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幽霊
忘れない
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あの日、触れられるはずのない幽霊の私を、彼はしっかりとつかんだ。
あたたかい、そう感じたのは久しぶりだった。
私は引き戻されたのだ。ともすれば誰かを恨み、憎しみを抱きそうな仄暗い心から。
あれから数日が過ぎた。
朝日を浴びて、私は彼と一緒に家を出る。
仕事中の助手席で、景色を眺めたり、彼と話をする。
目に飛び込んでくる風景や聞こえてくるラジオ。全てが懐かしく、それでいて、とても新鮮に思えた。世界は、こんなにも眩しかったんだ。
他愛ないことや、思い出した昔話を彼とたくさん話した。
一度だけ喧嘩もした。
あまりにも私のことを気にかけてくれるものだから、逆に怖くなってしまった。
本当は私のことを邪魔に思っているのだろうと問い詰め、部屋を出ていくと言い放った。
彼は私を引き止めた。
でも、どうしても素直になれなかった。わがままを言ってみたかった。
「どうしてそんなに私に構うの! 出て行くって言ってるんだから、もういいでしょう?!」
「よくないです!」
珍しく声を荒げた彼は、続けてこういった。
「それじゃあ、あなたが幸せじゃないでしょう」
「もうほっといてよ。どうせ……どうせ忘れちゃうくせに。私が消えたら……すぐ忘れちゃうくせに……!」
確かめたかったのかもしれない。
彼は、どこか遠くを見るような目をして言った。
「どうしてこんな素敵な毎日を忘れられるっていうんですか」
遥ちゃんから連絡があったのは、喧嘩をした翌日だった。
「私」が納められている寺がわかったという。
私は自分の遺骨をお参りするという、奇妙な体験をした。
寂しい最期だったけど、今はこうして、私を想って手を合わせてくれる人たちがいる。それでもう十分だった。
秋の高い空と同じくらい、私の気持ちも澄んでいた。
奇妙な関係だけど、遥ちゃんたちとは友達になれたし、彼との暮らしも楽しい。
でも、薄々はわかっていた。いつまでもここにいてはいけないって。
彼は毎日、私にも朝のコーヒーや夜のお酒を用意してくれる。
もちろん、私はそれを飲むことはおろか、物体に触れることすらできない。
「もったいないから、いらないよ」
彼だってゆとりのある生活をしているわけじゃない。光熱費や食費もギリギリでやっていることを、私は知っている。
「いいんですよ、僕がこうしたいんです」
隣で食事してごめん、なんて逆に謝られる始末。匂いくらい、一緒に楽しめたらよかったのにな。
秋も終わりに近づいていた。この町は昼夜の気温差が大きく、朝晩の冷え込みがきつい。私は温度を感じないし、眠くもならない。だから、夜通し彼の寝顔を眺めていることもしばしば。
時々寝ている間に狸の姿に戻ってしまっていて、そんな朝は恥ずかしそうに洗面所に走りこんで、人の姿で戻ってくる。そして二人して笑った。
今夜も、寝相の悪い彼は掛け布団を剥いだまま眠っている。今日は木枯らしが吹いていたから、きっと寒いだろうに。
私は何気なく布団に手を掛けた。
なんの手ごたえもなく、すり抜ける私の手。
ああ、そうだ。私はものに触れられないんだった。
私は布団を掴もうとした。
なんども、なんども、なんども。
そして、私は幽霊になって、初めて泣いた。
5
美琴の歌声が店内に満ちていく。カウンターの端の席で、悠弥と太助は肩を並べてその声に身を委ねていた。
小さなステージでときに優しく、ときに激しく歌う美琴と、その空気に酔いしれる観客たち。冷えた屋外の空気を締め出すように、店内は熱気に満ちている。
ライブが終わると、美琴はこちらに視線を投げかけ、それに気づいた悠弥が手を振った。美琴が歯を見せて笑い、右手の親指を立てる。
最前のテーブル席に座っていたのは、遥と颯太、その隣に同じくメゾン江崎の住人である早乙女。美琴もそこに混じり談笑しはじめた。
そんな様子を悠弥の隣でぼんやり眺めていた太助が、ぽつりと言った。
「遅刻しちゃったんです。今日」
ステージに背を向け、カウンターに頬杖をつく。
「僕、寝相が悪いみたいで、いつも寝起きに布団をかけてなくて、寒くて起きるんです。でも……今朝は布団がちゃんとかかっていて。それが心地よくて、いつまでもそうしていたくて」
少しだけ開いていたカーテンから明るい日差しが差し込んで、ようやく目を覚ました。
「どうして起こしてくれないんですかって、思わず文句を言ってから気づいたんです」
玲子の姿が見当たらなかった。いつもなら窓際で微笑んで、おはようと声をかけてくれる玲子が、いなかった。
「職場では大目玉くらいましたけどね」
ぬるく燗をつけた日本酒をくいっと飲み干すと、太助は小さく笑みを浮かべた。
「でもそんなこと、どうでもよかった」
悠弥は黙って太助の猪口に酒を注ぐ。
「……これで、よかったんですよね。玲子さんはやっと、旅立てた」
玲子の声が、まだ耳に残っている。
一度だけ握ることができた細い手の感触も。
悠弥は太助の震える肩にそっと手を置いた。
太助は小さく鼻をすすって、噛み締めた唇を薄く開く。
「……忘れられるわけ、ないじゃないですか」
大粒の涙をこぼした太助の表情は、けれど、とても穏やかだった。
あたたかい、そう感じたのは久しぶりだった。
私は引き戻されたのだ。ともすれば誰かを恨み、憎しみを抱きそうな仄暗い心から。
あれから数日が過ぎた。
朝日を浴びて、私は彼と一緒に家を出る。
仕事中の助手席で、景色を眺めたり、彼と話をする。
目に飛び込んでくる風景や聞こえてくるラジオ。全てが懐かしく、それでいて、とても新鮮に思えた。世界は、こんなにも眩しかったんだ。
他愛ないことや、思い出した昔話を彼とたくさん話した。
一度だけ喧嘩もした。
あまりにも私のことを気にかけてくれるものだから、逆に怖くなってしまった。
本当は私のことを邪魔に思っているのだろうと問い詰め、部屋を出ていくと言い放った。
彼は私を引き止めた。
でも、どうしても素直になれなかった。わがままを言ってみたかった。
「どうしてそんなに私に構うの! 出て行くって言ってるんだから、もういいでしょう?!」
「よくないです!」
珍しく声を荒げた彼は、続けてこういった。
「それじゃあ、あなたが幸せじゃないでしょう」
「もうほっといてよ。どうせ……どうせ忘れちゃうくせに。私が消えたら……すぐ忘れちゃうくせに……!」
確かめたかったのかもしれない。
彼は、どこか遠くを見るような目をして言った。
「どうしてこんな素敵な毎日を忘れられるっていうんですか」
遥ちゃんから連絡があったのは、喧嘩をした翌日だった。
「私」が納められている寺がわかったという。
私は自分の遺骨をお参りするという、奇妙な体験をした。
寂しい最期だったけど、今はこうして、私を想って手を合わせてくれる人たちがいる。それでもう十分だった。
秋の高い空と同じくらい、私の気持ちも澄んでいた。
奇妙な関係だけど、遥ちゃんたちとは友達になれたし、彼との暮らしも楽しい。
でも、薄々はわかっていた。いつまでもここにいてはいけないって。
彼は毎日、私にも朝のコーヒーや夜のお酒を用意してくれる。
もちろん、私はそれを飲むことはおろか、物体に触れることすらできない。
「もったいないから、いらないよ」
彼だってゆとりのある生活をしているわけじゃない。光熱費や食費もギリギリでやっていることを、私は知っている。
「いいんですよ、僕がこうしたいんです」
隣で食事してごめん、なんて逆に謝られる始末。匂いくらい、一緒に楽しめたらよかったのにな。
秋も終わりに近づいていた。この町は昼夜の気温差が大きく、朝晩の冷え込みがきつい。私は温度を感じないし、眠くもならない。だから、夜通し彼の寝顔を眺めていることもしばしば。
時々寝ている間に狸の姿に戻ってしまっていて、そんな朝は恥ずかしそうに洗面所に走りこんで、人の姿で戻ってくる。そして二人して笑った。
今夜も、寝相の悪い彼は掛け布団を剥いだまま眠っている。今日は木枯らしが吹いていたから、きっと寒いだろうに。
私は何気なく布団に手を掛けた。
なんの手ごたえもなく、すり抜ける私の手。
ああ、そうだ。私はものに触れられないんだった。
私は布団を掴もうとした。
なんども、なんども、なんども。
そして、私は幽霊になって、初めて泣いた。
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美琴の歌声が店内に満ちていく。カウンターの端の席で、悠弥と太助は肩を並べてその声に身を委ねていた。
小さなステージでときに優しく、ときに激しく歌う美琴と、その空気に酔いしれる観客たち。冷えた屋外の空気を締め出すように、店内は熱気に満ちている。
ライブが終わると、美琴はこちらに視線を投げかけ、それに気づいた悠弥が手を振った。美琴が歯を見せて笑い、右手の親指を立てる。
最前のテーブル席に座っていたのは、遥と颯太、その隣に同じくメゾン江崎の住人である早乙女。美琴もそこに混じり談笑しはじめた。
そんな様子を悠弥の隣でぼんやり眺めていた太助が、ぽつりと言った。
「遅刻しちゃったんです。今日」
ステージに背を向け、カウンターに頬杖をつく。
「僕、寝相が悪いみたいで、いつも寝起きに布団をかけてなくて、寒くて起きるんです。でも……今朝は布団がちゃんとかかっていて。それが心地よくて、いつまでもそうしていたくて」
少しだけ開いていたカーテンから明るい日差しが差し込んで、ようやく目を覚ました。
「どうして起こしてくれないんですかって、思わず文句を言ってから気づいたんです」
玲子の姿が見当たらなかった。いつもなら窓際で微笑んで、おはようと声をかけてくれる玲子が、いなかった。
「職場では大目玉くらいましたけどね」
ぬるく燗をつけた日本酒をくいっと飲み干すと、太助は小さく笑みを浮かべた。
「でもそんなこと、どうでもよかった」
悠弥は黙って太助の猪口に酒を注ぐ。
「……これで、よかったんですよね。玲子さんはやっと、旅立てた」
玲子の声が、まだ耳に残っている。
一度だけ握ることができた細い手の感触も。
悠弥は太助の震える肩にそっと手を置いた。
太助は小さく鼻をすすって、噛み締めた唇を薄く開く。
「……忘れられるわけ、ないじゃないですか」
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