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第32話

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「何だ今の音は?」

 耳をつんざく異様な音を聞いてウィノラは飛び起きた。

 当然である。

 巨音と同時に地面を大きく揺るがす強震まで起こったとなると、地面に御座を敷いて寝ていた人間が起きないわけがない。

 だからこそウィノラは慌てて目を覚ますと、自分の住まいであったテルピから血相を変えて外に飛び出した。

 周囲を見渡してみると、自分と同じく異変に気づいた人間たちが右往左往しながらテルピから飛び出して来る姿があった。

 口々に皆は再び盗賊団が襲撃をかけてきたと慌てふためいたが、ウィノラ自身そうは思わなかった。

 盗賊団が襲撃してきたのならば、地面を揺るがすほどの強震が起こるはずもない。

 それに耳朶を激しく叩いた轟音の正体も依然として不明だった。

 まるで巨大な鉄槌で何かが破壊されたような音だったが。

 ともかくウィノラはすぐに行動を起こした。

 自分の勘を頼りに音が響いてきたと思われる場所に向かって疾駆する。

 やがてウィノラが足を運んだ場所は正面入り口の広場だった。

「これは……」

 だが目的の場所に辿り着いた途端、ウィノラは大きく瞠目した。

 まず視界に飛び込んできたのは、見張り役だった人間たちの異様な死体だった。

 頭部から上半身を吹き飛ばされた死体や、逆に下半身を吹き飛ばされた無残な死体が所々に散乱している。

 その死体から漂ってくる内腑の匂いにウィノラは顔をしかめた。

 酸鼻な血臭や便の匂いが想像以上に酷い。

 ウィノラは咄嗟に口元を覆い隠したが、それでも完全に匂いは防げなかった。

 ウィノラは込み上げてくる吐き気を抑えて足と目を動かす。

 無残な屍と化した人間たちの間を突き進みながら、ウィノラは何とかしてこの異常な事態を引き起こした原因を突き止めようと努力した。

 が、いくら歴戦の戦士であろうとこの有様を直視して正気を保つなど不可能に近かっただろう。

 戦士ですらないウィノラならばなおさらである。

 十数歩進んだところでウィノラは地面に縫いつけられたように足を止めた。

 いや、自ら足を止めたのではない。肉体がウィノラの精神を気遣って足を止めたのである。

 直後、ウィノラはがくりと膝を落として地面に蹲った。

 想像以上に現場の雰囲気に中てられたウィノラは、ついに堪えきれずにその場に勢いよく嘔吐した。

 夕餉に食べた物をすべて吐きつくし、やがて黄色い胃液しか出なくなってもウィノラは嘔吐を繰り返した。

 それほど現場は壮絶な修羅場だったのである。

 どのくらい経っただろうか。

 胃の中に入っていた消化される前の食べ物をすべて吐き尽くしたウィノラは、涙のせいで二重にぼやける双眸でふと前方の光景を見やった。

 いつの間にか、一人の人間が目の前に佇んでいた。

 無造作に伸ばした蓬髪に目元を覆い隠す珍しい兜。

 身体各要所に装着された金属製の鎧の鎧の隙間から覗いていた肉体は幾重にも重ねた岩肌のよう。

 そしてその岩肌にはこれまでの人生を忠実に物語る無数の戦傷が刺青のように刻まれていた。

「き……貴様」

 目の前に佇む人間に射るような視線を向けるウィノラ。

 間違いなく目の前の人間は二度も集落を襲撃した盗賊団の一人であろう。

 しかもただの一員ではない。

 全身に装着している鎧や右手に携えている長大な弓矢を見れば誰であろうと判断できる。

(こいつは頭目だ!)

 血が滲むほど奥歯を軋ませると、ウィノラは行動を拒否している肉体を叱咤した。

 常に腰巻に差している短剣を抜き、柄頭の部位で自分の膝を殴打したのだ。

 次の瞬間、ウィノラは痛みに顔を歪めながらも立ち上がった。

 それだけではない。

 ウィノラは立ち上がるなり、腰巻から引き抜いた短剣を目の前に佇む人間の首元目掛けて突き放った。

 いくら身体各要所を金属の鎧で保護していようが、間近でよく見ればつけ入る隙は見当たるものだ。

 現に頭目と思われる男は、人間の急所中の急所とも呼ぶべき喉は保護していなかった。

 だからこそウィノラは意を決して喉を短剣で突いたのだ。

 しかし――。

「なッ!」

 ウィノラは大きく目を見張った。

 頭目の男――ドゥルガーは無言でその場に佇み続けた。

 ウィノラの突き放った短剣の切っ先が喉元に食い込んでいるのにも関わらずである。

 しかも短剣が食い込んだ喉元からは一滴の血も流れず、ドゥルガーは苦痛を感じている表情すら浮かべていなかった。 

 異常であった。

 明らかにドゥルガーは普通ではない。そう思ったとき、ウィノラは喉元から一気に短剣を引き抜き、今度は身体ごと回転して横薙ぎに短剣を一閃させた。

 ウィノラの短剣は虚空に一条の光を発しながら、ドゥルガーが装着していた兜を弾き飛ばした。

 すると、さすがのドゥルガーも平衡感覚を崩して一、二歩後退する。

(手応えはあった……あったが)

 さすがに兜を短剣で切りつけたのは無理があった。

 結果的には相手の兜を弾き飛ばすことに成功したものの、切りつけた短剣自体も大きく刃毀れして手元から飛んでいってしまったのだ。

 それでもウィノラは臆さずにドゥルガーを睨みつけた。

 たとえ短剣がなくなっても自分にはまだクアトラがいる。

「出て来い、クアトラ! そして予備の短剣を――」

 とクアトラを自分の影の中から呼び出そうとしたウィノラだったが、ドゥルガーと視線が重なるや否や思わず息を呑んだ。

「ガギゴ……イドンガヒラ……シグテル」

 意味不明な単語を呟き始めたドゥルガーの瞳が、左右とも違う色だったのである。

 断じて見間違いではなかった。

 広場を照らしている篝火の炎によりはっきりと視認できたのだ。

 信じられなかった。

 まさか目の前にいるドゥルガーこそ、長年自分が恨み続けていた部族の仇……。

「うああああああああ――――ッ!」

 仇と判断した途端、ウィノラは雄叫びを発しながら殴りかかった。

 無論、クアトラから予備の武器を受け取るなど頭から消えてしまっている。

 自分を拾ってくれた部族を二度に渡って襲撃した盗賊団の頭目が、十二年前にウィノラ一人を除いてアンカラ族を根絶やしにした盗賊団の一人だったのだ。

 一気に頭が空白に染まり、無我夢中に行動を起こすのも仕方ない。

 だがいくらウィノラでもたった一人、ましてや素手で立ち向かうなど愚行以外の何でもなかった。

 現にウィノラの拳はドゥルガーの身体に掠りもしなかった。

「ギグルハガハジャガガ!」

 呆然と佇んでいた先ほどとは打って変わり、ドゥルガーはウィノラの拳をあっさりと摑み取った。

 それどころかドゥルガーはウィノラの拳を摑み取ると、そのままウィノラを片腕だけで投げ飛ばしたのだ。

 悲鳴を上げることもできずに空中を飛んだウィノラは、やがて粉々に砕け散っていた見張り櫓の一角に激しく衝突した。

 砂塵とともに木片が周囲に飛散する。

(何だあの力は……)

 ウィノラは一瞬、自分の身に起こった出来事を理解できなかった。

 たとえ力自慢の筋骨隆々とした男だろうと、大人の女を片腕で投げ飛ばすなど到底不可能である。

 しかも飛んだ距離は信じられないほど長かった。

 外の世界で言えば十メーデほどは飛んだだろうか。

 人間とは思えない膂力に得も言われぬ恐怖を感じながらも、木片に半ば埋もれていたウィノラは渾身の力を振り絞って立ち上がる。

 だが、頭の中で太鼓を叩かれているかのように頭痛が激しい。

 おそらく、見張り櫓に衝突した際に頭部を打ちつけてしまったのだろう。

 震える手で違和感があったこめかみの部位にそっと触れてみると、ぬるりとした血が指先に付着した。

 これはまずい。思いのほか頭部からの出血が激しいことにウィノラは青ざめた。

 頭部の負傷は運動障害を引き起こすばかりか、一歩間違えれば生命すらも危なくなる。

 それは医術にも詳しい祈祷師のキーンズも説いていた。

 無茶を勇敢だと錯覚しがちな若い時分だからこそ一人一人が自分の身体を労わる意志と知識を身につけろ、と。

 だからといって、この状況で自分の身を労われと言うのも酷な話だった。

 なぜなら、遠くのほうに見えていたドゥルガーに動きがあったからだ。

 右手に携えていた長大な弓矢を水平に掲げ、すでに番えられていた金属製の矢の先端をこちらに向ける。

 そのとき、ウィノラの黒瞳は確かに捉えていた。

 ドゥルガーが長大な弓矢を構えた直後、宵闇よりも濃密な黒い霧がドゥルガーの全身を包んでいく異様な姿を。
 勿論、ウィノラには黒霧の正体など寸毫もわからなかった。

 ただ周囲の空気が徐々に張り詰めていき、確実にこのままでは自分が射殺される現実だけは理解できた。

(くそっ、ここまでなのか……)

 俊敏な動きが不可能だった今の自分を恨みながら、ウィノラは血が滲むほど下唇を噛み締めた。

 ようやく部族を根絶やしにした仇の正体を突き止めたというのに、その仇に殺されるなど死んでも死にきれない。

 せめて他の誰かが仕留めてくれるよう、一太刀だけでも身体に傷を負わせたかった。

 ただ、どうやらそれも無理らしい。

 ドゥルガーは勝利を確信したかのように奇声を発すると、全身から大気を鳴動させるほどの禍々しい殺気を放射した。

 そればかりか、そんな殺気と呼応するように黒霧が長大な弓矢に汚泥のように纏わりついていく。

 ウィノラはそんな奇異な光景を目にしつつ、仇を討てずに今まで生き長らえたことを部族の皆に胸中で謝った。

 そしていまさら何をしても徒労に終わるのならば、視線だけは絶対に逸らさないとウィノラは心中で固く誓った。

 敵に背を向けることは戦士にとって部族を中傷する行為に値するからだ。

 しかし、ウィノラの身体に矢が突き刺さることはなかった。

 今にも矢を放とうとしていたドゥルガーが、獣の咆哮よりも猛々しい雷鳴音が響いたと同時に大きく後方に吹き飛んだのだ。

 その瞬間、ウィノラは酷く緩慢に見えた世界でドゥルガーの頭部から鮮血と脳漿が飛び散る光景も目にしていた。

 予想もしていなかった事態である。

 それこそ、ウィノラは自分の死をはっきりと意識していた。

 だが、それは確固たる現実の光景であった。

 遠目からでも確認できるほど地面に転倒したドゥルガーはぴくりとも動かない。

 しばしの沈黙後、ウィノラは顔だけを後方に振り向かせた。

 件の甲高い音は自分の後方から響いてきたのである。

「間一髪とはまさにこのことだな」

 振り返るなり視界に飛び込んできたのは、上半身の衣服が千切れてたおやかな肉体が覗いていた宗鉄の姿だった。
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