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第9話

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「一体ここはどこなんだ?」

 白濁していた意識が戻るなり、宗鉄は上半身だけを起こして開口一番そう呟いた。

 無性に暑苦しくて汗の流出が止まらない。

 それに頭痛も残っている。

 頭を働かせようと努力するほどに頭痛が激しくなっていくようだ。
 それでも宗鉄は考えずにはいられなかった。

 こんなことが現実にありうるのだろうか。

 先ほどまで源内の屋敷があった神田白壁町にいたはずなのだが、今では視界一杯にこれまで見たことのない異様な光景がどこまでも広がっている。

 宗鉄は首を柔軟に動かして周囲を見渡した。

 視界に映る光景の中には大勢の庶民が住まう長屋もなければ様々な物品を取り扱っていた表店もなく、神田小川町などに点在していた武家屋敷もなければ門内に土井大炊頭の屋敷があったために『大炊殿橋』と呼ばれた神田橋もなかった。

 となると当然、人間の姿など望むこともできない。

 小石を蹴れば必ず当たった行商人や町人、粗暴な振る舞いが目立った素浪人や奉行所に勤める役人の姿もなく、どんなに眼を擦っても目に映るのは艶紅を塗りたくったような色をした奇怪な地面のみ。

 その他にも若草色をした名も知らぬ草や箪笥のような形をした岩山などが多く見受けられたが、それらの光景を見れば見るほど頭が混乱してくる。確実に江戸にはなかった光景だ。

 取り敢えず宗鉄は背中と尻に付着していた砂を払い落としながら立ち上がった。

「困った。これは非常に困ったぞ」

 両腕をしっかりと組んだ宗鉄は首を捻りながら唸る。

「屋台や行商人がいなければどこで昼餉を取ればいいんだ?」

 本来、考えることは昼餉の心配では絶対になかったが、わからないことを考えていても仕方がないと宗鉄は判断した。

 そしてこの奇妙な現実を何とか受け止めるため、先ほどから鳴っている腹の虫の機嫌を取ろうと考えたのである。

「んん!」

 そのとき、宗鉄は腹の虫のご機嫌取りよりも大事なことに気がついた。

「て、鉄砲! 俺の鉄砲はどこだ!」

 師である関内蔵助依信から関流の免許を頂戴した暁に、大金をはたいて購入した鉄砲が手元になかったのである。

 これは容易ならざる事態だった。

 宗鉄は「鉄砲!」と叫びながら右往左往し始めた。

 赤茶けた地面に這い蹲って首を左右に動かしてみるが、黒漆塗りの関流鉄砲の形すら発見できない。

 火薬や玉などは腰に巻いていた胴乱にすべて入っているが、肝心の鉄砲がなければ宝の持ち腐れだ。

 間延びした声で周囲に呼びかける宗鉄。そんなことをしたところで生命のない鉄砲が返事をするはずもないのだが、もしかすると何かしらの偶然が重なって鉄砲の場所が判明するかもしれない。

「ははは……なんてな」

 などと本気で考えるほど宗鉄は取り乱してはいなかった。

 そんな都合よい偶然が起こるはずもない。それどころか、この異様な場所に放置されたのは自分だけで、肝心の鉄砲は源内邸に転がっているのではないかと思い始めた。

「いやいやいや、もしかするとここは夢幻の世界かもしれん」

 宗鉄はぐっと拳を固く握り締めると、自分の頬に向かって思いっきり打ち込んだ。

 顔半分がぐにゃりと歪み、先ほど覚醒したばかりの意識が飛びかける。

 まずい、どうやら強く叩きすぎたようだ。ふらふらと酒に酔ったような千鳥足になった宗鉄は、あまりの眩暈の酷さに地面に両手をつけて四つん這いの状態になった。

 その後、しばらく四つん這いのまま体調の回復を待った宗鉄。やがて頭痛と眩暈と右頬の痛みが消えたのは、心臓の鼓動を百五十ほど数えたときだった。

 宗鉄はゆっくりと立ち上がり、こめかみの辺りを掌低で軽く叩く。

「う~む、どうやらここは夢幻の世界ではないらしい。ならば余計にわからん。

 どうして俺はこんな場所にいるんだ?」

 と、自問自答したときである。

 不意に強い風が吹き、前髪から垂れていた数本の髪の毛を激しく揺らした。

 着用していた鶯茶色の袖に烏羽色の袴もばたばたと音を鳴らす。

(くっ、何て凄まじい砂塵だ)

 咄嗟に顔面を腕で覆った宗鉄は、胸中で苦々しそうに呟いた。

 江戸の町でも突風が吹けば砂埃くらいは中空に舞ったが、ここの砂埃の量は江戸の町とは比較にならないほど多かった。

 不用意に目や口を開けていると堅い砂礫が容赦なく体内に侵入してくる。

 それに風の音も火薬の破裂音に負けず劣らぬ轟音だ。

 まるで間近で花火を観賞しているように振動が腹の底にまで伝わってくる。

 やがて身体を飛ばされるほどの脅威を感じた突風が弱まると、宗鉄の全身は見事に砂埃で汚れていた。

 上半身に着ていた袖は鶯茶色だったので特に目立たなかったが、漆黒の髪の毛と袴は酷い有様だった。

 髪の毛などは髷の中にまで細かな砂が入っており、これでは髷を解いて髪を洗わないと取れそうにない。

「参ったな。これでは湯屋も探さないと」

 宗鉄はぼりぼりと髪を掻きながらぼやいていると、不意にどこからか声が聞こえた。

「何だ?」

 風に乗って聞こえてくる声にじっと耳を澄まし、声の発生源を特定しようと意識を集中させた。

 どうやら件の声は三間(約五・四メートル)前方にあった茂みの中から聞こえる。

 足音を立てないように忍び足で茂みに歩み寄った宗鉄は、徐々に大きくなってくる声の正体を確かめようと茂みの中をそっと覗いた。

 そこには――。

「ぐるじい~、だれがだじげで~」

 茂みの中を覗いた途端、宗鉄は何度も瞬きをして声の持ち主を繁々と見つめた。

 苦しそうに声を発していたモノは、人間のようで確実に人間ではない存在であった。

 水色の髪を奇妙にうねらせた髪型に、小判よりも眩しく輝く黄金色の瞳。身体に着用していた襦袢のような衣服は、白雪色で上下一体式らしき珍しいものだった。

 そんな髪や瞳の色を除けば顔立ちや体型は人間の女性とまったく遜色がない。だが、絶対的に普通の人間とは違う部分が二つあった。

 まず一つめは背丈が恐ろしく小さすぎる。

 おそらく一尺(約三○センチ)にも満たないだろう。

 こんな小さな人間が世の中にいるはずはない。

 続いて二つめは背中に羽根が生えていることだった。

 しかもその羽根は鳥のような羽毛がついた羽根ではなく、蜻蛉や蝉などの背に生えているような透き通った羽根であったこと。

 それが合計で六枚だろうか。

 高速で動かしながら地面の砂を舞い上がらせている。

 そして、そんな小人がなぜ羽根を高速で動かしているのかというと……。

「ごれ、ほんどにまずいっで~。な、内臓が潰れじゃうよ~」

 一尺にも満たない小人は何と鉄砲の下敷きになっていたのである。

 宗鉄ははっと我に返ると、茂みを掻き分けて小人の前に躍り出た。

 小人は死に物狂いで背中の羽根を動かして鉄砲を退かそうと努力していたが、一貫(約三・七五キロ)近くある関流鉄砲はびくともしない。

 それ故に宗鉄は鉄砲を退けて小人の生命を救おうと考えたのである。

「待っていろ、今すぐ助けてやるぞ!」

 片膝をついた宗鉄は小人の生命を奪いかけていた鉄砲を摑み退けた。

 すると小人は砂塵を巻き上がらせながら空中高く飛び上がっていく。

 地面から一間(約一・八メートル)ほど飛んだ小人は、空中に静止しながら激しく咳き込んだ。

 どうやら間一髪で間に合ったようである。

 あの様子ならばひとまず生命の危険はなくなっただろう。

(ふむ、よかったよかった)

 などと満足気に頷いているのも束の間、やがて呼吸を整えた小人は背中から生えていた羽根を巧みに動かして宗鉄の眼前まで飛んできた。

 びいいいんと耳に残る羽音を響かせながら空中でぴたと静止する。

 次の瞬間、小人はきっと柳眉を吊り上げて怒声を上げた。

「この馬鹿ッ! 死ぬかと思ったじゃない!」

 体格とは打って変わった甚大な声量に宗鉄は軽い眩暈を覚えた。

 心なしか周囲の空気が震えたような気がする。

 それでも小人は宗鉄の事情などお構いなしに言葉を吐き続ける。

「まったく、もう少しで内臓が潰れて口からびゅっと出るところだったわ。あんたたち人間は死んでもまだ転生できる機会があるらしいけど、わたしたち妖精はそんな機会なんてこれっぽっちも与えられてないんだって。これって不公平だと思わない? わたしはとても思うわ。何でそんなに人間と変わらないわたしたちには転生する資格がないの? それでも転生する資格がない分だけ人間よりも寿命が長いからっていうのは理解しているつもり。でもね、単純に人間よりも長生きだからっていうのも考え物だと思うわけ。だってそうじゃない? わたしたちなんて人間よりも小さくて可愛くて空を飛べて色々な能力があるってだけのか弱い存在よ。そんなわたしたちを人間が放っておくはずないもの。実際に魔術師たちの間でわたしたちの心臓を食べれば不老不死になれるっていう噂が広まったことがあってね……まあ、結果的にはその魔術師たちも普通の人間に狩られちゃったんだけど――」

 などと小人は宗鉄の鼻先で延々と呪詛のように言葉を吐き続け、ようやく終了したのはどれほどの刻が経った辺りか。

「ふう~、たっぷり喋ったらすっきりした。何せ百数十年振りに封印が解けて現世に出てきたんだもの。これぐらい喋らないと溜まりに溜まっていた鬱憤は晴らせないわ」

 薄っすらと額に浮き出ていた汗を手の甲で拭った小人は、口を半開きにしたまま呆けている宗鉄の顔をじっと見つめた。

「それにしても封印を解いてくれた奴がまさか異国の人間とはね。黒髪黒瞳なんてどこの国の人間かしら? 楼蘭かな? それとも印度? あ、でももっと東のほうにも黒髪の人間が住んでいるって確か……」

 自分の顎先を摑んで小首を傾げている小人。

 その小人の話を無言で聞いていた宗鉄は、すっかり話しかける機会を失っていた。

 物珍しいことも大いにあったが、それ以上に宗鉄は小人の容姿にすっかり魅了されていたのである。
 
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