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然后鳳凰抱鳳雛(そして鳳凰は鳳雛を抱く)
162:多生曠劫(三)
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「でもさ。あのあと、蓬静嶺の門弟がやってきて『原始の谷が大変なことになった』って言うからさ。本当に慌てたんだ」
凰黎は黙って煬鳳の言葉を聞いている。
「俺……なんでか分からないけど、気づいたら原始の谷にいてさ。それで……」
夢の中の出来事。
弟である凰黎を庇って倒れた、凰神偉の姿。
原始の谷に現れた強力な仙界の兵士。
夢の最後に焼き付けた、翳黒明と凰神偉の姿。
それから――手を取って走り出す、凰黎と己の後ろ姿。
全ては夢。
けれど……夢と言い切るにはあまりにも鮮明で、あまりにも切なかった。
(どうしてあんな夢を見たんだろう? それに、どこまでが夢だったんだろう?)
原始の谷に行ったことが夢であるのならば……その前の黒炎山での出来事は夢ではない。
ならば疑問は一つ残ってしまう。
「なあ、黒炎山で蓬静嶺の門弟が来たこと。原始の谷が大変なことになった、って言ったこと。あれも夢なのか?」
穏やかな笑みを湛えた凰黎は、煬鳳の問いに答えることはなく、ただ彼を見つめている。
その瞳はどこか秋然としていて、煬鳳の心は何故だかざわついた。
「凰黎……?」
煬鳳の心に電撃が走る。
――何かが違う。
急激に煬鳳の思考は回り始め、目の前にいるのが本当に彼であるのか分からなくなったのだ。
僅かに、けれど確かに感じる違和感がある。煬鳳はその直感を信じて凰黎の襟をつかんだ。
「お前は……誰だ!?」
電光朝露に見開かれた凰黎の瞳は、緩やかに沈みゆき瞑目した。
辺りを覆っていた暗闇が霧散し、目が眩むほどの光が降り注ぐ。眩しさに煬鳳は目を細めたが、慣れてくるにつれ、己のいる場所が慣れ親しんだ清瑞山の小屋であると気づいた。
「そんな……なんでだ……?」
煬鳳は目の前の人物に問いかける。
「なんでお前がここにいるんだ……? 鸞快子……!」
目の前にいるのは鸞快子だった。
仮面をつけ、寂し気な笑みを湛え、煬鳳を腕の中に抱いている。
煬鳳は反射的に鸞快子を突き飛ばすと、今度はもう一度彼に掴みかかった。
ここは凰黎と過ごすための大切な場所だ。客人を招くことはあっても我が物顔で彼が居座っていい場所ではない。
煬鳳を抱き、さも凰黎であるかのようなふるまいをする鸞快子に煬鳳は憤った。
掴んだ襟を引き寄せて、鸞快子に問い詰める。
「なんでお前が、凰黎の振りをしているんだ! 答えろ!」
しかし鸞快子は答えない。
煬鳳がどれだけ彼を怒鳴っても罵倒しても、彼は一顧だに謝罪の言葉一つ口にすることはなかった。それが余計に煬鳳を苛立たせる。
「答えろ! 鸞快子!」
煬鳳は鸞快子を殴ろうと右手を振り上げた。しかし――なぜか彼を殴る気にはなれなかった。
(おかしい……)
感じた違和感は別の違和感へと変わり、煬鳳の心に蟠りを残す。
なぜそう感じたのか?
その根源が知りたくて、煬鳳はもう一度目覚めてからの出来事を辿る。
煬鳳に流れ込んで来た冷気、そして煬鳳を抱いた温かい腕。確かに自分は『凰黎のものだ』と思ったのではないか?
違和感を感じたのは事実。
しかし、それでもだ。
――俺が凰黎と誰かを間違えるなんて、あるだろうか……?
辿り着いた結論に恐れながら煬鳳は鸞快子を見上げた。鸞快子は先ほどから表情を崩すことはなく、寂し気な笑みを変わらず湛えている。
煬鳳は恐る恐る鸞快子の顔に手を伸ばし、彼の仮面にそっと触れた。
それでも鸞快子が煬鳳の手を払い除けることはなく、煬鳳は彼の仮面をゆっくりと取り外す。
「そんな……」
信じられないものを見ている。煬鳳は二度三度と瞬きを繰り返したが、目の前の人物の顔が変わることはない。
「ほんとうなのか? ……………………」
その後は声も出ず、唇だけが彼の名を描く。
その人は煬鳳の言葉にじっと耳を傾け、否定する様子は無い。
煬鳳の知る凰黎とは少し異なってはいるが、紛れもなく目の前の人物は凰黎その人だった。
凰黎よりも背が高く、少しほっそりとしている。煬鳳の知る凰黎よりも大人びた表情をしていることから、恐らくは煬鳳が思うより、年月を重ねているのだろう。
煬鳳の知る凰黎は、時折意地悪ながらも愛らしい微笑みを浮かべることがあるが、目の前にいる凰黎の微笑みは憂秋を帯び、どことなく寂しさが漂っている。
彼の左目は閉じられていて、片目だけ見れば眠っているようにも見えた。
目の前の凰黎はいったい何者なのか、なぜこんなにも自分の知る凰黎と違うのか。なぜいまこうして煬鳳と共に清瑞山の小屋にいるのか。
何もかも、全てが分からなかった。
「――貴方は私のことを、その名で呼んでくれるのですね」
微かな幸甚を眦に滲ませて、凰黎の口元は弧を描く。やはり、紛れもなく彼は凰黎なのだ、煬鳳は確信した。
「目はどうしたんだ?」
凰黎の頬に掌で触れ、煬鳳は問う。
「少し――万晶鉱に触れ過ぎてしまったのです」
彼が自ら進んで万晶鉱に触れるはずはない、きっと何かそうしなければならない理由があったのだ。
「さっきの夢、あれは本当に夢だったのか?」
「そう、夢。二度と起こることのない――夢」
どこか含みのある返答。口では夢だと言っているが、もしかしたらあれは現実だったのかもしれないと思わせる口ぶりだった。
「なら、凰神偉や黒明たちは!? 小黄は無事なのか!? 原始の谷に押し寄せた門派の奴らは!?」
大丈夫、と凰黎は煬鳳を包み込むように抱きしめ、頭を撫でる。
「兄上には私の素性を明かし、そのうえで原始の谷での対策をあらかじめ話し合いました。翳黒明の身体は彼の双子の弟の身体に蓬莱が手を加えたもの。それゆえ兄上と二人なら問題なく原始の谷の封印を操ることができるでしょう。そして、中に入ったあと他の門派の者たちが入ってこられぬよう閉じることもできたはずです。どんな力を持っていたとしても、邪魔者が入る隙はありません」
「でも……もしも万が一、原始の谷の封印を無理やり誰かがこじ開けたら!? だって、蓬静嶺の門弟が原始の谷が大変なことになったって言ったのは……あれは夢じゃなかっただろ!?」
あの辛すぎる夢が脳裏に蘇る。
原始の谷で立ちはだかった恐ろしい黄鋼力士の姿。
煬鳳たちを行かせるため、黄鋼力士に立ち向かった凰神偉と黒明の後ろ姿。
あの夢が本当になって欲しくない。その一心で煬鳳は凰黎に呼びかけた。
凰黎は煬鳳の涙を優しく拭うと、穏やかな表情を浮かべる。
「原始の谷は絶対に大丈夫。あの言葉は過去……の再現のようなものです。我々は仙界に一杯食わせるために少々策略を巡らせました」
「策略?」
「そう。我々は彩鉱門からあらかじめ使用済みの万象図の一部を借り受けました。それを使って、万晶鉱を求めて詰めかけた門派の方々に原始の谷の幻を見せたのです。魔界の皇帝陛下の力をお借りして、その幻の威力を限界まで引き上げたのです。それが事実起こった出来事だと錯覚させるように。そして……仙界の者たちにそう思わせるように」
「そんなこと、できるのか……?」
凰黎は小さく頷く。
「元々彩鉱門は万晶鉱を扱うことのできる門派。彼らは誤って万晶鉱に触れた者の記憶を全て万象図に取り込んで、彼らが死に至るのを何度も防いだそうです。万象図の見せる地獄は、実際に起こった出来事の再現」
よもや万象図にはそのような役目があったとは。
彩藍方が瞋九龍から逃げるために万象図に封じた災害を呼び出したことにも驚いたが、万晶鉱に触れた人々の記憶を抜き取って暴走を防ぐとは。全く予想もできない使い方に煬鳳は驚く。
「さらにそこに魔界の皇帝陛下のお力を加えれば、仙界をも欺くことも不可能ではありません。……黒炎山に蓬静嶺の門弟がやってきたのは、作戦が概ね成功したことを伝える合図。ですから、あれは裏返せば『問題は起こらなかった』という報せなのです」
「そ、そうだったのか……」
己の知らないところで、こんなにも沢山のことが動いていたなどと、誰が思うだろうか。
「でも、なんでそこまでする必要があったんだ?」
凰黎の顔が曇る。
言いようもない悲哀の表情が、そこには込められていた。
「……夢を、見たでしょう? 仙界はいつでも我々の様子を窺っています。幸い今回は翳黒明が封印を扱う力を持っていたので、彼らは原始の谷にこそ侵入することができませんでしたが、もしも無傷で全員が原始の谷から出てきてしまったら、全てのものが万晶鉱に触れ無傷で帰ってきたと思い、自分たちの求める人材を奪うためにやってくるでしょう。……私を仙界に連れていこうとしたように」
誰よりも仙界のものがどう行動するかを、凰黎は熟知しているのだ。
幼い頃から蓬莱に振り回され、家族と離れ離れに暮らさなければならなかった凰黎。
そして、再び彼らとまみえたとき、煬鳳を狙う彼らを恐れた凰黎。
「なら……なら、みんな無事なのか!? でも、あの巨大な兵士が……仙界の……」
煬鳳はそこまで言ったあと、重大なことに気づいた。
「凰黎は……、もう一人の凰黎はいま、どこにいるんだ!?」
必死で呼びかける煬鳳の眼差しに、凰黎は目を伏せる。僅かに逡巡したのち、彼はゆっくり口を開いた。
「貴方のよく知る凰黎は……仙界へ行きました。蓬莱と決着をつけるために」
「なんだって!?」
目の前が真っ暗になり、煬鳳は倒れそうになる。凰黎がすぐに彼を支え、煬鳳は彼の胸に抱き留められた。
煬鳳は凰黎の肩を掴み、訴える。
「なんで、なんで凰黎は仙界に!? なんで俺を置いていくんだ!? 俺たち、ずっと一緒だったじゃないか!」
凰黎は再び目を伏せ、首を振った。
「どうして、教えてくれないんだ!? 凰黎は……………………」
煬鳳の脳裏に恒凰宮で見た夢の光景が蘇る。
淡青の衣を真っ赤に染めて座り込む凰黎の姿。
彼が何度も呼んでいた自分の名前。
『――かつて私はとても後悔したことがある。後悔と言うには辛すぎて、とても苦しい思い出だ。取り戻すことができるのなら、私はどんな犠牲をも厭わない。いかなる手段でも行使してみせる』
そして、以前鸞快子が霧谷関で煬鳳に言った決意の言葉。
彼の後悔が何であったのか、ようやく解ったのだ。
「もしかして……俺が死ぬから……。だから凰黎は俺を置いていったのか!?」
凰黎の眉が微かに跳ねたのを、煬鳳は見逃さない。
あれは夢などではなく――鸞快子のかつての記憶。
「そうなんだな……」
暫くのあいだ凰黎の動きが止まった。
なんと言おうか迷ったのかもしれないし、困っていたのかもしれない。
僅かなあいだだったが、気が遠くなるほどの時間に煬鳳には感じられた。
そのあとで凰黎は眉尻を下げ大きく溜め息をつく。
「貴方には負けました。……騙し通すつもりだったのに、私の正体に気づき、ここまで言い当てるなんて」
諦めたような口調で凰黎は言った。しかし、自分のことを凰黎であると見破ったことについては嬉しかったのか、彼の口元は微かに微笑んでいた。
「教えてくれ。どうやったら仙界に行ける?」
凰黎一人で蓬莱と戦おうなど、死ぬために行くようなものだ。せめて自分だけでも凰黎の力になりたい。その一心で煬鳳は目の前の凰黎に尋ねた。
「仙界は地続きの魔界とは違い、我々のいる人界とは異なる次元にあります。星霓峰の向こうにある崑崙から仙界に行くことができますが……それも、特別な佩玉が無ければ到達することはできません」
「それでも俺は凰黎のところにいかなきゃいけないんだ。教えてくれ、どうしたらいい?」
凰黎は静かに首を振る。
「方法が無いからこそ、凰黎は貴方を残して一人で向かったのです。貴方が追いかけてこないように」
「なんでだよ!」
「自分一人で、蓬莱を倒すためにです」
「そんなの、無茶だ! 勝てるわけがない!」
蓬莱の異常なほどの強さを煬鳳も目の当たりにした。
もしも蓬莱に凰黎が勝てるというのなら、初めから凰黎はそうしていたはずだ。しなかったのは、できない理由があるからに他ならない。
「それでも、凰黎はその選択をしました」
全て分かっているような、彼の声。
いや、目の前の凰黎は全て分かっているのだ。
だからこそ覚悟を決めもう一人の凰黎を送り出し、煬鳳を残した。
それでも……と煬鳳は唇を噛む。
「俺はそんなの、嫌だ! 凰黎が死ぬなんて、絶対に嫌だ! 俺はなんとしても仙界に行く! 凰黎に会うんだ!」
もしかしたらこのまま凰黎に会えなくなってしまうのではないか。そんな不安が煬鳳の中で駆け巡っていた。
「それでも私は貴方を行かせるわけにはいきません。何のために凰黎が貴方を置いてまで命を懸けて仙界に行ったのか。その気持ちを考えて下さい」
凰黎の言葉に胸を突かれ、涙がこみ上げる。
旅を始めたのは煬鳳のためだった。
他人として接していた兄と再会したのも、煬鳳のためだった。
魔界に赴いたのも煬鳳のため。
翳冥宮を訪れたのだって煬鳳のためだ。
それに……瞋九龍と対峙したのも煬鳳のため。
目の前にいる凰黎。
彼もまた、煬鳳のためにいままでずっと付き添ってくれていた。
鸞快子と名前を偽り、仮面で己を偽り。
ずっと煬鳳たちのことを助けてくれたのだ。
全てのことは――煬鳳のため。
自分はそんな凰黎のために、何一つしてやることができないのか?
凰黎を助けることさえできないのか?
堪らず煬鳳は凰黎に縋りつき、訴えた。
「なら凰黎は……俺が凰黎を見捨てるような奴でいいのか!? 恋人が死んでも自分が助かればそれでいい。……もし、そんな俺だったら、凰黎は俺のこと好きになったのか!?」
好きな人を助けたい。
好きな人を守りたい。
好きな人に会いたい。
なんということはない。
凰黎がそうであるように、煬鳳も同じ気持ちというだけ。
ただ、それだけのことなのだ。
凰黎は黙って煬鳳の言葉を聞いている。
「俺……なんでか分からないけど、気づいたら原始の谷にいてさ。それで……」
夢の中の出来事。
弟である凰黎を庇って倒れた、凰神偉の姿。
原始の谷に現れた強力な仙界の兵士。
夢の最後に焼き付けた、翳黒明と凰神偉の姿。
それから――手を取って走り出す、凰黎と己の後ろ姿。
全ては夢。
けれど……夢と言い切るにはあまりにも鮮明で、あまりにも切なかった。
(どうしてあんな夢を見たんだろう? それに、どこまでが夢だったんだろう?)
原始の谷に行ったことが夢であるのならば……その前の黒炎山での出来事は夢ではない。
ならば疑問は一つ残ってしまう。
「なあ、黒炎山で蓬静嶺の門弟が来たこと。原始の谷が大変なことになった、って言ったこと。あれも夢なのか?」
穏やかな笑みを湛えた凰黎は、煬鳳の問いに答えることはなく、ただ彼を見つめている。
その瞳はどこか秋然としていて、煬鳳の心は何故だかざわついた。
「凰黎……?」
煬鳳の心に電撃が走る。
――何かが違う。
急激に煬鳳の思考は回り始め、目の前にいるのが本当に彼であるのか分からなくなったのだ。
僅かに、けれど確かに感じる違和感がある。煬鳳はその直感を信じて凰黎の襟をつかんだ。
「お前は……誰だ!?」
電光朝露に見開かれた凰黎の瞳は、緩やかに沈みゆき瞑目した。
辺りを覆っていた暗闇が霧散し、目が眩むほどの光が降り注ぐ。眩しさに煬鳳は目を細めたが、慣れてくるにつれ、己のいる場所が慣れ親しんだ清瑞山の小屋であると気づいた。
「そんな……なんでだ……?」
煬鳳は目の前の人物に問いかける。
「なんでお前がここにいるんだ……? 鸞快子……!」
目の前にいるのは鸞快子だった。
仮面をつけ、寂し気な笑みを湛え、煬鳳を腕の中に抱いている。
煬鳳は反射的に鸞快子を突き飛ばすと、今度はもう一度彼に掴みかかった。
ここは凰黎と過ごすための大切な場所だ。客人を招くことはあっても我が物顔で彼が居座っていい場所ではない。
煬鳳を抱き、さも凰黎であるかのようなふるまいをする鸞快子に煬鳳は憤った。
掴んだ襟を引き寄せて、鸞快子に問い詰める。
「なんでお前が、凰黎の振りをしているんだ! 答えろ!」
しかし鸞快子は答えない。
煬鳳がどれだけ彼を怒鳴っても罵倒しても、彼は一顧だに謝罪の言葉一つ口にすることはなかった。それが余計に煬鳳を苛立たせる。
「答えろ! 鸞快子!」
煬鳳は鸞快子を殴ろうと右手を振り上げた。しかし――なぜか彼を殴る気にはなれなかった。
(おかしい……)
感じた違和感は別の違和感へと変わり、煬鳳の心に蟠りを残す。
なぜそう感じたのか?
その根源が知りたくて、煬鳳はもう一度目覚めてからの出来事を辿る。
煬鳳に流れ込んで来た冷気、そして煬鳳を抱いた温かい腕。確かに自分は『凰黎のものだ』と思ったのではないか?
違和感を感じたのは事実。
しかし、それでもだ。
――俺が凰黎と誰かを間違えるなんて、あるだろうか……?
辿り着いた結論に恐れながら煬鳳は鸞快子を見上げた。鸞快子は先ほどから表情を崩すことはなく、寂し気な笑みを変わらず湛えている。
煬鳳は恐る恐る鸞快子の顔に手を伸ばし、彼の仮面にそっと触れた。
それでも鸞快子が煬鳳の手を払い除けることはなく、煬鳳は彼の仮面をゆっくりと取り外す。
「そんな……」
信じられないものを見ている。煬鳳は二度三度と瞬きを繰り返したが、目の前の人物の顔が変わることはない。
「ほんとうなのか? ……………………」
その後は声も出ず、唇だけが彼の名を描く。
その人は煬鳳の言葉にじっと耳を傾け、否定する様子は無い。
煬鳳の知る凰黎とは少し異なってはいるが、紛れもなく目の前の人物は凰黎その人だった。
凰黎よりも背が高く、少しほっそりとしている。煬鳳の知る凰黎よりも大人びた表情をしていることから、恐らくは煬鳳が思うより、年月を重ねているのだろう。
煬鳳の知る凰黎は、時折意地悪ながらも愛らしい微笑みを浮かべることがあるが、目の前にいる凰黎の微笑みは憂秋を帯び、どことなく寂しさが漂っている。
彼の左目は閉じられていて、片目だけ見れば眠っているようにも見えた。
目の前の凰黎はいったい何者なのか、なぜこんなにも自分の知る凰黎と違うのか。なぜいまこうして煬鳳と共に清瑞山の小屋にいるのか。
何もかも、全てが分からなかった。
「――貴方は私のことを、その名で呼んでくれるのですね」
微かな幸甚を眦に滲ませて、凰黎の口元は弧を描く。やはり、紛れもなく彼は凰黎なのだ、煬鳳は確信した。
「目はどうしたんだ?」
凰黎の頬に掌で触れ、煬鳳は問う。
「少し――万晶鉱に触れ過ぎてしまったのです」
彼が自ら進んで万晶鉱に触れるはずはない、きっと何かそうしなければならない理由があったのだ。
「さっきの夢、あれは本当に夢だったのか?」
「そう、夢。二度と起こることのない――夢」
どこか含みのある返答。口では夢だと言っているが、もしかしたらあれは現実だったのかもしれないと思わせる口ぶりだった。
「なら、凰神偉や黒明たちは!? 小黄は無事なのか!? 原始の谷に押し寄せた門派の奴らは!?」
大丈夫、と凰黎は煬鳳を包み込むように抱きしめ、頭を撫でる。
「兄上には私の素性を明かし、そのうえで原始の谷での対策をあらかじめ話し合いました。翳黒明の身体は彼の双子の弟の身体に蓬莱が手を加えたもの。それゆえ兄上と二人なら問題なく原始の谷の封印を操ることができるでしょう。そして、中に入ったあと他の門派の者たちが入ってこられぬよう閉じることもできたはずです。どんな力を持っていたとしても、邪魔者が入る隙はありません」
「でも……もしも万が一、原始の谷の封印を無理やり誰かがこじ開けたら!? だって、蓬静嶺の門弟が原始の谷が大変なことになったって言ったのは……あれは夢じゃなかっただろ!?」
あの辛すぎる夢が脳裏に蘇る。
原始の谷で立ちはだかった恐ろしい黄鋼力士の姿。
煬鳳たちを行かせるため、黄鋼力士に立ち向かった凰神偉と黒明の後ろ姿。
あの夢が本当になって欲しくない。その一心で煬鳳は凰黎に呼びかけた。
凰黎は煬鳳の涙を優しく拭うと、穏やかな表情を浮かべる。
「原始の谷は絶対に大丈夫。あの言葉は過去……の再現のようなものです。我々は仙界に一杯食わせるために少々策略を巡らせました」
「策略?」
「そう。我々は彩鉱門からあらかじめ使用済みの万象図の一部を借り受けました。それを使って、万晶鉱を求めて詰めかけた門派の方々に原始の谷の幻を見せたのです。魔界の皇帝陛下の力をお借りして、その幻の威力を限界まで引き上げたのです。それが事実起こった出来事だと錯覚させるように。そして……仙界の者たちにそう思わせるように」
「そんなこと、できるのか……?」
凰黎は小さく頷く。
「元々彩鉱門は万晶鉱を扱うことのできる門派。彼らは誤って万晶鉱に触れた者の記憶を全て万象図に取り込んで、彼らが死に至るのを何度も防いだそうです。万象図の見せる地獄は、実際に起こった出来事の再現」
よもや万象図にはそのような役目があったとは。
彩藍方が瞋九龍から逃げるために万象図に封じた災害を呼び出したことにも驚いたが、万晶鉱に触れた人々の記憶を抜き取って暴走を防ぐとは。全く予想もできない使い方に煬鳳は驚く。
「さらにそこに魔界の皇帝陛下のお力を加えれば、仙界をも欺くことも不可能ではありません。……黒炎山に蓬静嶺の門弟がやってきたのは、作戦が概ね成功したことを伝える合図。ですから、あれは裏返せば『問題は起こらなかった』という報せなのです」
「そ、そうだったのか……」
己の知らないところで、こんなにも沢山のことが動いていたなどと、誰が思うだろうか。
「でも、なんでそこまでする必要があったんだ?」
凰黎の顔が曇る。
言いようもない悲哀の表情が、そこには込められていた。
「……夢を、見たでしょう? 仙界はいつでも我々の様子を窺っています。幸い今回は翳黒明が封印を扱う力を持っていたので、彼らは原始の谷にこそ侵入することができませんでしたが、もしも無傷で全員が原始の谷から出てきてしまったら、全てのものが万晶鉱に触れ無傷で帰ってきたと思い、自分たちの求める人材を奪うためにやってくるでしょう。……私を仙界に連れていこうとしたように」
誰よりも仙界のものがどう行動するかを、凰黎は熟知しているのだ。
幼い頃から蓬莱に振り回され、家族と離れ離れに暮らさなければならなかった凰黎。
そして、再び彼らとまみえたとき、煬鳳を狙う彼らを恐れた凰黎。
「なら……なら、みんな無事なのか!? でも、あの巨大な兵士が……仙界の……」
煬鳳はそこまで言ったあと、重大なことに気づいた。
「凰黎は……、もう一人の凰黎はいま、どこにいるんだ!?」
必死で呼びかける煬鳳の眼差しに、凰黎は目を伏せる。僅かに逡巡したのち、彼はゆっくり口を開いた。
「貴方のよく知る凰黎は……仙界へ行きました。蓬莱と決着をつけるために」
「なんだって!?」
目の前が真っ暗になり、煬鳳は倒れそうになる。凰黎がすぐに彼を支え、煬鳳は彼の胸に抱き留められた。
煬鳳は凰黎の肩を掴み、訴える。
「なんで、なんで凰黎は仙界に!? なんで俺を置いていくんだ!? 俺たち、ずっと一緒だったじゃないか!」
凰黎は再び目を伏せ、首を振った。
「どうして、教えてくれないんだ!? 凰黎は……………………」
煬鳳の脳裏に恒凰宮で見た夢の光景が蘇る。
淡青の衣を真っ赤に染めて座り込む凰黎の姿。
彼が何度も呼んでいた自分の名前。
『――かつて私はとても後悔したことがある。後悔と言うには辛すぎて、とても苦しい思い出だ。取り戻すことができるのなら、私はどんな犠牲をも厭わない。いかなる手段でも行使してみせる』
そして、以前鸞快子が霧谷関で煬鳳に言った決意の言葉。
彼の後悔が何であったのか、ようやく解ったのだ。
「もしかして……俺が死ぬから……。だから凰黎は俺を置いていったのか!?」
凰黎の眉が微かに跳ねたのを、煬鳳は見逃さない。
あれは夢などではなく――鸞快子のかつての記憶。
「そうなんだな……」
暫くのあいだ凰黎の動きが止まった。
なんと言おうか迷ったのかもしれないし、困っていたのかもしれない。
僅かなあいだだったが、気が遠くなるほどの時間に煬鳳には感じられた。
そのあとで凰黎は眉尻を下げ大きく溜め息をつく。
「貴方には負けました。……騙し通すつもりだったのに、私の正体に気づき、ここまで言い当てるなんて」
諦めたような口調で凰黎は言った。しかし、自分のことを凰黎であると見破ったことについては嬉しかったのか、彼の口元は微かに微笑んでいた。
「教えてくれ。どうやったら仙界に行ける?」
凰黎一人で蓬莱と戦おうなど、死ぬために行くようなものだ。せめて自分だけでも凰黎の力になりたい。その一心で煬鳳は目の前の凰黎に尋ねた。
「仙界は地続きの魔界とは違い、我々のいる人界とは異なる次元にあります。星霓峰の向こうにある崑崙から仙界に行くことができますが……それも、特別な佩玉が無ければ到達することはできません」
「それでも俺は凰黎のところにいかなきゃいけないんだ。教えてくれ、どうしたらいい?」
凰黎は静かに首を振る。
「方法が無いからこそ、凰黎は貴方を残して一人で向かったのです。貴方が追いかけてこないように」
「なんでだよ!」
「自分一人で、蓬莱を倒すためにです」
「そんなの、無茶だ! 勝てるわけがない!」
蓬莱の異常なほどの強さを煬鳳も目の当たりにした。
もしも蓬莱に凰黎が勝てるというのなら、初めから凰黎はそうしていたはずだ。しなかったのは、できない理由があるからに他ならない。
「それでも、凰黎はその選択をしました」
全て分かっているような、彼の声。
いや、目の前の凰黎は全て分かっているのだ。
だからこそ覚悟を決めもう一人の凰黎を送り出し、煬鳳を残した。
それでも……と煬鳳は唇を噛む。
「俺はそんなの、嫌だ! 凰黎が死ぬなんて、絶対に嫌だ! 俺はなんとしても仙界に行く! 凰黎に会うんだ!」
もしかしたらこのまま凰黎に会えなくなってしまうのではないか。そんな不安が煬鳳の中で駆け巡っていた。
「それでも私は貴方を行かせるわけにはいきません。何のために凰黎が貴方を置いてまで命を懸けて仙界に行ったのか。その気持ちを考えて下さい」
凰黎の言葉に胸を突かれ、涙がこみ上げる。
旅を始めたのは煬鳳のためだった。
他人として接していた兄と再会したのも、煬鳳のためだった。
魔界に赴いたのも煬鳳のため。
翳冥宮を訪れたのだって煬鳳のためだ。
それに……瞋九龍と対峙したのも煬鳳のため。
目の前にいる凰黎。
彼もまた、煬鳳のためにいままでずっと付き添ってくれていた。
鸞快子と名前を偽り、仮面で己を偽り。
ずっと煬鳳たちのことを助けてくれたのだ。
全てのことは――煬鳳のため。
自分はそんな凰黎のために、何一つしてやることができないのか?
凰黎を助けることさえできないのか?
堪らず煬鳳は凰黎に縋りつき、訴えた。
「なら凰黎は……俺が凰黎を見捨てるような奴でいいのか!? 恋人が死んでも自分が助かればそれでいい。……もし、そんな俺だったら、凰黎は俺のこと好きになったのか!?」
好きな人を助けたい。
好きな人を守りたい。
好きな人に会いたい。
なんということはない。
凰黎がそうであるように、煬鳳も同じ気持ちというだけ。
ただ、それだけのことなのだ。
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魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。
表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。
転生エルフの天才エンジニア、静かに暮らしたいのに騎士団長に捕まる〜俺の鉄壁理論は彼の溺愛パッチでバグだらけです〜
たら昆布
BL
転生したらエルフだった社畜エンジニアがのんびり森で暮らす話
騎士団長とのじれったい不器用BL
過保護な父の歪んだ愛着。旅立ちを控えた俺の身体は、夜ごとに父の形で塗り潰される
中山(ほ)
BL
「パックの中、僕の形になっちゃったね」
夢か現か。耳元で囁かれる甘い声と、内側を執拗に掻き回す熱。翌朝、自室で目覚めたパックに、昨夜の記憶はない。ただ、疼くような下腹部の熱だけが残っていた。
相談しようと向かった相手こそが、自分を侵食している張本人だとも知らずに、パックは父の部屋の扉を開く。
このお話はムーンライトでも投稿してます〜
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