2 / 16
2 カラント伯爵家のブラッド
朝の校庭には、明るい風が流れていて、それをかきわけるようにして生徒たちの足音が広がっていた。
誰か、ひそひそと話している。ふわふわした景色のなかに、私はいた。
「──でさ、昨日のことだけど」
「ほんとに肘鉄、くらったの?」
「顔に。あの、バレンシア子爵令嬢よ?」
「よりによってカラント伯爵家のブラッド様が?」
まるで、少女小説の中のセリフみたいだった。
わたしは手を背中で組んで、廊下をのんびり歩いていた。
記憶喪失ごっこは、続けるって決めた。
顔に残る青あざは、昨日の事件の証だったけれど、鏡に映る自分はなんだか他人みたいだった。
「この校舎って、思ったより広いのねぇ」
角を曲がろうとしたとき、声が聞こえて立ち止まる。そろりと覗き込むと──
(……エリオット?)
胸のなかが、プルンとゼリーみたいに震えた。そこにいたのはエリオット。でもその腕には、知らない女の子。ピンク色の髪がくるんと揺れて、制服のスカートがすこし短くて、彼の袖をきゅっとつまんでいた。
「もう、ダイアナ、くすぐったいよ」
その一言に、心の中で何かがパリンと割れた。**くすぐったい**って、なんなの? でも私は、いつも通りの声で問いかけた。
「……おはよう、エリオットさまですよね?」
「やだ、誰? この子」とダイアナ。
「なんだ、ビビアンか」って、エリオットは言った。意地悪な、その態度に心がざわつく。
「記憶、戻ったのかい?」
彼がそう言って、口角をひょいっと上げたとき、私は言葉につまった。
「えっと……ブラッドさまは一緒じゃないの?」
その瞬間、自分の演技に手を叩いた、でも胸の奥では、冷たい水がすっと流れた。
(これ……いつまで続けるの?)
そう思ったとき、ブラッドさまが来た。
「エリオット!」
廊下の空気が**ピリッ**とした。
エリオットは、軽く肩をすくめて、ダイアナの背中を押した。
「ごめんねー、先に行ってるよ」
去っていくふたりの背中。私はそれを追わなかった。これはエリオットのお芝居よね?
気づくと隣に、ブラッドさまがすぐ近くに立っていた。いつもは、もっと遠くにいる人だったのに。
「……ビビアン。体調はどうだ?」
「ええ、まったく覚えていないから、具合が悪いのかどうかもわからなくて」
「ふふっ」と笑うと、ブラッドさまは少しだけ目を伏せ「すまない」と言った。
それって昨日の肘打ち? それとも、このくだらないお芝居のこと?
「もう気にしないで、わたしも悪かったの」
「いや、何か、困ったら言って欲しい。償いになんでもするから」
そんな優しい言葉、でもわたしは、さっきのエリオットの態度に頭がいっぱいだった。
(まさかエリオット……ほんとうに、あんな女の子と?)
心の中がざわざわしていたけど、口元は勝手に笑っていた。
「あー、エリオットさまって、モテるんですね、ふふ」
そのとき、ブラッドさまの瞳が、少し揺れた。
「……弟のことは、あまり信用しない方がいい」
わかってる。お芝居よね、エリオットってば、私を困らせたいのよね?
私はその横顔を見上げて、ぽつりと尋ねた。
「……じゃあ、あなたのことは?」
返事なんて期待していなかったのに、ブラッドさまは一瞬だけ立ち止まって、それから背中を向けたまま言った。
「俺は君の婚約者ってことで、良いんだよな?」
「う……うん」
予鈴が鳴って、彼の後ろ姿が、朝の光に溶けていった。私は、ぽつんとその場に取り残された。
(ねえ、なんなの……これって?)
こめかみをそっと押さえて、歩き出した。エリオットはまるで別人。ブラッドは優しいけど、嘘つき。私はと言えば、記憶喪失のふりをしている変な子。こんなの、どうやって終わらせたらいいの?
**──いつ、「ごめんなさい、全部うそでした」って言えばいいのかな……。**
誰か、ひそひそと話している。ふわふわした景色のなかに、私はいた。
「──でさ、昨日のことだけど」
「ほんとに肘鉄、くらったの?」
「顔に。あの、バレンシア子爵令嬢よ?」
「よりによってカラント伯爵家のブラッド様が?」
まるで、少女小説の中のセリフみたいだった。
わたしは手を背中で組んで、廊下をのんびり歩いていた。
記憶喪失ごっこは、続けるって決めた。
顔に残る青あざは、昨日の事件の証だったけれど、鏡に映る自分はなんだか他人みたいだった。
「この校舎って、思ったより広いのねぇ」
角を曲がろうとしたとき、声が聞こえて立ち止まる。そろりと覗き込むと──
(……エリオット?)
胸のなかが、プルンとゼリーみたいに震えた。そこにいたのはエリオット。でもその腕には、知らない女の子。ピンク色の髪がくるんと揺れて、制服のスカートがすこし短くて、彼の袖をきゅっとつまんでいた。
「もう、ダイアナ、くすぐったいよ」
その一言に、心の中で何かがパリンと割れた。**くすぐったい**って、なんなの? でも私は、いつも通りの声で問いかけた。
「……おはよう、エリオットさまですよね?」
「やだ、誰? この子」とダイアナ。
「なんだ、ビビアンか」って、エリオットは言った。意地悪な、その態度に心がざわつく。
「記憶、戻ったのかい?」
彼がそう言って、口角をひょいっと上げたとき、私は言葉につまった。
「えっと……ブラッドさまは一緒じゃないの?」
その瞬間、自分の演技に手を叩いた、でも胸の奥では、冷たい水がすっと流れた。
(これ……いつまで続けるの?)
そう思ったとき、ブラッドさまが来た。
「エリオット!」
廊下の空気が**ピリッ**とした。
エリオットは、軽く肩をすくめて、ダイアナの背中を押した。
「ごめんねー、先に行ってるよ」
去っていくふたりの背中。私はそれを追わなかった。これはエリオットのお芝居よね?
気づくと隣に、ブラッドさまがすぐ近くに立っていた。いつもは、もっと遠くにいる人だったのに。
「……ビビアン。体調はどうだ?」
「ええ、まったく覚えていないから、具合が悪いのかどうかもわからなくて」
「ふふっ」と笑うと、ブラッドさまは少しだけ目を伏せ「すまない」と言った。
それって昨日の肘打ち? それとも、このくだらないお芝居のこと?
「もう気にしないで、わたしも悪かったの」
「いや、何か、困ったら言って欲しい。償いになんでもするから」
そんな優しい言葉、でもわたしは、さっきのエリオットの態度に頭がいっぱいだった。
(まさかエリオット……ほんとうに、あんな女の子と?)
心の中がざわざわしていたけど、口元は勝手に笑っていた。
「あー、エリオットさまって、モテるんですね、ふふ」
そのとき、ブラッドさまの瞳が、少し揺れた。
「……弟のことは、あまり信用しない方がいい」
わかってる。お芝居よね、エリオットってば、私を困らせたいのよね?
私はその横顔を見上げて、ぽつりと尋ねた。
「……じゃあ、あなたのことは?」
返事なんて期待していなかったのに、ブラッドさまは一瞬だけ立ち止まって、それから背中を向けたまま言った。
「俺は君の婚約者ってことで、良いんだよな?」
「う……うん」
予鈴が鳴って、彼の後ろ姿が、朝の光に溶けていった。私は、ぽつんとその場に取り残された。
(ねえ、なんなの……これって?)
こめかみをそっと押さえて、歩き出した。エリオットはまるで別人。ブラッドは優しいけど、嘘つき。私はと言えば、記憶喪失のふりをしている変な子。こんなの、どうやって終わらせたらいいの?
**──いつ、「ごめんなさい、全部うそでした」って言えばいいのかな……。**
あなたにおすすめの小説
貴方の運命になれなくて
豆狸
恋愛
運命の相手を見つめ続ける王太子ヨアニスの姿に、彼の婚約者であるスクリヴァ公爵令嬢リディアは身を引くことを決めた。
ところが婚約を解消した後で、ヨアニスの運命の相手プセマが毒に倒れ──
「……君がそんなに私を愛していたとは知らなかったよ」
「え?」
「プセマは毒で死んだよ。ああ、驚いたような顔をしなくてもいい。君は知っていたんだろう? プセマに毒を飲ませたのは君なんだから!」
この罰は永遠に
豆狸
恋愛
「オードリー、そなたはいつも私達を見ているが、一体なにが楽しいんだ?」
「クロード様の黄金色の髪が光を浴びて、キラキラ輝いているのを見るのが好きなのです」
「……ふうん」
その灰色の瞳には、いつもクロードが映っていた。
なろう様でも公開中です。
貴方でなくても良いのです。
豆狸
恋愛
彼が初めて淹れてくれたお茶を口に含むと、舌を刺すような刺激がありました。古い茶葉でもお使いになったのでしょうか。青い瞳に私を映すアントニオ様を傷つけないように、このことは秘密にしておきましょう。
【完結】私を忘れた貴方と、貴方を忘れた私の顛末
コツメカワウソ
恋愛
ローウェン王国西方騎士団で治癒師として働くソフィアには、魔導騎士の恋人アルフォンスがいる。
平民のソフィアと子爵家三男のアルフォンスは身分差があり、周囲には交際を気に入らない人間もいるが、それでも二人は幸せな生活をしていた。
そんな中、先見の家門魔法により今年が23年ぶりの厄災の年であると告げられる。
厄災に備えて準備を進めるが、そんな中アルフォンスは魔獣の呪いを受けてソフィアの事を忘れ、魔力を奪われてしまう。
アルフォンスの魔力を取り戻すために禁術である魔力回路の治癒を行うが、その代償としてソフィア自身も恋人であるアルフォンスの記憶を奪われてしまった。
お互いを忘れながらも対外的には恋人同士として過ごす事になるが…。
番外編始めました。
世界観は緩めです。
ご都合主義な所があります。
誤字脱字は随時修正していきます。
(完結)婚約者の勇者に忘れられた王女様――行方不明になった勇者は妻と子供を伴い戻って来た
青空一夏
恋愛
私はジョージア王国の王女でレイラ・ジョージア。護衛騎士のアルフィーは私の憧れの男性だった。彼はローガンナ男爵家の三男で到底私とは結婚できる身分ではない。
それでも私は彼にお嫁さんにしてほしいと告白し勇者になってくれるようにお願いした。勇者は望めば王女とも婚姻できるからだ。
彼は私の為に勇者になり私と婚約。その後、魔物討伐に向かった。
ところが彼は行方不明となりおよそ2年後やっと戻って来た。しかし、彼の横には子供を抱いた見知らぬ女性が立っており・・・・・・
ハッピーエンドではない悲恋になるかもしれません。もやもやエンドの追記あり。ちょっとしたざまぁになっています。
旦那さまは私のために嘘をつく
小蔦あおい
恋愛
声と記憶をなくしたシェリルには魔法使いの旦那さまがいる。霧が深い渓谷の間に浮かぶ小さな島でシェリルは旦那さまに愛されて幸せに暮らしていた。しかし、とある新聞記事をきっかけに旦那さまの様子がおかしくなっていっていく。彼の書斎から怪しい手紙を見つけたシェリルは、旦那さまが自分を利用していることを知ってしまって……。
記憶も声もなくした少女と、彼女を幸せにするために嘘で包み込もうとする魔法使いのお話。