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五趣生死情侣们(恋人たち)

142:屋粱落月

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 その夜、煬鳳ヤンフォンは誰かの涙で目が覚めた。

凰黎ホワンリィ……?」

 誰か、というまでもなくそれは凰黎ホワンリィの涙だ。煬鳳ヤンフォンは彼の表情を確認しようと顔をあげる。凰黎ホワンリィの腕の中にいるため、彼が目覚めないように体を動かすのは至難の業だ。しかし、慎重にゆっくりと煬鳳ヤンフォンは体の向きを移動させる。

(やっぱり、泣いてる……)

 微かな月明かりに浮かびあがる美しい顔。白く艶めく相貌には夜露のような一筋が流れている。普段は穏やかな表情の彼が、微かに顔をしかめ、苦悶の感情をにじませていた。

 起こそうか、起こすまいか。
 逡巡ののち、煬鳳ヤンフォンはそっと凰黎ホワンリィの頬に手で触れる。触れた瞬間に凰黎ホワンリィの眉が跳ねてどきりとしたが、彼が目を開くことはなかった。

(震えている……?)

 微かに凰黎ホワンリィの体が震えているように感じ、煬鳳ヤンフォンは腰に回していた手を凰黎ホワンリィの背中へと滑らせる。
 清瑞山せいずいさんで一緒に寝ていたときはこんなこと一度もなかったはずだし、旅をしているときだって同じだった。

 ならば今日が初めてなのか?
 それとも煬鳳ヤンフォンが気づかぬうちに凰黎ホワンリィはいつの頃からかこうして眠りながら泣いていたのだろうか?

 煬鳳ヤンフォンの体を心配してのことなら理解できる。しかし、煬鳳ヤンフォンの霊力に関する懸念は全て払しょくされたはずだし、唯一の懸念点は睡龍すいりゅうのことくらいなものだ。

(どうしよう……黒曜ヘイヨウを呼ぶか?)

 しかし、黒曜ヘイヨウを呼び出そうとしても彼は煬鳳ヤンフォンの体から出てくる気はないようだ。どうやら『恋人のことは自分でなんとかしろ』ということらしい。

(あの野郎……)

 次出て来たときに絶対モミモミしてやる、と心に誓い煬鳳ヤンフォンは溜め息をつく。凰黎ホワンリィの辛そうな表情は変わらない。煬鳳ヤンフォン凰黎ホワンリィをしっかりと抱き抱え、彼の背中を優しく撫でた。

凰黎ホワンリィ。俺がついてるよ。大丈夫だ」

 起こさない程度の小さな声で凰黎ホワンリィに言い聞かせながら背中を撫で続ける。同時に凰黎ホワンリィの表情を観察していると、少しずつ表情は和らいでいくように思えた。

(良かった……)

 悪い夢でも見ていたのだろうか。

煬鳳ヤンフォン……?」
「あ……」

 安堵したのもつかの間、凰黎ホワンリィは目を覚ましてしまったらしい。起こさないつもりだったのに、申し訳なさで「ごめん」と告げると、凰黎ホワンリィは口元を緩ませながら首を振る。

「もしかして……心配してくれたのですか?」
「うん。……なんか、辛い夢見てるみたいだったから」

 凰黎ホワンリィは恥ずかしそうに笑うと寝台から降りる。煬鳳ヤンフォンが声を掛けようとすると「少し待ってて」と言う。自らは傍に置いた外衣を羽織り、煬鳳ヤンフォンの体に被褥をしっかりと被せ、暗闇の回廊へと消えてゆく。

 そわそわと被褥に包まれたまま煬鳳ヤンフォンが待っていると、半刻にも満たぬ程度の時間で凰黎ホワンリィは戻ってきた。

「お待たせしました」

 凰黎ホワンリィの声と共に覚えのない香りが舞い込んでくる。はっきりと何とは分らぬが、どこか遠くの地を思い浮かべるような、不思議な香りだ。
 凰黎ホワンリィは茶碗を二つ乗せた盆を卓子たくしに置くと、煬鳳ヤンフォンに手招きをする。

「……何か羽織って、こっちにいらっしゃい」

 煬鳳ヤンフォンは外衣を羽織っていそいそと彼の元へと向かおうとするが、すぐ凰黎ホワンリィに呼び掛けられた。

「暗いから、気を付けて」

 暗闇には慣れっこだが、慣れない場所では確かに躓く可能性もなくはない。ちょうど凰黎ホワンリィは灯燭に火を入れるところだ。うっかり躓いてしまったら大変なことになるだろう。煬鳳ヤンフォンは足元に注意を払いながら凰黎ホワンリィの元に向かう。
 煬鳳ヤンフォンが椅子に座ったとき、優しい光が部屋の中に広がった。

「光を出すこともできますが、あまり強い光では本当に眠れなくなってしまいますからね」

 暖かな灯燭の光に目を細め、凰黎ホワンリィは柔らかい表情で語る。
 煬鳳ヤンフォン卓子たくしの上に置かれた茶碗に顔を近づけながら、香りの正体を確かめた。
 それでもまだ不思議そうな顔をしていたせいか、凰黎ホワンリィはクスリと笑い「夜は少し冷えますから、温まるものを持って来ました」と言う。

「これ、何だ? 初めての香りがする」
「なんだと思います?」

 煬鳳ヤンフォンは首を振る。

「これは乳茶と言って、磚茶だんちゃに牛や馬の乳を入れた飲み物です。以前睡龍すいりゅうの外へ使いに出たときに御馳走になりました。……優しい味で体も温まるし、心が落ち着くかな、と思いまして」

 聞きなれぬ言葉に驚く煬鳳ヤンフォンだったが、凰黎ホワンリィに「美味しいですよ?」と言われて恐る恐る口を近づけた。

「美味しい!」
「でしょう?」

 しかし、元々凰黎ホワンリィ恒凰宮こうおうきゅうの生まれとはいえ、いまは蓬静嶺ほうせいりょう嶺主りょうしゅ代理でもあるのだ。夜中にあれこれと勝手なことをして良いのだろうか?という疑問も湧いてくる。

「ふふ、勝手に持って来たと思いましたか? もちろん、一言断ってから頂いてきましたよ。兄上には自分の生家なのだから好きにして良い、と言われましたが……いくらかつての住んでいた場所とはいえ、そのようなことできるわけがありませんから」

 煬鳳ヤンフォンの心を見透かしたように凰黎ホワンリィは笑う。その言葉に煬鳳ヤンフォンがほっと息をついたのを見届けて凰黎ホワンリィは乳茶に口を付ける。

「それで……、あのさ。さっきはどうして泣いてたんだ? 辛い夢を見たのか?」

 凰黎ホワンリィの勢いに流されそうになってしまったが、大切なことをすかさず煬鳳ヤンフォンは切り出した。発端は眠れないことではなく、凰黎ホワンリィが泣いていることに気づいたことだったからだ。

「……辛い夢、そうですね。とても辛い夢を見ました」

 茶碗に目を落とし、呟くように凰黎ホワンリィは語る。

「どんな夢か、聞いても良いか? その、少しは凰黎ホワンリィの心が軽くなるかもしれないしさ」

 おずおずと煬鳳ヤンフォンは申し出た。
 凰黎ホワンリィの性格だと、また煙に巻いてしまうだろうか。
 できれば聞かせて欲しい、少しでも心の内を見せて欲しい。そんな気持ちを抱えながら煬鳳ヤンフォン凰黎ホワンリィの言葉を待つ。

「……大切な人を喪う夢」

 衝撃のあまり煬鳳ヤンフォンは息をのむ。
 凰黎ホワンリィが『大切な人』という人物は相当限られている。
 もしも彼の言う大切な人が煬鳳ヤンフォンであるのならば――少し前に夢に見た、あの光景を思い出す。

(いや、でもあれは俺の夢だし……)

 すぐに浮かんだ考えをいったん振り払う。

「…………以前から時折そういった夢を見ることはあったのです。ただ……ここに来て久方ぶりに見てしまったのです。それが以前よりもはっきりと見てしまったものですから、随分と煬鳳ヤンフォンに心配をかけてしまったようですね。すみません」
「謝ることなんかないさ。……あのさ、もしかして夢で失うのは、俺だったりするのか?」

 凰黎ホワンリィの瞳が一瞬収縮した。
 つまり、図星ということだ。
 普段はあまりそういった感情を悟らせない凰黎ホワンリィが、ここまで明確に動揺するのは珍しい。

「……見抜かれたからには、正直に答えなければいけませんね。その通りです」

 見抜かれなかったらしらばっくれるつもりだったのだろうか、と内心思う。
 しかし、なぜ煬鳳ヤンフォン凰黎ホワンリィが同じ夢を見たのだろうか?

 他人の見ている夢を別の誰かが覗き見る、少なくとも煬鳳ヤンフォンにはそういった芸当はできないはずだ。それに、あの時凰黎ホワンリィは眠ってはいなかった。それなのに誰かの見ている夢を見るというのも妙に思える。

(もしかしたら……)

 偶然という可能性も否定できないかもしれない。
 或いは――。

 夢の中に現れた小黄シャオホワンの声。
 もしかしたら小黄シャオホワンが何か関係していたのかもしれない。
 しかし、いま重要なのはそこではなく、なぜ凰黎ホワンリィが悪夢を見たかについてだ。煬鳳ヤンフォンの見た光景と凰黎ホワンリィの見た悪夢が仮に同一のものであるとするならば、おのずと原因も見えてくるような気がした。

「なあ。凰黎ホワンリィの言った夢の原因ってさ……蓬莱ほうらいなんじゃないか?」
「あっ……」

 凰黎ホワンリィが声をあげる。

「そういえば、随分長く夢を見ていなかったのに蓬莱ほうらいに会ってすぐにあの夢を見ました。それに、以前夢を見たときも確か閑白シャンバイに会ったときだったんです。ということは……」
「やっぱり! 蓬莱ほうらい閑白シャンバイも俺のこと敵視してるから……。それで凰黎ホワンリィは警戒して俺に何か起こるような夢を見たんだ」

 夢の中でみた桃の花。煬鳳ヤンフォンはあれを見て、恐らく仙界せんかいに関係あるのではないかと推測したのだ。結果としてはその通りだったということになる。

「確かに、私は彼らのことをとても恐れています。それだけに直接彼らと対峙したときは煬鳳ヤンフォンのことが心配で気が気ではありませんでしたから……」
「じゃあ、あいつらと戦ったときの緊張と恐れが極限に達して、悪夢を見たってことか」
「そうなりますね……」

 凰黎ホワンリィの表情は少しだけ安堵したように見える。夢だと分かっていても、自分の恋人を失う夢というのは辛いだろう。ましてや凰黎ホワンリィが何よりも恐れている蓬莱ほうらい閑白シャンバイなら当然だ。

 煬鳳ヤンフォンは乳茶を飲み干すと、凰黎ホワンリィを背中から抱きしめる。
 振り返った凰黎ホワンリィが何かを言いかけたようだったが、言葉は出てこなかった。

凰黎ホワンリィ、安心してよ。俺はここにいるからさ。お前の前から消えたりなんかしない。だから安心して」

 そう言うと凰黎ホワンリィから腕を放す。
 煬鳳ヤンフォンの体が離れてすぐに、凰黎ホワンリィは体を煬鳳ヤンフォンの方へと向けた。すかさず凰黎ホワンリィの膝の上に座ると、互いの鼻が付きそうなほど近くまで顔を寄せる。

「貴方は先ほどから私が何か話そうとすると、何か仕掛けてくるのですね?」
「へへ、ばれた?」

 見透かされて煬鳳ヤンフォンは、悪びれずに笑う。

「認めるということは、このあと何をされても良いということだと受け止めますよ?」

 凰黎ホワンリィの白い手が、煬鳳ヤンフォンの顎を捕らえた。煬鳳ヤンフォンはにやりと口の端をあげると、凰黎ホワンリィの首の後ろに己の手を回す。

『もちろんだよ』

 返事の代わりに煬鳳ヤンフォンは唇で答えを告げた。お互い離れぬようにしっかりと抱きしめ合い、何度も深く口付ける。襟の隙間から差し込まれた凰黎ホワンリィの手が滑るたび、煬鳳ヤンフォンの肌を粟立たせた。静かな夜に響かぬようにと思いはしたが、堪えきれずに気が付くと小さく短く声が漏れてしまう。

凰黎ホワンリィっ……」

 焦りの混じった声で煬鳳ヤンフォン凰黎ホワンリィの名を呼ぶ。
 凰黎ホワンリィの見た怖い夢を、二人の思い出で消し去ってしまいたい。辛い夢を彼が忘れられるように。もう二度と見ないようにと願いながら。

煬鳳ヤンフォン……有り難う」
「へっ?」

 そんなことを考えていると、凰黎ホワンリィから『有り難う』と言われて煬鳳ヤンフォンは素っ頓狂な声をあげてしまった。何より、普段はいつだって「有り難うございます」と丁寧な言い方の彼が砕けた口調で言うのは珍しい。

「急に、どうしたんだ?」
「貴方だっていつも急に言うじゃありませんか」

 そう言って凰黎ホワンリィはくつくつと笑う。

「私の不安を拭い去ろうと思って、敢えて積極的になったのでしょう?」

 凰黎ホワンリィには敵わない。いつだって煬鳳ヤンフォンのことをお見通しなのだ。

「まあ……凰黎ホワンリィに嘘はつけないよな。でも、それだけじゃないさ。明日になったら五行盟ごぎょうめいに行かなきゃいけない。そうしたら睡龍すいりゅうとのこともなんとかしないといけないし……今日みたいな穏やかな一日は暫く戻ってこないだろ? だから……その……」

 急にまた気恥ずかしくなってしまい、煬鳳ヤンフォンはそっぽを向く。だんだん自分の顔が恥ずかしさで歪んで来たのが分かったから、それを凰黎ホワンリィに観られたくなかったのだ。

「だから、えっと……。二人で楽しい気持ちになりたかったんだ。辛い夢で涙を流してる凰黎ホワンリィを放っておきたくなかったし、話を聞いたなら尚のこと……。このままの気持ちで朝を迎えたくなくて。それに、俺も凰黎ホワンリィと……あっ!?」

 不意に体を抱え上げられ煬鳳ヤンフォンは声をあげた。抱えた当人の顔を見やれば「いいですか?」と尋ねられる。

「……」

 頬が、耳が熱くなるのを感じながら煬鳳ヤンフォンはこくりと頷いた。

 ――元よりそのつもりで凰黎ホワンリィに悪戯をしたのに、今さら恥ずかしがるなんて滑稽だ。

 自分でもそう思うのだが、性分なので仕方ない。
 寝台に降ろされると、すぐに凰黎ホワンリィが首筋に顔を埋めてきた。くすぐったさに思わず身を捩ると両手を押さえつけられ動きを封じられてしまう。

凰黎ホワンリィ

 煬鳳ヤンフォンが呼びかけると凰黎ホワンリィが身を起こす。真上から見下ろす凰黎ホワンリィの目が色を帯びていた。

煬鳳ヤンフォン
「腕を開放してくれないと、俺は凰黎ホワンリィのことを抱きしめられないんだけどな?」

 少し意地悪く言うと、凰黎ホワンリィが毒を抜かれたような顔をする。二人は無言で見つめ合い、凰黎ホワンリィは柔らかく微笑んだ。葉の擦れ合う音が窓を叩き、そうして少しの時間が過ぎてゆく。

 ゆっくりと凰黎ホワンリィの手が緩み煬鳳ヤンフォンの腕が解放されると、すかさず煬鳳ヤンフォン凰黎ホワンリィの背に手を回して己の方へと引き寄せる。抱きしめた背中から流れ落ちる凰黎ホワンリィの長い黒髪は、煬鳳ヤンフォンの髪よりもずっと繊細で艶やかだ。

「なあ、凰黎ホワンリィ
「なんです? 煬鳳ヤンフォン
「俺、本当のことを言うと少し怖いんだ」

 睡龍すいりゅうを本当に鎮めることができるのか?
 行動しなければならないと分かったとき、なるべく待ち受けるであろう出来事を考えないようにしていた。
 しかし、明日にはもう否が応でも行動しなければならないのだ。

 だから、悔いは残したくない。
 けれど諦めているわけでもない。

 ――魘されていた凰黎ホワンリィが目を覚ましたときから決めていた。

 ――心行くまで凰黎ホワンリィと一緒に語り合いたい、抱き合いたい。

「だから、今日は離さないでいて。俺が安心して眠るまで、起きていて」
「ふふふ、先ほどは私の不安を取り去ろうとしたのに、今度は立場が逆ですね?」
「うっ……」

 先ほどまでは凰黎ホワンリィが泣いていたことで頭が一杯だったのに、明日のことを思い出したらつい弱音を吐いてしまった。

「ご、ごめん……」

 謝る煬鳳ヤンフォンの頬に凰黎ホワンリィは軽く口付ける。

「駄目だなんて言っていませんよ? 私には煬鳳ヤンフォンがいるように、煬鳳ヤンフォンには私がいます。互いに心細いときは支え合う、それが共に在るということでしょう?」
「うん」
「私は貴方の傍にいます。離れたりなんか絶対にしません。だから――」

 凰黎ホワンリィの唇が微かに動く。その言葉の意味を考えている間に、煬鳳ヤンフォンの視界はまた凰黎ホワンリィで埋め尽くされてしまった。

『だから絶対に、消えてしまわないで――』

 微かに聞こえた凰黎ホワンリィの言葉は、きっと幻聴だろう。それでも煬鳳ヤンフォンの心はざわついて仕方ない。

 首筋に伝う温かいものは、涙だったのだろうか。
 幸せなひとときのはずなのに、どこか一抹の不安が拭えない。
 けれどそんな一かけらの懸念さえも、やがて二人の呼吸の中に消えていった。
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