冷血

あとみく

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植物園1

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 いろいろなことを思い出そうと思ったが、うまくはゆかなかった。頭の中はボルタレンの不透明な白で濁り、過去を参照して現在を判断することを妨げていた。腕の痛みと頭痛とめまい、あのボートの男を文字通り倒した時の衝撃と、生まれて初めて持ったはっきりとした暴力の衝動、そして、自分の中で現在進行形で遠ざかっているあのボートと<既存のルール>、それから、己が<枠外>の高みに求めた何かが身体の中を駆け巡って入り混じり、身体はそれらの透明な容れ物となってその色を映したが、やがて、最終的には白が勝った。記憶や価値観や自意識よりも、化学物質だ。
 歩き出して、ふと、腹に隠し持ったナイフのことを思った。蟻を相手にナイフを振るってみても何の意味もない。そう、その小さな鉄片は覚を殺してしまえるが、蟻に対しては無力。その力と力学は、想像さえすれば至極当たり前であるにもかかわらず、一の力が〇.一に負けるというのは納得がいかないような気もした。蟻という存在はどうにも考えるにつけ、どの道を行ってもそうしたスケール・ギャップに足を取られ、その度にそれまでとわずか違う地平で起き上がり、平衡感覚が少しずれてしまう気がする。はたしてあのナノ・マシンどもが各個で思考をしているのか、などと考えてしまったらほとんど頭が狂いそうになり、やめた。今なすべきことは、目の前の扉を開けることだけだ。
「マナブさん、これは開かないね」
 先ほどからじっとしていた覚が大した感慨もなく言い、学は拍子抜けした。しかし覚がそう言うならそれは、悲しむことでも困ることでもないのだろう。
「きみでも無理か? 何が要る?」
「ううん、あすこに赤い点が見えるだろ? ってことは電子的に操作するやつだろうよ」
「鍵も、パネルみたいなものもないな」
「完全に内側で操作してるのか。――ってことは、必ず誰かが常駐してる・・・?」
「そこまでの必要性はないだろう。見たところ空調しか動いてないようだし、保管だけが目的なら・・・」
「どっちにしても窓があるんだから、のぞいてみよう。俺が拝むよ。肩を貸して」
 言うが早いか覚はさっさと学におぶさり、壁に手をついて両肩によじ登った。まるでブレーメンの何とやら、蟻の施設を犬と猫がのぞきこんでいれば世話ないなと笑えてくる。遠慮のない覚は肩の上で背伸びをし、ほとんど頭を踏んづける勢いだが、「うん――?」というつぶやきを聞いたら、思考とともに周りの木々まで静まり返ったような気さえした。
「――どうした?」
「木だ。木が植わってる」
「木?」
「植物園っていうのか、温室か、農園? いや、畑じゃない。とにかく木がある」
「中は木ばかりか? そんな天井高か?」
「木ってったって、ブナやカシじゃないよ。もっと全然、低いのが、いろいろ」
「ふうん・・・まあ、観葉植物や、植え込みのやつなんかの、苗木の、倉庫というか・・・?」
 学は肩で飛び跳ねる足首を支えながら頭を下げ、その声はほとんど独り言になっていた。肝心の蟻はいるのかと訊きたかったが、考えてみれば窓から見えるはずもなく、しかし、ならもしかしてこの壁を這っていたっておかしくないのかと今更ながらに気づき、学は眼球をぐるりとまわして見える範囲の壁と足元を凝視した。
 特に、何もいない。
 ――ここはやつらの領地で、やつらの高速道路と繋がっていて、中は植木倉庫で、夜中でも空調と常夜灯がつき、電子キーでロックされている・・・。
 状況はよく分からなかったが、しかし、ではこの中で銃だの麻薬だの、生物兵器だのでも造っていれば納得するのかと考えたら、またもや笑いが漏れた。覚の言うとおり、見張りも高圧電流もない開けっぴろげな治外法権でどんな悪事が行われているというのか。そして先に自分が言ったとおり、ふつうの会社だって夜中は施錠するし、発電所や議事堂だって何はなくとも立入禁止だ。いったい何がふつうで、何が特殊な機密事項か、どうしてこんなにも判断するアタマがないのだろう。かつての仕事の<死亡案件>だって、死(DEATH)の頭文字の<D>をつけた隠語で呼ばれていたが、一日何十件と処理しているうちにまったく慣れてなんとも思わなくなったものだった。ガンも溺死も自殺も<D>は<D>。大事なのはその後のフローを<補償対象外>へ持っていくことだけで、書類に<処置3>のスタンプを押したら終わりだ。学に見えているのは死体でも、保険がおりないことに首をひねる遺族でも、葬儀をして家族が減った日常に戻っていく時間の流れでもなく、あのスタンプの見慣れたかすれ具合のみ。――いや、だから、一日十時間そうしたものとだけ向き合っていれば、ブナとカシがどんな木なのかさっぱり分からず、言われてみれば街路樹や植え込みの木がどこから運ばれてくるのかも知らず、<自分の仕事>でないものは<業者の仕事>でしかない日常しか持たず、そこから出てくるのは<フツウの施設>か<ヤバい施設>の二択という、驚くべき大人の世界の狭さなのだった。
 腹のナイフも、視界の上のニット帽も、ボルタレンも、石鹸も。
 どこの誰がどうやって作ってこの手元まで届いたか、何ら、知る由もない。知っているというならただひとつ、この身であれば、親から生まれたのであろう。それにしたって、その種から芽を出した細胞がどんなエネルギーでどんな物理学でどんな生理学で動いているのか、それも知らない。要するに、知識の面でも体感の面でも、あらゆる自然さから切り離され、由来の分からない人工物に囲まれ、帰る場所もない、我々は真に孤独な生き物なのだ。
 ――ならば、知ってやろうじゃないか。
 帰る場所がないなら、この脳味噌の中に知識の布団を敷いて、そこで死のう。
「覚! それで、どうする!」
 何度か肩で足踏みがあり、覚が壁を手で押した。ひゅう、と、物のバランスが落下へと傾くそれ相応の間があり、それから覚は学の背で体をひねって地面にとすっ、と着地した。学の方が後ずさって、ぬっと起き上がるその猫背に寄りかかる格好になったが、覚はさっと手で制し、耳をそばだてた。
「――聞こえる。車」
「高速からか」
「入ってくる。反対側」
 ふたりの視線は目の前の壁を越えた向こう側で交差し、あとの言葉はなかった。
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