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天魔波旬拝陸天(魔界の皇太子)
079:魔界太子(三)
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「私はときおり殿下の命で密かに公主様の様子を見に行っておりました。小鳳坊ちゃまが生まれたときはそれはもうお喜びになって、すぐさま知らせを殿下に下さったほどです。しかし、あるときぷつりと公主様の知らせが途絶えてしまいました」
「途絶えた?」
翁汎の言葉に、煬鳳は聞き返す。
「息子も生まれたから少し商売を広げようと思う、と仰っていた矢先です。その旅の途中で、一家全員行方が分からなくなってしまいました」
父の制止を振り切って拝陸天は進化のものと妹を探しに向かったが、あとで見つかったのは崖下に捨てられた死体らしきものだけ。激しい怒りと悲しみを胸に、拝陸天は夫婦の遺体を弔った。
それから必死で犯人を捜し、そして妹夫婦のたった一人のまな息子を探そうとしたのだが、どうしても見つけることができなかった
「つまり、そのあとが我々が知るところである『盗賊に隊商が襲われて煬鳳の両親が亡くなってしまった』ことに繋がったというわけですね」
凰黎がそう言うと「恐らくは」という翁汎の声が返ってきた。
「泉美があのようなことになって、私は色々考えた。もしも人界との間がいまより良好であったら、泉美を放り出さずに済んだ。いや……それより父が泉美の力を奪わなければ泉美は死ななかったかもしれないし、小鳳がそのせいで辛い思いをすることはなかったのだ……」
「殿下は公主様が亡くなられたと知ったあと、かなりの時間と人手をかけ、子供の行方を捜したのです。しかしどんなに探しても行方は分からず仕舞い、よもやいまになってこうして坊ちゃまが見つかるなんて……ううっ。爺は嬉しゅう御座います」
ついには翁汎がすすり泣き始めてしまった。煬鳳はこの場合何を言っていいか分からずに、ただ二人のやり取りを呆然とみるばかり。いい加減何か言うべきかと悩んでいると、拝陸天が先に口を開いた。
「と、いうわけで……分かって貰えただろうか? そなたが私の甥であるということを」
煬鳳は俯き、考える。心の整理はまだついてはいない、しかし彼らの話したことは煬鳳がいままで聞いてきたことと重なっている。何より、先ほどの滴血で見せたあの光――わざわざ煬鳳を騙すためだけにあのようなことをするとも思えない。
「……信じるよ。まだ、どう言っていいか分からないけど。だって、あの石は俺の、両親たちが俺に残してくれた唯一の物だし、あれがなかったら俺の名前だって違うものになっていたはずだ。……両親がくれた、俺の名前なんだ」
思えば黒炎山で一度は失った。それを彩藍方が見つけてくれて、奇跡的に煬鳳の元に戻ってきたのだ。魔界へ行くことになったのも、恒凰宮の件が切っ掛けでもある。全てさまざまな偶然が重なってここまで辿り着いた。
――だからこれは、運命だったのかもしれない。
「嬉しいぞ、小鳳ーーーーーー!!」
認めるや否や、拝陸天が煬鳳に抱き着いた。
(またか!)
見た目は近寄りがたさすらあるほどの魔界の人間の皇太子。なのに、甥のこととなると飼いなれた愛犬のようにじゃれついてくる。
(どうしたらいいんだよ! これ!)
心の中で叫ぶのだが、誰に届くはずもない。
凰黎以外にここまで抱き着かれることはまずないので、引き剥がしたい気持ちに駆られるのだが、せっかく初めて肉親に会えたというのにそんな無碍な対応をすることは憚られる。
……既にいちど全力で拒否したのはさておいて。
「あ、あのさ。俺はこういうの慣れてないから、すぐには慣れないかもしれないけど。でも、あんたが俺の叔父だってことは忘れないから」
だから、いま言える精一杯の言葉で、煬鳳はそう言うしかない。
そんな自分を見て、凰黎はどんな顔をしているだろう?
そう思ってみてみると、嬉しそうな顔をした凰黎が煬鳳を見つめていた。
煬鳳たちは拝陸天の計らいで暫く彼の別邸に滞在することになった。煬鳳たちが呼ばれたこの別邸は、彼が幼い頃に妹と暮らしていた場所なのだという。
「いまは客人を迎えるときに使う程度だが、翁汎が日々この屋敷を守ってくれている。知っているかもしれないが、いまの魔界はとても治安が悪いのだ。金貪と銀瞋は私の腹心だ。彼らをつけさせるから、いかようにも使ってやって欲しい」
本当はすぐにでも煬鳳の体のことや恒凰宮のことを話したかったのだが、拝陸天は仮にも魔界の皇太子。話す機会をうかがっているうちに、近くで起きた乱闘騒ぎの仲裁に行かねばならなくなってしまったのだ。
「積もる話もあるだろうが、暫く待っていて欲しい。ことを片付けたらすぐに戻ってくる」
煬鳳たちに告げると、拝陸天は風のように走り去ってしまった。
「皇太子殿下が直々に喧嘩の仲裁に行かれるとは。廟堂の高きに居りては、即ち其の民を憂い、江湖の遠きに処りては、即ち其の君を憂う。殿下はまさにそれを体現したような方なのですね」
驚きを交えて凰黎が言うと、翁汎が苦笑する。
「殿下が直々に出向かなくても本来は良いのです。なにせ市井の争いごとなどを一つ一つ皇太子が対処していてはキリがありませんから。……ですが、殿下は少しでも民の不安や不満を取り除くため敢えて自らが出向いて、ことを収めに行かれているのです」
「それほど国は大変な状況なのですか?」
凰黎の言葉に翁汎は首を振る。その表情は諦めた顔にも見え、いかにいま、国が混乱しているかを想起させた。
「皇帝陛下は反乱など力でねじ伏せれば良いとお思いでしょう。実際そのようにして成り上がってきた御方なのですから。……ですが、九十一の国がこの国の中に集約されていて、いまや陛下が相手になさるのは、かつての国王たちだけではない。そのことに陛下は気づいておられないのです」
「つまり、国王をねじ伏せたときと、国民をねじ伏せるときじゃ状況が変わるってことだな」
「その通りで御座います、小鳳坊ちゃま」
「……」
いままで「坊ちゃま」などと呼ばれたことは無い。しかも凰黎にすら「小鳳」などとまだ呼ばれていないのに、ここに来てからひっきりなしに「小鳳」や「坊ちゃま」と呼ばれている。
(なんだかむず痒い……)
掌門になるまでは己の扱いなど雑なものであったし、なってからも他の門派のものからは『ごろつき』などと呼ばれていて、まっとうな言い方をするのは蓬静嶺の門弟くらいのものだった。
急に世界が変わってしまったような戸惑いと、肉親に触れた奇妙な暖かさ。二つの感情が入り交じってどうしていいか分からない。
「さ、お二人とも。殿下が戻られるまでまだもう少しあります。聞けば朝餉の途中で出てきてしまわれたとか」
そうだった。
朝餉の途中で客棧の外の騒ぎに気づき、そのまま馬車に乗って魔界にやってきたのだ。煬鳳は半分ほど朝餉を食べていたが、凰黎はほとんど手をつけていなかったはずだ。
「そういえば、ちょっとお腹空いたな。凰黎は?」
「私は……そうですね。色々なこともありましたし、安心したら少しお腹も空いたかもしれません」
「ならば丁度良う御座います。少しばかり食事の準備を致しましたので、積もる話でもしながらお召し上がり下さい」
翁汎は柔和な笑顔を浮かべると、二人を別室へと案内した。
魔界の食事とは一体どのようなものなのか。了承したあとでふと不安に駆られたのだが、出されたものはなんら人界と変わることはない。
しいていうなら普通の客棧の食事よりずっと手が込んでいて、とびきり美味しいものが多いくらいだろうか。
魔界の皇太子が長い間探し求めていた甥のために手配したとなれば、それはそれは豪華にもなるだろう。いくつもの皿の上には食べ物が盛り付けられていて、そのどれもが味だけではなく見た目にも気を使っている。宮廷で出されるならこのような料理かもしれない、と思いながら煬鳳はどれから食べようかと思案する。
試しに鳥や魚に具を詰め込んだ料理を摘まんでみたが、どれも手が込んでいて、普段食べたことがないような美味しさだ。
「それにしても、凰黎がお腹空いたって言うなんて珍しいな。俺はてっきり大して空いてないっていうかと思った」
「私も空気は読みます。……それに、安心したらお腹が空いたのは本当ですよ。あの殿下なら、少なくとも煬鳳の体についてのお願いは聞いて頂けそうですし」
そう答えた凰黎の表情は穏やかだ。考えてもみれば、凰黎はずっと煬鳳のためにここまでついてきてくれた。
煬鳳の身を案じて五行盟に行き、清林峰へ赴き、黒炎山や二度と訪れる気が無かったであろう恒凰宮まで行ってくれたのだ。それもこれも、自分のためではなくひとえに煬鳳のためだけに。
「凰黎」
「なんですか?」
呼びかけた煬鳳を待たせることもなく、すぐに返事は帰ってくる。
「あのさ、ありがとな」
「今更なんですか、我々は生涯を共にすると誓ったのですから、当然のこと」
「……」
改めて口に出されると恥ずかしいが、その通りなのだ。
「うん。……これからもずっと、よろしくな」
照れ屋の煬鳳が人前で口に出せる、それが精一杯の感謝の言葉なのだった。
「途絶えた?」
翁汎の言葉に、煬鳳は聞き返す。
「息子も生まれたから少し商売を広げようと思う、と仰っていた矢先です。その旅の途中で、一家全員行方が分からなくなってしまいました」
父の制止を振り切って拝陸天は進化のものと妹を探しに向かったが、あとで見つかったのは崖下に捨てられた死体らしきものだけ。激しい怒りと悲しみを胸に、拝陸天は夫婦の遺体を弔った。
それから必死で犯人を捜し、そして妹夫婦のたった一人のまな息子を探そうとしたのだが、どうしても見つけることができなかった
「つまり、そのあとが我々が知るところである『盗賊に隊商が襲われて煬鳳の両親が亡くなってしまった』ことに繋がったというわけですね」
凰黎がそう言うと「恐らくは」という翁汎の声が返ってきた。
「泉美があのようなことになって、私は色々考えた。もしも人界との間がいまより良好であったら、泉美を放り出さずに済んだ。いや……それより父が泉美の力を奪わなければ泉美は死ななかったかもしれないし、小鳳がそのせいで辛い思いをすることはなかったのだ……」
「殿下は公主様が亡くなられたと知ったあと、かなりの時間と人手をかけ、子供の行方を捜したのです。しかしどんなに探しても行方は分からず仕舞い、よもやいまになってこうして坊ちゃまが見つかるなんて……ううっ。爺は嬉しゅう御座います」
ついには翁汎がすすり泣き始めてしまった。煬鳳はこの場合何を言っていいか分からずに、ただ二人のやり取りを呆然とみるばかり。いい加減何か言うべきかと悩んでいると、拝陸天が先に口を開いた。
「と、いうわけで……分かって貰えただろうか? そなたが私の甥であるということを」
煬鳳は俯き、考える。心の整理はまだついてはいない、しかし彼らの話したことは煬鳳がいままで聞いてきたことと重なっている。何より、先ほどの滴血で見せたあの光――わざわざ煬鳳を騙すためだけにあのようなことをするとも思えない。
「……信じるよ。まだ、どう言っていいか分からないけど。だって、あの石は俺の、両親たちが俺に残してくれた唯一の物だし、あれがなかったら俺の名前だって違うものになっていたはずだ。……両親がくれた、俺の名前なんだ」
思えば黒炎山で一度は失った。それを彩藍方が見つけてくれて、奇跡的に煬鳳の元に戻ってきたのだ。魔界へ行くことになったのも、恒凰宮の件が切っ掛けでもある。全てさまざまな偶然が重なってここまで辿り着いた。
――だからこれは、運命だったのかもしれない。
「嬉しいぞ、小鳳ーーーーーー!!」
認めるや否や、拝陸天が煬鳳に抱き着いた。
(またか!)
見た目は近寄りがたさすらあるほどの魔界の人間の皇太子。なのに、甥のこととなると飼いなれた愛犬のようにじゃれついてくる。
(どうしたらいいんだよ! これ!)
心の中で叫ぶのだが、誰に届くはずもない。
凰黎以外にここまで抱き着かれることはまずないので、引き剥がしたい気持ちに駆られるのだが、せっかく初めて肉親に会えたというのにそんな無碍な対応をすることは憚られる。
……既にいちど全力で拒否したのはさておいて。
「あ、あのさ。俺はこういうの慣れてないから、すぐには慣れないかもしれないけど。でも、あんたが俺の叔父だってことは忘れないから」
だから、いま言える精一杯の言葉で、煬鳳はそう言うしかない。
そんな自分を見て、凰黎はどんな顔をしているだろう?
そう思ってみてみると、嬉しそうな顔をした凰黎が煬鳳を見つめていた。
煬鳳たちは拝陸天の計らいで暫く彼の別邸に滞在することになった。煬鳳たちが呼ばれたこの別邸は、彼が幼い頃に妹と暮らしていた場所なのだという。
「いまは客人を迎えるときに使う程度だが、翁汎が日々この屋敷を守ってくれている。知っているかもしれないが、いまの魔界はとても治安が悪いのだ。金貪と銀瞋は私の腹心だ。彼らをつけさせるから、いかようにも使ってやって欲しい」
本当はすぐにでも煬鳳の体のことや恒凰宮のことを話したかったのだが、拝陸天は仮にも魔界の皇太子。話す機会をうかがっているうちに、近くで起きた乱闘騒ぎの仲裁に行かねばならなくなってしまったのだ。
「積もる話もあるだろうが、暫く待っていて欲しい。ことを片付けたらすぐに戻ってくる」
煬鳳たちに告げると、拝陸天は風のように走り去ってしまった。
「皇太子殿下が直々に喧嘩の仲裁に行かれるとは。廟堂の高きに居りては、即ち其の民を憂い、江湖の遠きに処りては、即ち其の君を憂う。殿下はまさにそれを体現したような方なのですね」
驚きを交えて凰黎が言うと、翁汎が苦笑する。
「殿下が直々に出向かなくても本来は良いのです。なにせ市井の争いごとなどを一つ一つ皇太子が対処していてはキリがありませんから。……ですが、殿下は少しでも民の不安や不満を取り除くため敢えて自らが出向いて、ことを収めに行かれているのです」
「それほど国は大変な状況なのですか?」
凰黎の言葉に翁汎は首を振る。その表情は諦めた顔にも見え、いかにいま、国が混乱しているかを想起させた。
「皇帝陛下は反乱など力でねじ伏せれば良いとお思いでしょう。実際そのようにして成り上がってきた御方なのですから。……ですが、九十一の国がこの国の中に集約されていて、いまや陛下が相手になさるのは、かつての国王たちだけではない。そのことに陛下は気づいておられないのです」
「つまり、国王をねじ伏せたときと、国民をねじ伏せるときじゃ状況が変わるってことだな」
「その通りで御座います、小鳳坊ちゃま」
「……」
いままで「坊ちゃま」などと呼ばれたことは無い。しかも凰黎にすら「小鳳」などとまだ呼ばれていないのに、ここに来てからひっきりなしに「小鳳」や「坊ちゃま」と呼ばれている。
(なんだかむず痒い……)
掌門になるまでは己の扱いなど雑なものであったし、なってからも他の門派のものからは『ごろつき』などと呼ばれていて、まっとうな言い方をするのは蓬静嶺の門弟くらいのものだった。
急に世界が変わってしまったような戸惑いと、肉親に触れた奇妙な暖かさ。二つの感情が入り交じってどうしていいか分からない。
「さ、お二人とも。殿下が戻られるまでまだもう少しあります。聞けば朝餉の途中で出てきてしまわれたとか」
そうだった。
朝餉の途中で客棧の外の騒ぎに気づき、そのまま馬車に乗って魔界にやってきたのだ。煬鳳は半分ほど朝餉を食べていたが、凰黎はほとんど手をつけていなかったはずだ。
「そういえば、ちょっとお腹空いたな。凰黎は?」
「私は……そうですね。色々なこともありましたし、安心したら少しお腹も空いたかもしれません」
「ならば丁度良う御座います。少しばかり食事の準備を致しましたので、積もる話でもしながらお召し上がり下さい」
翁汎は柔和な笑顔を浮かべると、二人を別室へと案内した。
魔界の食事とは一体どのようなものなのか。了承したあとでふと不安に駆られたのだが、出されたものはなんら人界と変わることはない。
しいていうなら普通の客棧の食事よりずっと手が込んでいて、とびきり美味しいものが多いくらいだろうか。
魔界の皇太子が長い間探し求めていた甥のために手配したとなれば、それはそれは豪華にもなるだろう。いくつもの皿の上には食べ物が盛り付けられていて、そのどれもが味だけではなく見た目にも気を使っている。宮廷で出されるならこのような料理かもしれない、と思いながら煬鳳はどれから食べようかと思案する。
試しに鳥や魚に具を詰め込んだ料理を摘まんでみたが、どれも手が込んでいて、普段食べたことがないような美味しさだ。
「それにしても、凰黎がお腹空いたって言うなんて珍しいな。俺はてっきり大して空いてないっていうかと思った」
「私も空気は読みます。……それに、安心したらお腹が空いたのは本当ですよ。あの殿下なら、少なくとも煬鳳の体についてのお願いは聞いて頂けそうですし」
そう答えた凰黎の表情は穏やかだ。考えてもみれば、凰黎はずっと煬鳳のためにここまでついてきてくれた。
煬鳳の身を案じて五行盟に行き、清林峰へ赴き、黒炎山や二度と訪れる気が無かったであろう恒凰宮まで行ってくれたのだ。それもこれも、自分のためではなくひとえに煬鳳のためだけに。
「凰黎」
「なんですか?」
呼びかけた煬鳳を待たせることもなく、すぐに返事は帰ってくる。
「あのさ、ありがとな」
「今更なんですか、我々は生涯を共にすると誓ったのですから、当然のこと」
「……」
改めて口に出されると恥ずかしいが、その通りなのだ。
「うん。……これからもずっと、よろしくな」
照れ屋の煬鳳が人前で口に出せる、それが精一杯の感謝の言葉なのだった。
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