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第三章
第三章 ~『大型犬と承徳との再会』~
しおりを挟む日が西に傾き、夕陽の柔らかな光が画房に差し込んでいる。
部屋全体が朱に染められた空間で、雪華は最後の一筆を慎重に書き入れ、一枚の水墨画を完成させる。描き終えた達成感から小さく息を漏らした。
「終わったの?」
「はい。よろしければ見てみますか?」
「お手並み拝見といこうかしら」
紫蘭が雪華の後ろから絵を眺める。それは九尾の狐を描いたもので、九本のしなやかな尾が舞い上がるように広がっていた。
尾の一本一本が墨で濃淡を加えられ、躍動しているかのような立体感がある。神聖な存在としての威厳が紙の上から伝わってきた。
紫蘭は絵をジッと見つめると、称賛の拍手を送る。
「凄いわね。まるで生きているような迫力があるわ」
「最近、動きの大きい絵も練習中でして……妲己様にも上手くなったと褒められるんですよ」
「これだけの作品だもの。当然の評価ね……特に九尾の狐は縁起物としての需要も高いから、欲しがる人は多いでしょうね」
称賛を素直に受け入れ、雪華は自信を顔に滲ませる。画師として自分の作品に誇りを抱いているからこその表情だった。
(絵が完成しましたし、今日は部屋に戻るとしましょう)
使用した筆を布で拭き取り、片付けを終えた雪華は立ち上がって、紫蘭に頭を下げる。
「私は先に失礼しますね」
「お疲れ様、また明日ね」
紫蘭が手を振りながら見送ってくれる。雪華もまた挨拶を返し、画房を後にする。
外に出ると、空は夕焼けに染まり、徐々に夜の藍色が広がり始めていた。冷たい空気が漂う中、廊下の向こう側に見知った小さな影を見つける。
「シロ様! 迎えに来てくれたのですね!」
子狼のシロが雪華の元へと駆けてくる。嬉しそうに耳をぴんと立てて、尻尾を振る姿は愛らしく、雪華はしゃがみ込んでシロを抱きかかえた。
ふわふわとした毛並みの感触とぬくもりが冷えた手に心地よく伝わってくる。彼女の腕にすっぽりと収まったシロは、雪華の胸元に顔を埋め、甘えるように小さな声を出した。
「せっかく、迎えに来てくれましたから。一緒に散歩していきましょうか」
提案を受け入れるように、シロは尻尾の振りを強くする。ふわふわと揺れる白い尻尾が喜びを物語っていた。
雪華はシロをそっと下ろして、並んで歩く。尻尾を振りながら、周囲を見渡すシロの動きが微笑ましく、雪華の心は自然と和んでいった。
やがて、以前、雪華が訪れた庭園へと辿り着く。薄暗くなったことで、緑が落ち着いた色合いに染まっている。
そんな中、長椅子に腰掛ける青年が空を見上げている姿を目にする。その人物は忘れようもない、後宮に入るようにと雪華の背中を押してくれた承徳だった。
黄金の髪は薄暗くとも輝いており、澄んだ瞳は透明感を増している。雪華が近づくと、彼も存在に気づいたのか、柔らかい笑みを浮かべた。
「久しぶりだね。それと聞いたよ。正式に後宮で女官として働くことを決めたようだね」
「承徳様のおかげで決心できました」
「私はたいしたことはしていないさ。家族から離れても夢を追いかける覚悟を持てたのは、雪華に勇気があったからだよ」
承徳との会話には自然と心が満たされていく不思議な感覚があった。その感覚に浸っていると、彼がシロを見据える。
「その子供の狼は?」
「私の家族のシロ様です。可愛いでしょう?」
「とてもね……頭を撫でてもいいかな?」
「もちろんです」
許可を得た承徳がゆっくりとシロに手を伸ばし、頭をそっと撫でる。
シロはその心地よさに目を細めてから、甘えるように彼の手にすり寄る。シロの小さな耳がピクリと動き、尻尾が軽やかに揺れていた。
「承徳様は相変わらず動物がお好きですね」
「人と違って、身分で人を判断したりしないところも魅力的だからね」
「身分ですか?」
「あ、いや、こちらの話さ」
承徳はどこか哀愁を含ませた笑みを浮かべる。雪華の心に小さな疑問と興味を残したが、それ以上問うのは控える。彼が話したくなれば、自然と会話に出てくるだろうと判断したからだ。
それからも雪華と承徳は会話を重ねる。二人の話が盛り上がっていく中、ふと視界の端に人影が映る。
その影の正体は彫師の玲瓏だった。その手には革紐が握られ、その先には大型犬が繋がっている。たくましい体つきと、漆黒の毛並みは、周囲を威圧するような存在感を放っていた。
さらに玲瓏の後ろには、数人の女官たちが取り巻きのように控えている。雪華はその立ち振る舞いから、後輩なのだろと直感した。
「また会ったわね」
「私は別に会いたくはありませんでしたが……」
「ふん、口の減らない女ね」
皮肉交じりの言葉に空気が張り詰める。雪華はその挑発を受け流しながら、玲瓏が連れている大型犬に目を向ける。
「立派なワンちゃんですね」
「わざわざ外国から取り寄せた犬種なのよ。だからサイズもこの国の犬より一回り大きいの。でも安心しなさい。私が命じない限り、人を襲ったりはしないから」
その言葉に反応するように、大型犬は低く唸り声を上げる。その声には威圧が込められていたが、雪華はその中に含まれた僅かな怯えを感じ取る。
「もしかして不遇な目にあっているのですか?」
雪華が問いかけると、「ワン」と答えが返ってくる。常人であれば、その意図を理解できないが、彼女は違う。何が行われてきたのかを把握し、眉間に皺を寄せる。
「躾と称して、ご飯を与えていないそうですね」
「――ッ……ど、どうしてそれを……」
玲瓏は不意に言葉を詰まらせると、取り巻きの女官たちに疑いの眼差しを向ける。彼女らは無実だと首を横に振るが、玲瓏の視線はより険しいものになった。
「取り巻きの方々から聞いたわけではありませんよ。そもそも私が正式に後宮で働くようになったのは今日からですしね」
「ならどうして知っているのよ?」
「動物と接することに慣れているおかげで、声から判別できるのですよ」
雪華の特技に玲瓏が驚く中、承徳が立ち上がって一歩前に出る。彼は玲瓏をまっすぐに見つめると、その瞳に鋭い威圧を含める。
「もし君が動物を虐めているとしたら、私も許せないかな」
その一言には言葉では言い表せないほどの迫力が込められていた。玲瓏は後退り、連れていた大型犬を手から離す。
逃げ出した犬の後を追うように、取り巻きの女官たちも互いに視線を交えてから、一斉に駆け出す。
「ど、どこに行くのよ!」
玲瓏は焦りの色を隠せないまま、振り返って女官たちに呼びかける。しかしその声で足を止めるものはいなかった。
犬も後輩たちも姿を消し、残された玲瓏は、一人ぽつんとその場に立ち尽くす。
「お、覚えてなさい」
玲瓏は顔を紅潮させ、悔しさを滲ませながら、その場から立ち去る。去っていく彼女の背中には、屈辱と苛立ちが滲んでおり、いつもよりどこか小さく見えたのだった。
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