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幽霊
新居の怪
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とてもいい夢を見ていたの。
あったかくて、優しい。
素敵な夢だった。
最後にひとつだけ、やり残したこと。
それを叶えるための、夢。
ねえ、忘れてしまってかまわない。
でも、これだけは覚えていてね。
あなたの幸せは、私の幸せ。
きっと、いつか。
また、どこかで。
「助けてください、東雲さん……」
真剣な顔をして悠弥の部屋を訪れたのは、一昨日まで隣人だった上田太助だった。
「どうしたんですか、ていうかひどいクマですね……顔……」
定休日の朝、悠弥はスウェット姿のままで自宅玄関に立っていた。昨夜は古い友人との飲み会で遅かったこともあり、自分も他人のことを言えた顔ではないのだが。
「どうしたもこうしたも……大変なんですよ、引っ越し先の部屋が……」
このアパート、メゾン江崎の106号室を退去し、太助が引っ越していったのが2日前。
「部屋が……? 設備の不具合だったらすぐに管理会社に電話したほうが……」
ふるふると首を横に振った太助は、眉間に深い溝を作りながら言う。
「違うんですよ、出るんですよっ、幽霊が!」
「……えぇ?」
中肉中背、さえない20代男子といった風貌の太助はその実、狸のあやかしである。
そのあやかしが幽霊が出たと泣きついてきたのだから、悠弥は思わず頓狂な声を上げた。
「あやかしも幽霊が怖いんですか……」
「怖いですよそりゃ……知らない人と同居なんて……」
太助が引っ越しを考えていると聞いたとき、不動産屋である悠弥は当然のごとく、部屋探しを手伝おうと声をかけた。しかし太助は、全て自分でやってみたいといい、他の不動産屋へ一人で物件を探しに行ったのだ。
太助は選んできた物件の募集図面を事後報告で悠弥に見せた。その物件は条件にしては賃料が安すぎるように思え、訝しんだ悠弥は、太助に必ず「訳ありの物件ではないか」と聞くように促した。
不動産屋の答えはもちろんノー。太助は安堵して契約を進めたのだった。
いわゆる事故物件ではないようだが、何かしらのトラブルはあるかもしれないと悠弥は踏んでいたのだ。
(まさか幽霊が出る部屋とはね……)
とにかく一度部屋に来てください、と懇願され、悠弥は重だるい頭を体に乗せたまま、太助の新居へと向かった。
新居はローカル線の駅から徒歩8分。5階建鉄筋コンクリート造のマンションだ。オートロックにエレベーターつき。3階角部屋の1DKが太助の部屋である。
築年は経っているが、内装は大幅にリフォームが入ったらしく、小綺麗に仕上がっていた。
玄関を開けると右手に背の高いシューズボックスがあり、そのドアにはミラーがついている。廊下の脇に洗面所、その奥がバスルーム。こちらもユニットバスの入れ替えがあったらしく、水垢ひとつない状態だ。反対側にはトイレ。もちろん洋式で温水洗浄便座つき。
「俺の部屋よりずっと設備がいいじゃないですか……」
こんなに建物も内装もしっかりしていて、しかも広い。だが1Kである悠弥の部屋との差額はわずか5千円なのだ。悠弥は小さく愚痴りながら太助の後についてダイニングルームへと進む。
ダイニングへのドアを開く。壁付きのキッチンはシステムキッチンで、2口コンロとグリルがついている。8帖のダイニングの隣は2枚の引き戸でつながった洋室6帖。難点があるとすれば、縦長の間取りなのでダイニングを通らなければ洋室に入れないことくらいだろうか。
洋室の端にはベッドが置かれ、部屋の真ん中にはローテーブル。テーブルにはコーヒーがなみなみと注がれたままのマグカップが2つ置いてあった。
「誰か来てたんですか?」
自分の部屋だというのに、太助はそわそわと落ち着かない。
「……幽霊ですよ……」
「幽霊にコーヒー出したんですか」
怖がっているのか、友達になりたいのかどちらなのだろう。
「ちゃんと話し合ってお引き取り願おうと思ったんです」
そのコーヒーが手付かずで残っているということは、話し合いはうまくいかなかったのだろうか。
(待て待て。そもそも幽霊がコーヒーを飲めるわけないじゃないか)
思い直し、マグカップを片付けはじめる太助を眺めつつ話を進める。
「それで……話し合いはできたんですか?」
部屋の中を見回すが、他に変わったところはないし、もちろん幽霊の姿もない。太助も平然とした様子でいるということは、今は出てきていないということなのだろう。
「それが全然……。彼女、ここは自分の部屋だって言ってきかないんです」
どうやら幽霊は女性らしい。
ということは、もしかしたら、その女性はこの部屋で亡くなったのかもしれない。止むに止まれぬ事情で死んでしまった女性が、未練を残したままこの部屋に取り憑いている……などというのがセオリーだろうか。
そこまで考えて悠弥は身震いした。
「化けて出るってことは、相当な思いを残して死んだ人ってことですかね……」
「怖いこと言わないでくださいよぉ」
しかし太助も呑気にコーヒーでもてなそうとしていたのだから、少なくとも、いきなり危害を加えてくるような相手ではなさそうだ。
「彼女、今は出かけているみたいですけど……」
「出かけてる?」
「いや、見当たらないんで……」
「なんだか仲が良さそうじゃないですか、太助さん……」
「そんなことありませんよ……うわぁぁっ!」
「うえぇぇ?!」
つられて思わず叫び声をあげたものの、何事も起きていない。
「なっ、なんなんですか! びっくりするじゃないですか」
照れ隠しに薄笑いを浮かべる悠弥。
「だっていきなり現れるから……」
「現れるって何が……」
太助は焦った表情のままこちらに顔を向けた。
「……」
その目は悠弥ではなく、その隣をじっと見つめている。
視線の先、自分の真横を見るが、そこには何もない。
太助がその虚空に向けて首を横に振った。
「違います、この人はお世話になっている不動産屋さんです。同居するわけじゃありませんよ」
「……」
「だから、ここは僕が借りた部屋だって言ってるじゃないですか……」
悠弥はちらりと自分の横に視線を移すが、相変わらずそこには何もない。
太助はその虚空に向けて話し続けている。
「あの、太助さん……?」
「東雲さんからもなんとか言ってください。こんなんじゃ僕、落ち着かなくて」
「そう言われても……」
虚空と太助を交互に見る悠弥を、太助は小首を傾げつつ見つめた。
悠弥も訝しげな表情で太助を見返した。
「まさか東雲さん……見えていないんですか……?」
(やっぱりなぁ……)
悠弥は深くため息をついた。
とてもいい夢を見ていたの。
あったかくて、優しい。
素敵な夢だった。
最後にひとつだけ、やり残したこと。
それを叶えるための、夢。
ねえ、忘れてしまってかまわない。
でも、これだけは覚えていてね。
あなたの幸せは、私の幸せ。
きっと、いつか。
また、どこかで。
「助けてください、東雲さん……」
真剣な顔をして悠弥の部屋を訪れたのは、一昨日まで隣人だった上田太助だった。
「どうしたんですか、ていうかひどいクマですね……顔……」
定休日の朝、悠弥はスウェット姿のままで自宅玄関に立っていた。昨夜は古い友人との飲み会で遅かったこともあり、自分も他人のことを言えた顔ではないのだが。
「どうしたもこうしたも……大変なんですよ、引っ越し先の部屋が……」
このアパート、メゾン江崎の106号室を退去し、太助が引っ越していったのが2日前。
「部屋が……? 設備の不具合だったらすぐに管理会社に電話したほうが……」
ふるふると首を横に振った太助は、眉間に深い溝を作りながら言う。
「違うんですよ、出るんですよっ、幽霊が!」
「……えぇ?」
中肉中背、さえない20代男子といった風貌の太助はその実、狸のあやかしである。
そのあやかしが幽霊が出たと泣きついてきたのだから、悠弥は思わず頓狂な声を上げた。
「あやかしも幽霊が怖いんですか……」
「怖いですよそりゃ……知らない人と同居なんて……」
太助が引っ越しを考えていると聞いたとき、不動産屋である悠弥は当然のごとく、部屋探しを手伝おうと声をかけた。しかし太助は、全て自分でやってみたいといい、他の不動産屋へ一人で物件を探しに行ったのだ。
太助は選んできた物件の募集図面を事後報告で悠弥に見せた。その物件は条件にしては賃料が安すぎるように思え、訝しんだ悠弥は、太助に必ず「訳ありの物件ではないか」と聞くように促した。
不動産屋の答えはもちろんノー。太助は安堵して契約を進めたのだった。
いわゆる事故物件ではないようだが、何かしらのトラブルはあるかもしれないと悠弥は踏んでいたのだ。
(まさか幽霊が出る部屋とはね……)
とにかく一度部屋に来てください、と懇願され、悠弥は重だるい頭を体に乗せたまま、太助の新居へと向かった。
新居はローカル線の駅から徒歩8分。5階建鉄筋コンクリート造のマンションだ。オートロックにエレベーターつき。3階角部屋の1DKが太助の部屋である。
築年は経っているが、内装は大幅にリフォームが入ったらしく、小綺麗に仕上がっていた。
玄関を開けると右手に背の高いシューズボックスがあり、そのドアにはミラーがついている。廊下の脇に洗面所、その奥がバスルーム。こちらもユニットバスの入れ替えがあったらしく、水垢ひとつない状態だ。反対側にはトイレ。もちろん洋式で温水洗浄便座つき。
「俺の部屋よりずっと設備がいいじゃないですか……」
こんなに建物も内装もしっかりしていて、しかも広い。だが1Kである悠弥の部屋との差額はわずか5千円なのだ。悠弥は小さく愚痴りながら太助の後についてダイニングルームへと進む。
ダイニングへのドアを開く。壁付きのキッチンはシステムキッチンで、2口コンロとグリルがついている。8帖のダイニングの隣は2枚の引き戸でつながった洋室6帖。難点があるとすれば、縦長の間取りなのでダイニングを通らなければ洋室に入れないことくらいだろうか。
洋室の端にはベッドが置かれ、部屋の真ん中にはローテーブル。テーブルにはコーヒーがなみなみと注がれたままのマグカップが2つ置いてあった。
「誰か来てたんですか?」
自分の部屋だというのに、太助はそわそわと落ち着かない。
「……幽霊ですよ……」
「幽霊にコーヒー出したんですか」
怖がっているのか、友達になりたいのかどちらなのだろう。
「ちゃんと話し合ってお引き取り願おうと思ったんです」
そのコーヒーが手付かずで残っているということは、話し合いはうまくいかなかったのだろうか。
(待て待て。そもそも幽霊がコーヒーを飲めるわけないじゃないか)
思い直し、マグカップを片付けはじめる太助を眺めつつ話を進める。
「それで……話し合いはできたんですか?」
部屋の中を見回すが、他に変わったところはないし、もちろん幽霊の姿もない。太助も平然とした様子でいるということは、今は出てきていないということなのだろう。
「それが全然……。彼女、ここは自分の部屋だって言ってきかないんです」
どうやら幽霊は女性らしい。
ということは、もしかしたら、その女性はこの部屋で亡くなったのかもしれない。止むに止まれぬ事情で死んでしまった女性が、未練を残したままこの部屋に取り憑いている……などというのがセオリーだろうか。
そこまで考えて悠弥は身震いした。
「化けて出るってことは、相当な思いを残して死んだ人ってことですかね……」
「怖いこと言わないでくださいよぉ」
しかし太助も呑気にコーヒーでもてなそうとしていたのだから、少なくとも、いきなり危害を加えてくるような相手ではなさそうだ。
「彼女、今は出かけているみたいですけど……」
「出かけてる?」
「いや、見当たらないんで……」
「なんだか仲が良さそうじゃないですか、太助さん……」
「そんなことありませんよ……うわぁぁっ!」
「うえぇぇ?!」
つられて思わず叫び声をあげたものの、何事も起きていない。
「なっ、なんなんですか! びっくりするじゃないですか」
照れ隠しに薄笑いを浮かべる悠弥。
「だっていきなり現れるから……」
「現れるって何が……」
太助は焦った表情のままこちらに顔を向けた。
「……」
その目は悠弥ではなく、その隣をじっと見つめている。
視線の先、自分の真横を見るが、そこには何もない。
太助がその虚空に向けて首を横に振った。
「違います、この人はお世話になっている不動産屋さんです。同居するわけじゃありませんよ」
「……」
「だから、ここは僕が借りた部屋だって言ってるじゃないですか……」
悠弥はちらりと自分の横に視線を移すが、相変わらずそこには何もない。
太助はその虚空に向けて話し続けている。
「あの、太助さん……?」
「東雲さんからもなんとか言ってください。こんなんじゃ僕、落ち着かなくて」
「そう言われても……」
虚空と太助を交互に見る悠弥を、太助は小首を傾げつつ見つめた。
悠弥も訝しげな表情で太助を見返した。
「まさか東雲さん……見えていないんですか……?」
(やっぱりなぁ……)
悠弥は深くため息をついた。
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