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第三章
第三章 ~『事件発生と冤罪』~
しおりを挟む朝の光が窓から差し込み、雪華はゆっくりと目を覚ます。静寂を破るような鳥のさえずりを聞きながら体を起こすと、昨日行われた展示会の興奮がまだ残っており、胸の奥がじんわりと熱を帯びていた。
(夢に一歩近づきましたね)
身支度を整えて、画房に向かう雪華の足取りは軽い。展示会のおかげで雪華の評判は広がり、『才能ある画師』として定着したからだ。
口元が緩むのを抑えながら、雪華は回廊を進む。すれ違う女官たちが初対面にも関わらず、微笑みかけてくれるのも、展示会での結果があってこそだ。
(正式に女官になったのは正解でしたね)
自らの選択は正しかったと再認識した雪華は、画房の前まで辿り着く。いつものように元気良く扉を開くと、そこに広がっていたのは非日常の光景だった。
画房の中を宦官たちが慎重な手つきで調査していた。机の上に置かれた筆や墨を入念に確認している。
時折、低い声で指示を交わす声が響き、そのたびに張り詰めた空気が一層重くなっていった。
(……何が起きたのでしょうか?)
雪華は周囲を見渡すと、取り調べを受けている紫蘭の姿を見つける。険しい顔つきで、眼の前に座る宦官を睨んでおり、普段の落ち着きある態度を完全に失っていた。
「紫蘭様!」
雪華が声をかけると、紫蘭の顔に華が咲いたような笑顔が浮かぶ。その声に反応して取り調べをしていた宦官も振り返る。その人物は雪華のよく知る男であり、礼房で働く静慧だった。
「雪華か……」
「静慧様、いったい何が起きているのですか?」
「実は昨晩、ある事件が起きてな。その事件の担当を俺がすることになった。そしてその容疑者として疑われているのが紫蘭だ」
つまり宦官たちが画房を調査しているのは、事件の手がかりを得るためだと、静慧は語る。
「どのような事件が起きたのか聞かせてくれますね?」
「断るのは簡単だが、画房で働く雪華にも関係する話ではあるか……良いだろう。教えてやる。昨晩、方逸という男が毒殺された」
「ど、毒ですか……」
方逸は展示会にいた男で、紫蘭の元恋人でもある。その彼が命を落としたという現実に実感が湧かなかった。
「あ、あの、確かに紫蘭様は元恋人かもしれません。ですが、それだけで容疑者にするのは……」
「もちろん、理由はそれだけじゃない……昨晩、紫蘭は方逸の部屋を訪れている。さらに口論している声を聞いたやつもいる。疑うには十分すぎる根拠があるから容疑者になっているんだ」
「ほ、本当なのですか、紫蘭様?」
雪華が問いかけると、紫蘭は深く息を吸い込み、迷いのない声で答える。
「訪問と口論は事実よ。でも誓って殺してないわ。信じて、雪華!」
「もちろん信じます。だから事件当日、何が起きたのか話してください」
そこから無実の証拠を見つけられるかもしれない。そう伝えると、紫蘭は意を決したように口を開く。
「実は方逸から何度も復縁を求められていたの。私はその度に断ったけど、それでも諦めなくて……でも最後に一度だけ食事をしてくれれば、もう私のことは忘れるからと約束してくれたの」
「それで彼の部屋を訪れたのですね」
「ええ、でもその言葉を信じた私が愚かだったわ。彼は諦めるつもりなんてなかったの」
紫蘭は目を伏せると、膝の上で手を強く握りしめる。昨夜のことを思い出してか、苦々しい表情を浮かべる。
「食事を終えても、方逸は諦めるどころか、私がいないと生きていけないと縋り付いてきたわ。だから私はもう構わないで欲しいとはっきり伝えて、そこから口論になったの」
その時の大声を聞かれたのだろうと、紫蘭は続ける。静慧はそんな彼女の証言に耳を傾けながら記録を残していたが、整理を終えたのか重々しく口を開く。
「それで?」
「その後、すぐに部屋を出たわ。話しても無駄だと悟ったから……だから毒なんて盛ってないの。信じて!」
紫蘭の言葉が画房に反響する。縋るような声は嘘を吐いているようには思えなかった。
「あの、自殺ということはないでしょうか?」
雪華が問いかける。復縁を持ちかけたが、断られた悲しみで命を絶った。そう考えれば辻褄が合うからだ。
「俺は違うと思う。あの男をよく知っているが、振られたくらいで死を選ぶような奴ではない」
「私も同感よ。言葉が羽のように軽いから、私と復縁できないと生きていけないという言葉もただの脅し文句よ」
「そうですか……」
自殺でないなら、他殺ということになる。伝え聞く性格を考えると、方逸は遊び人のようだし、他に恨んでいる者がいてもおかしくはない。
「他に訪問者はいなかったのですか?」
「いない。あの部屋は壁が薄くて、来訪があれば、両隣の住人がすぐに気づくからな」
「では証言者たちが口裏を合わせている可能性は?」
「限りなく低いだろうな。なにせ動機がない。だが紫蘭には復縁を迫られたくないという動機がある」
「なるほど……事情は理解できました……」
紫蘭以外に部屋を訪れた者がおらず、被害者は自殺するような性格でもない。そして彼女には命を奪うだけの動機がある。疑われるのも仕方のない状況だった。
(なんとか無実を証明しないとですね)
心の中でそう誓っていると、外から大きな足音が響いてきた。画房の扉が勢いよく開かれ、踏み込んできたのは、以前、雪華と呂晃を無理矢理に結婚させようとした張狂だった。
緊張感に包まれる中、張狂はずかずかと歩み寄り、静慧の眼の前で立ち止まる。
「遅いぞ、静慧! なにをやっている!」
張狂は腕を組んで、大声で怒鳴りつける。だが静慧は怯まない。
「丁寧に取り調べをしているんだ。時間がかかるのは当然だ」
「そんな必要はない。状況証拠から見ても、犯人は紫蘭で決まりだ。さっさと、こいつを牢屋にぶち込んで、仕事を終わらせろ!」
早く帰りたいんだと、張狂は続ける。自分勝手な都合で犯人扱いする彼に反論するべく、雪華が口を開く。
「それは聞き捨てなりませんね」
「お、お前は、あの時の!」
雪華の顔を見て、張狂は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。妲己によって成敗された苦々しい記憶が蘇ったからだろう。
「紫蘭様が犯人だと決まったわけではありません」
「状況証拠を考えてみろ。この女が怪しいのは誰が見ても明らかだ」
「怪しいだけです。決定的な証拠はありませんよ」
「それはそうだが……」
張狂の喧嘩腰な態度に屈することなく、雪華は一歩前へ出る。
「紫蘭様は将来有望な画師として後宮に招かれています。もしこれが冤罪だった場合、その責任は重大です。それでも尚、張狂様は証拠もないのに紫蘭様が犯人だと決めつけますか?」
「そ、それは……」
もし冤罪なら責任を負う覚悟があるのかと、雪華は問う。詰め寄られた張狂は一瞬口を開け、声が詰まったように黙り込む。室内に沈黙が訪れる中、彼の表情には動揺が浮かんでいた。
「お、俺はこの事件の担当じゃない。責任者は静慧だ。だから……後は任せた!」
その言葉だけ残すと、張狂は早足にその場を去る。彼の後ろ姿が画房から消えると、空気の重さだけが残る。そんな中、静慧は眉間に皺を寄せながら口を開いた。
「同僚が迷惑をかけたな」
「いえ……」
「ただあいつの言う事にも一理ある。現時点で決定的な証拠はないが、状況だけなら紫蘭が犯人で決まりだからな」
紫蘭はその言葉に反応して顔をあげるが、反論する余裕はないのか黙り込んでいた。だが瞳で『私は犯人ではない』と訴えている。
静慧はその視線を受け止め、柔らかな口調で言葉を重ねる。
「だからこそ無実を証明するためには、真犯人の特定が必要だ」
「なら私に殺害現場を見せてくれませんか?」
雪華が提案すると、まっさきに驚いたのは紫蘭だった。
「雪華、どうしてあなたが?」
「同僚のピンチですから。助けたいのです。それに容疑者の紫蘭様では殺害現場を調査する許可を与えられないでしょうから……」
当事者だと証拠隠滅の恐れがある。実際にするとは思っていないが、不要な疑いを招かないためにも紫蘭が現場を訪れるべきではない。
「どうでしょうか、静慧様?」
「分かった。雪華なら許可しよう」
「本当ですか!」
「雪華の観察力は頼りになるからな。それに……雪華が困っているなら、なるべく便宜を図って欲しいと太妃様からも頼まれている」
「妲己様が……」
「もちろんこれは贔屓ではない。太妃様が働きぶりを評価したからこそだ」
実力で勝ち取った優遇だと、静慧は補足する。それでも雪華は妲己に心の中で感謝を送り、紫蘭を見据える。
「必ず、無実の証拠を見つけてきます」
「雪華……頼んだわ」
紫蘭は目を潤ませながら、震える声で呟く。雪華は期待に応えてみせると、強い決心を抱くのだった。
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