黒犬と山猫!

あとみく

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初デートに奔走

第281話:過去の傷の影

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 木曜日。
 朝から西沢とは少しぎくしゃくした会話を交わし、背後の三課を気にしつつも仕事に励んだ。デートの件はといえばサンシャインでなく品川の水族館という収穫しかなく、まったくあれはリスクに見合わない行為だった。
 結局、昨日はノー残だったのに電話もしてなくて、会社でもキャビネ前の四人で話すだけ。
 急に、西沢と二人きりで食事になんか行ったことがものすごい不貞行為のように思えて、ふいに落ち込んだりもした。
 具体的なデートプランが立てられていないのみならず、やはりデートがしたいという気持ちもわいてこなくて、それどころか西沢との食事で相手に気を遣うということへのハードルも上がってしまい、もはや休日はお互い家で寝ているのがもっとも有意義じゃないかとさえ思えてしまう。

 それでも何とか仕事だけをやり、金曜日。
 西沢とはまた業務上の会話だけをして、外回りに出る時。
「行ってきます」
 ・・・。
 一秒、間を置いて、佐山さんが「行ってらっしゃーい」と声をかけた。
 何となく心がざわざわしたまま外に出て、地下通路でJRへ。
 ・・・西沢と、横田。
 両隣の二人が、いつもは緩慢ながらも「行ってらっしゃい」とか「うーっす」とか返すのに、今日は、無言だった。
 別に、電話中とか、手が離せないとかでもなかったと思う。
 どちらかだけならまだ、気にしなかったかもしれない。でも、たぶん佐山さんも一瞬「あれ?」と思うほど、その一秒は無音だった。
 ・・・無視、され、た?
 いや、何だそれ、無視とか。
 ・・・西沢なら、まだ、分かる。何だか変な誤解が解けたのか解けてないのかもよく分からないし、僕が「内密に」などと言ったからまだ気にしているようで、ちょっと腫れ物に触るようになっているのも仕方ない。
 だが、横田は、何の関係もないはずだ。
 もちろん、単なる偶然。意味はない、はず。
 それでも、気になって、焦りが理屈機関に石炭をかきいれ、どんどんとネガティブな思考が進む。
 もしかして、西沢が・・・横田に話した、とか?
 僕に彼女がいる疑惑の件・・・いや、違う。
 ・・・僕が、西沢を好きみたいな話になりかかったこと?いや、それも否定したはず。
 ・・・もしかして、僕が相手は別にいると言った、・・・その相手も、・・・男だと、ばれている?
 いや、さすがに話が飛躍しすぎだし、いくら西沢が早合点で勝手な解釈をしやすい男だとしても、そんなに都合よくピンポイントでおかしな指摘をしないだろう。
 そう、たとえ、西沢が何かの勘で、僕と黒井のことを察したのだとしても。
 何の証拠もないし、そして、あの西沢が、そんなことを同じ課の横田に吹聴するとは思えなかった。行動原理として全然合わないし、もしも訊かれたら「そういやあの二人コソコソしとった」くらいは言うだろうが、自分からそんなデリケートな話題を持ち出すとも思えない。しかも、僕と横田の方が付き合いも長いし同期で、そんな陰口のようなことを言ったら筒抜けなのだ。「山根君と飲みに行ったが、何だか変な雰囲気で、あいつはホモかもしれん・・・」そう言いたいならたぶんもっと遠い人に言うだろう。冗談でならあるかもしれないが、だとすれば逆に、こんな風に無視される理由にはならない・・・。
 ・・・。
 すごい被害妄想だ。
 あまりに現実的じゃない。
 小学生ならまだしも、社会人がろくな確証もないまま「あいつホモだって~みんなで無視しようぜ」なんて、言い出すわけないだろう。
 こんなの、西沢に対する侮辱だ。いくら上から目線がいけ好かなくたって、彼がこんなおかしな嫌がらせをする人間ではないことくらい、分かっている。そして横田にしたってそうだ。仮に西沢から何か言われたとしても、それで「ハイそれじゃ俺も無視します」なんて言う奴じゃない。
 ・・・っていうか何より、二人ともそんなに暇じゃない。まったくバカバカしい。
 分かってる。完全に、僕の被害妄想だ。いろいろと嘘をついたりごまかしたり、後ろめたいことが多いせいで、気にしすぎているだけだ。
 ・・・それに。
 仮に、五万歩くらい譲って彼らが僕に嫌がらせをしているのだとして、だからって、それが何だ。僕にはクロがいるし、世界にただ一人、クロがいればそれでいいんだし、気にすることなんてない。そしてさらに、もし彼らが嫌がらせをしたくてしているのであれば、僕のことが嫌だから僕を苛めるということに何の齟齬もないのだからこれも問題はない。それより、彼らにその気がないのに僕が勘違いをしているならそっちの方が問題だ。
 二人の名誉のためにも、無視疑惑なんて、忘れよう。
 しかし、帰社して、渾身の「ただいま戻りましたー」にも返事がないと、胸から腹へ、重たいものが落ちていった。


・・・・・・・・・・・・・・・・


 土曜日。
 むしろ僕がクロを無視しているというレベルになってきて、しかしそれでも、どうしても電話できない。
 告白された優越感はどうしたんだ。まったく、何も起きていないのに勝手に転んで勝手に致命傷を負っていて、明日のプランは何もない。
 泣きたくなった。
 馬鹿じゃないのか。
 被害妄想なのは分かっている。もし僕が客観的にこの話を聞いたら、「絶対にそれはないですよ」と自信を持って言うと思う。弁護士よろしくすべての事柄を論破できるのに・・・それでも。
 気持ちは、落ち着かなかった。
 あの時、<ヒロ、そういうのはだめなんだぞ>と叱られた後、会う人みんなが<あのこと>を知っていて、白い目で見られているような気がして潜在的におびえ、たぶんそれから、何につけても一歩引いて構えるようになった。
 また、同じことが起きている。誰かに近寄って、僕が何かを晒してしまって、それで今度はもう<だめなんだぞ>すら言われることなく、あの死にたかった高一がぶり返されるように、ただ黙ってみんなが僕を避けていく。
 ・・・あはは、バカバカしい。だから、社会人はそんなに暇じゃないってば。大丈夫、誰も僕のことなんて気に留めてない。西沢だって横田だって、何も気にしてないからこそ、挨拶だって忘れちゃったんだ。
 ・・・でも。
 怖かった。
 デートも、人付き合いも、マニュアルがなければ一歩も動けない。
 知らぬうちに、僕の中身が・・・僕の性的な何かが誰かを傷つけていて、ふいに後から非難されるのが怖い。
 それだけだった。僕を守ってくれるはずの理屈は、メリットとデメリットは見極めても、人の気持ちの機微には鈍感で、安心というぬくもりを与えてはくれない。分厚い壁を作っても、その内側は寒い。
 クロに助けを求めることも、出来なかった。具体的に何かを相談するとかではなく、クロという存在が、今の僕の救いには、なっていなかった。僕にはクロがいるじゃないかという言葉は、もしもクロまでいなくなったら・・・という引き金にしかならなさそうで、そっとしまっておくしかなかった。
 そうして、メールが鳴った。
 クロが痺れを切らしたんだろうと、それはあまりに怖かった。僕は、誰の何の期待にも応えられていない。
 もうほとんど震えながら携帯を開けると、それは、西沢からのメールだった。

<お疲れ様です。こないだは楽しかった。奢ったことを気にしとったけど、ほんまに気にせんでな。今度奢ってもらうわ。あと一応、来週の連休に合コンあるので、もしその気があるなら連絡下さい。相手はどこかの編集部女子で、うちの営業で何人か、横田君も来れるそうです。結局、彼女が欲しいって話だったのかいまいちわからんかったから、会社では話さんときました。念のため>

 ・・・。
 ・・・ほら、うん。
 やっぱり、被害妄想だったし、でも、こうして疑惑が晴れないと、気持ちも晴れない。
 僕は、ありがとう、ありがとうと言いながらメールを打った。

<お疲れ様です。あの中華は本当に美味しかったです。そしていろいろと、ご迷惑をおかけしました。話が分かりづらかったのも申し訳ない。ただ、合コンを必要としてはおりませんので、しかしお気遣いには本当に感謝します。今後、その時があれば僭越ながら食事代を持ちます。今後とも宜しくお願いします。 山根>

 <了解、ほな今度な!>とすぐ返事が来て、そのビックリマークが嬉しかった。


・・・・・・・・・・・・・・・


 僕はほっとして小一時間ゴロ寝し、それから洗濯機を回して少し掃除をした。
 そして、ようやく、本題に戻る。
 ・・・デートだ(この単語にも耐性がついてきた)。
 もう、例の品川の水族館とやらでいいんじゃないか。しかし西沢が言ったところにそのまんま行くのも芸がないし、それなら別の水族館にするか。
 しかし、水族館って、男二人で行ってもいいものなのか?
 というか、水族館に、行きたいんだろうか。
 イルカとか、魚がいるところ。・・・でも、そうだ、黒井から深海の写真集をもらったのだし、魚は悪いアイディアじゃない。なら決まりか、もうそれでいいか。朝から水族館に行って、お昼を食べて、・・・イルカのショーを見て、・・・夕飯を食べる?
 うん?これではデートの<セットメニュー>になっていない?水族館で丸一日は過ごせない?

 それからない頭を絞って、ようやく出した答えは、・・・<動物園>だった。
 ・・・うん、もう、いい。
 疲れた。
 手近な都内で、でも広くて丸一日過ごせて、僕があれこれリサーチして解説しなくたって誰でも楽しめて(万人向け上等)、男二人が歩いていてもそこまで目立たなくて(たぶん)、駅前には食べ物屋などもいろいろ揃っている、下心のない清廉潔白な歴史的デートスポット。
 ・・・上野動物園に行こう。


・・・・・・・・・・・・・・・・


 日曜日。
 当日の朝になるまでテレビなんか見ていなくて、カーテンを開けたら雨が降っていて、そして気温は二十度だなんて、もう目も当てられなかった。
 そうか、デートって、天気が大事だったんだ・・・。
 別に、雨でも動物園はやってるだろうが、なにも今日に限って降ることないのに。
 ・・・今から、場所を変える?水族館なら雨でも関係ないけど。
 しかし、電車の乗り換えやら施設の概要やら、今更器用に変更など出来るわけもない。思えば中学の頃はたまに友達と連れ立って出かけたりもしていたが、行く先は幕張の大きなゲームイベントなどで、目的も場所もはっきりしていたから困ることもなかった。
 やっぱり、シンプルが一番だろう。
 もう腹をくくって外に出ると思ったよりずっと寒くて、旅行用に買ったシャツの上に着古した薄手のジャンバーを羽織り、靴も雨で染みないやつにしたいけどもうどうにもならず、時計を見たら遅刻ギリギリだった。ああ、デートって、服装も大事だったんだ・・・。

 
・・・・・・・・・・・・・・・・


 朝九時、桜上水ホームで待ち合わせ。
 黒井にメールしたのはそれだけ。行き先は、別にサプライズとかじゃなく、ただ恥ずかしくて言い出せなかった。まあ、上野駅で降りた瞬間分かってしまうけど。
 本当は早めに着いて待っていたかったのに、小雨の降りしきる中、ホーム先頭に黒井はいた。傘もささず、手ぶらで、でも今まで見たこともない服。色の濃い、少しだぼっとした感じのジーンズの前ポケットに親指だけひっかけて、上着はブルゾンとでも呼ぶ服なのか、その内側からは赤いシャツが覗いていた。
 ドアが、開いて。
 あ、間違えました、とでも言って引き返したくなるけど、仕方なく降りる。いや、これにそのまま乗っていけばいいんだけど、ホーム待ち合わせと書いたからには、降り立たないとデート開始の待ち合わせ行為が完結しない・・・。
「ご・・・ごめん、待った?」
 顔なんか見れない。雨が目に入るくらいがちょうどいい。
「い、今来たとこ・・・って、こともないけど。・・・その、おはよ」
「ああ、おはよう」
 たぶん二人とも下を向いたまま、うん、僕のスニーカーだけが古い。
 ・・・。
 次の電車が来るまで、黙っているわけにもいかないし。
「・・・そういえばお前、おはようって、・・・よく、言う」
「・・・え?」
「だから、前に、おはようは好きじゃないって」
「・・・ああ、そういえば。・・・おはよう、あれ、嫌じゃないな。おはよう・・・」
「おい、九官鳥じゃないんだから」
「はは、ほんとだ。いや、だって早くに会ったんだから、おい、やまねこ、おはよう・・・」
 僕は、濡れた額をこすりながらようやく顔を上げると、黒井を見た。何だよ、髪型までちょっと違うのか。それとも雨で濡れただけ?
「ええっとそれじゃあ、クロおはよう」
 すると黒井はついっと後ろを向いて、「な、何か、久しぶりじゃん!」とホームをうろうろした。
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