冷血

あとみく

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石鹸6

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「じゃあその苛性ソーダってのを盗むのは?」
「たぶん劇物扱いだから厳重に管理されてるだろう。どこにあるのか、見当もつかないが」
「少なくとも店では売ってない」
「しかし、石鹸という物が存在してる以上、どこかにはあるんだろうな」
「石鹸は石鹸工場から出てくる。なら、苛性ソーダは苛性ソーダ工場から?」
「そこでは炭酸ナトリウムと水酸化カルシウムを大鍋で混ぜてるんだろう」
「じゃあその二つがあればいい。ナトリウムとカルシウムだろ? あんたのポケットに入ってるんじゃ?」
 学はそのポケットから今度は歯みがきガムを出し、「それは別物だろ」とだるそうに答えた。鉄とプラスチックの違いは分かるが、ナトリウムとタンサン=ナトリウムの違いは分からない。炭酸だのソーダだの、きっとシュワシュワしてるんじゃないか。
「っていうか、でも、そもそも石鹸がそれで出来てるって言うなら、そん中に入ってるってことじゃないの?」
「ここから還元する? いや、酸化、還元・・・どっちだか分からないが、もう戻らないだろう。もし何かの拍子に戻るなら、俺たちは石鹸を使い続けてはいないだろうから」
「結果論だね」
「結果論だ。それが科学だ」
「なあマナブさん、さっきっから俺たち、いったい何の話をしてるんだろうな。何とかウムだの何とかウムだの、もっと、鉄パイプとか発泡スチロールとかみたいに、分かる<モノ>の話にはならない?」
 俺は、本当はその<何とかウム>の辺りにむずむずしたものを感じてまた挑発するように蹴っ飛ばしてみたのだったが、学は俺から説明を請われたのにも関わらず、怒るどころか呆れる様子すらなかった。
「・・・いくらか隔たりがあるようだ」
「隔たり? それは、俺とあんたとの間にってこと?」
「違う、分子と原子の間の隔たり。ナトリウムもカルシウムも鉄も元素だが、たとえば鉄パイプも鉄クギも純粋な意味の鉄じゃないし、透明な魚の骨と白い哺乳類の骨とではカルシウムの含まれ方が異なっているから同じ物質じゃない。俺が言った隔たりというのは、この現実のこの視点におけるマクロな物体や事象と、スケールを落としたミクロなレベルでのモノと現象は、同じものを指してはいるが、所詮生き物の脳味噌で捉えられる以上の認識に至るのは不可能だという意味だ」
「・・・その賢いアタマで苛性ソーダの場所は分からないのかね」
「水酸化ナトリウムが固体か液体か気体なのかすら想像がつかない。何の容器で、どんな運搬器具を使い、どんな経路で運ぶのか。モノのことを考えるより、劇物取扱のマニュアルでもあればおおよそ動きが推測できるんだが」
 落ち葉が地面を右から左へごそごそと這い、遠くで微かに地鳴りがした。寒さに耳がキンとし、自分の喋る声が鼻白んで聞こえる。
 学はいろいろとまくし立てたけれども、終わってしまえばまた海へ潜るように黙り込んだ。俺はそれで、会話というのは何だろうと思ってしまった。そしてその延長上で、隣の物体はどんな組成で、どんなカルシウムとカリウムとナトリウムの含まれ方をしていて、そしてどうしてそんな塊が喋っているんだろうと思った。
 ほんの僅か、隣り合った右側に体温を感じる。
 学の中身からいろいろな化合物を取り出して、別のものに作り変えられるだろうか。・・・みんなそうしてしまったら、あんたも<枠外>へ行けるんじゃないか。そしたら生き物ではない認識とやらに至れるんじゃないか――。
「スケールの違いはアタマでは超えられないの?」
 すると学は思考が迷うときの癖なのか、首を小刻みに左右へ傾げながら、「超えたか超えてないか客観的判断ができないから――」と言った。俺はそれを聞き終わる前に、「腹減った?」とその手の石鹸の上に缶詰をどんと置いた。それで石鹸が削れたが、その削り口に俺は見とれた。レンガとかパック詰めされた塩なんかもたまらなくなってしまうが、それとは違うこの密度、缶詰の縁の出っ張りを、フィルムに残すようにその接触と時間とを写し取ったこの跡! 俺は震える指先でそれをなぞり、そのすべらかな表面に、それが経験してきた化学反応たちを感じる気さえした。そうしたら、先ほど感じたような気がするすべてを忘れた。何かあった、何かイイ感じがする何かをさっきからいくつか感じていた、でもみんな忘れた。忘れてしまった。
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