は一葉の言葉を思い出していた。

 ──海はね、もうここから見えなくなっちゃったんだよ。
 一葉が苦笑まじりに言ったとき、凛は頷くだけしかできなかった。

 まだ父が生きていた頃、祖母の見舞いにこの病院を訪れたことがある。
 幼かった凛は、病室の窓いっぱいに広がる海を見て、大声ではしゃいだ──らしい。
 時々、一葉が思い出したように笑うから、「そのネタは古いっ」と反論していた。

「小学校入る前だったもんな、覚えてないの、当たり前だ……」

 祖母が入退院を繰り返している間、父の病気が見つかった。
 東京の大学病院で長期の闘病生活を余儀なくされた。
 佐伯家に明るい兆しが得られないまま祖母が亡くなり、あとを追うように父も逝ってしまった。

 悲しみに暮れる日々を過ごしていると、ある日、一葉が頭を下げてきた。

 ──凛、お願い。一緒にお父さんの生まれた町で暮らしてくれない?

 わけを聞けば、遺産整理の流れで、祖母の家は取り壊しを求められていた。
 一葉が父の生まれ育った海の町が大好きなのは、凛も知っている。
 だから正直、迷った。
 母一人子ひとり。離れて暮らす選択肢は最初からない。
 だからといって、東京を離れるのも簡単じゃなかった。

 高校でできた友達、気に入っていた通学路、通い慣れた絵画の予備校。
 凛の心は、東京と海の町を何度も行ったり来たりしていた。

 悩ましい日々を過ごしていたとき、ふと、棚に置いていた金魚鉢が目に入った。
 色とりどりのシーグラスの中に、ひときわ目立つ群青色。
 小学二年の夏休み、一週間だけの、短くも濃い思い出がそこに詰まっていた。

『また来年』と交わした約束は果たせなかった。
 遠い夏の記憶が、転校を迷う凛の心を優しく、くすぐった。

「シーグラス見て転校決めたなんて、母さんが知ったら凹むよな」

 病院の入り口を抜けると、灰色の建物に遮られた景色が目に入る。
 待合には影が落ち、水平線も半分しか見えない。
 寂しい気持ちのまま、凛はエレベーターへと向かった。

 通院や入院中の患者、そして医療従事者も、みんなこの海に癒されてきた。
 それが見えなくなったのなら──だったら、それを届けてあげればいい。
 ふと、そんな考えが浮かんだ。

 でも、どうやって……。

 考え込んでいた凛に、一葉が言った。
 ──シーグラスを見てると、海を思い出すね。

 そのひと言で、凛は、父との思い出だったシーグラス集めを再開した。
 拾い集めたかけらを一葉に預けると、直接みんなに渡してあげてと言われた。

 それからは時々、小児科病棟へ顔を出しては、凛は子どもたちと過ごした。
 一緒に絵を描いたり、絵本を読んだり。少しだけ見える海を一緒に眺めたり。
 小さな子どもたちと触れ合うと、こっちが癒される。
 ましてや、病いを抱えてる姿は健気で尊い。
 何かしてあげたい、そんな思いは自然と色濃くなっていた。

「でも……母さん、何の用事だろ」
 スマホを見ると、まだ既読はついていない。
 凛は、さっきより少しだけ早足になって、エレベーターのボタンを押した。
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