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2 ちいき課と看板
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事務机に貼られた付箋の多さに、呉谷幸治はため息も出なかった。
先月、入ってきたばかりの事務員の女性はやたらカラフルな付箋を使いたがる。
せっかく5色もあるのだから、内容や緊急性の有無で使い分けてくれればいいのに、と彼は思った。
たまたま目についたその一枚を覗き込むと、
〈東公園、入り口の看板が破損、直してほしい〉
と書いてある。
この種の要望はいくらでも舞い込んでくる。
おかげでちいき課の存在意義が保たれ、幸治も仕事に困らなくて済むのだが、この内容なら土木建設課が専門だろう。
公園の案内にも連絡先が書いてあるハズなのだ。
「あ、呉谷さん、おはようございます」
奥からふわりとした声で、事務の女がやって来た。
「おはようございます。昨日は大変だったみたいですね」
幸治は自分の机を指差して言った。
十数枚の付箋は左上から受け付けた順に貼られているようだった。
「N町からの電話ばかりでしたよ。ほんとはその3倍くらいあったんですから」
事務員はにこにこしながら言う。
音無可憐というこの女は、名前のとおりおっとりしている。
物腰が柔らかいので電話や来客の応対に適していると、ちいき課の窓口を担っている。
独特の声質と間の取り方がどう作用するのか、怒鳴り込んでくる区民も彼女に応対されると知らぬ間に怒りが治まるらしい。
そういうワケだから、本来なら別部署に行くべきクレームも、話がしやすいということで音無宛てに集まってきてしまう。
「人員が限られていますからね。僕たちも別にN町を後回しにするつもりはないんですけど、優先順位を考えるとどうしても……」
音無は幸治よりもかなりの年少だが、彼は慇懃な言葉遣いに努めた。
もとより年齢で上下が決まるとは考えていないし、あまりフレンドリーに接しては公私の区別がつかなくなってしまう。
彼女は既婚者の幸治から見ても魅力的だった。
妻の美子もミサキが生まれるまでは、音無に劣らぬ穏やかな人柄だった。
あまり距離を縮めてしまうと彼女にかつての美子を重ねてしまいそうで、幸治は事務的な口調を心がけている。
「田沢さんと野瀬さんはもう出られましたよ」
幸治がスケジュールを確認していると音無が申し訳なさそうに言う。
「どこに向かうか聞いていますか?」
「田沢さんがP町のごみ置き場の件で、野瀬さんはボランティア団体と一緒に活動内容の打ち合わせだそうです」
「逃げたな……」
幸治は呟いた。
そろそろ放ったらかし同然のN町に向かわなければ、と考えていた矢先に、同僚が不在では幸治が行かないワケにはいかない。
要望は何件も届いているというから、これ以上引き延ばせば職務怠慢ということになる。
「じゃあ僕、行ってきますよ」
音無からリストを受け取り、幸治は事務所を出た。
正直、気が重かった。
町民からは無視を決め込んでいる、と思われてもしかたがない。
今頃なんだと町民に怒鳴られはしないか、と彼は悪いほうへと考えてしまう。
が、これは杞憂に終わった。
苦情や要望を受け付けた際に住所と名前を控えているのだが、複数回名前が挙がっている人の元へ伺うと、感じの良さそうな老人だった。
「もう来てくれんのかと思いましたわ」
言葉に少し訛りのあるこの老人は、杖を片手に幸治を出迎えた。
「申し訳ありません。他の案件が立て込んでいたもので」
「そら、何回も電話して悪かったねえ。分かりにくいところもあるから、どこを直してほしいか案内しますわ」
そう言って老人は外に出た。
杖なしでは歩けないようだったが歩調は速く、足腰もしっかりしているように見えた。
「ここですわ、ここ。この看板」
公園に着くなり、彼は杖の先で入口近くの看板を指した。
「ああ、これは……」
幸治は唸った。
よくあることだ。
公園での禁止事項や利用者へのお願いを記した看板が、引き裂いた紙のように破れている。
木製とはいえ劣化しないよう防護処理も施しており、自然にこうなったとは考えられなかった。
「ちょうどここの、ボール遊び禁止の部分が削れておるでしょ。だからそこらの子どもらがボールで遊んでもいいと勘違いしとるんですな」
「うむ……」
それはちがうな、と幸治は思う。
破損の具合から見て、野球ボールのようなものをかなりの力でぶつけて壊しているにちがいなかった。
落雷でもない限りこんな壊れかたはしない。
(わざとだ)
心無い者のいたずらである。
それが大人か子どもかは明らかではないが、公共のものを粗末に扱う輩の仕業だ。
「これは早急に直さなければいけませんね。おじいさん、もしかして危ない目に遭ったりしていませんか? ボールが飛んできて怪我をしたとか……」
「そんなもん打ち返してやりますわ」
老人は大笑した。
「でも気を付けてくださいね。軽い怪我でも後で重くなることもありますから」
幸治は看板根元の管理番号をメモした。この番号を土木建設課に見せれば同じものを手配してくれる。
彼はちらっと左右を見た。
この公園はほぼ正方形で、東西をアパートと戸建てに挟まれる格好だ。
問題は残る二辺が車道に面していることだ。
囲いはそう高くなく、入り口も広く設計されているのでボールが飛び出すおそれがある。
いくつかのベンチに健康遊具や小さな池まである。
となればそれらを利用する人もいるハズで、たしかにここをボールが飛び交うのは危険だった。
「今日の夕方、あらためて建設課の担当を連れてきます。そこで状況を見つつ同じものでよいか、丈夫な材質のものにするか検討します」
「よろしく頼んますわ」
老人はていねいに頭を下げた。
この後、幸治は事務所と連絡を取りながらいくつかの案件を処理していった。
内容としては信号機の歩行者側の待ち時間が長いとか、庭の木にカラスが巣を作ったのをどうにかしてくれ、といった対応できないものも多かった。
そういう場合でも意見を寄せてくれた、ということで訪問する。
できないことはできない、とはっきり答えるのも仕事のうちだ。
それら案件の中に、ひとつ気になるものがあった。
〈野良猫を駆除してほしい〉
という要望が3件ほど入っていた。
いずれもN町からで、電話をかけてきたのは高齢者、30代の主婦、小学生だった。
幸治は午前中いっぱいかけて町を回ったが、猫の姿をまったく見ていない。
昔は野良猫や野良犬があちこちにいたものだが、人間以外で目につく生物といえば、スズメやハト、昆虫くらいである。
(野良猫なんていないじゃないか)
幸治は安堵した。
先月、入ってきたばかりの事務員の女性はやたらカラフルな付箋を使いたがる。
せっかく5色もあるのだから、内容や緊急性の有無で使い分けてくれればいいのに、と彼は思った。
たまたま目についたその一枚を覗き込むと、
〈東公園、入り口の看板が破損、直してほしい〉
と書いてある。
この種の要望はいくらでも舞い込んでくる。
おかげでちいき課の存在意義が保たれ、幸治も仕事に困らなくて済むのだが、この内容なら土木建設課が専門だろう。
公園の案内にも連絡先が書いてあるハズなのだ。
「あ、呉谷さん、おはようございます」
奥からふわりとした声で、事務の女がやって来た。
「おはようございます。昨日は大変だったみたいですね」
幸治は自分の机を指差して言った。
十数枚の付箋は左上から受け付けた順に貼られているようだった。
「N町からの電話ばかりでしたよ。ほんとはその3倍くらいあったんですから」
事務員はにこにこしながら言う。
音無可憐というこの女は、名前のとおりおっとりしている。
物腰が柔らかいので電話や来客の応対に適していると、ちいき課の窓口を担っている。
独特の声質と間の取り方がどう作用するのか、怒鳴り込んでくる区民も彼女に応対されると知らぬ間に怒りが治まるらしい。
そういうワケだから、本来なら別部署に行くべきクレームも、話がしやすいということで音無宛てに集まってきてしまう。
「人員が限られていますからね。僕たちも別にN町を後回しにするつもりはないんですけど、優先順位を考えるとどうしても……」
音無は幸治よりもかなりの年少だが、彼は慇懃な言葉遣いに努めた。
もとより年齢で上下が決まるとは考えていないし、あまりフレンドリーに接しては公私の区別がつかなくなってしまう。
彼女は既婚者の幸治から見ても魅力的だった。
妻の美子もミサキが生まれるまでは、音無に劣らぬ穏やかな人柄だった。
あまり距離を縮めてしまうと彼女にかつての美子を重ねてしまいそうで、幸治は事務的な口調を心がけている。
「田沢さんと野瀬さんはもう出られましたよ」
幸治がスケジュールを確認していると音無が申し訳なさそうに言う。
「どこに向かうか聞いていますか?」
「田沢さんがP町のごみ置き場の件で、野瀬さんはボランティア団体と一緒に活動内容の打ち合わせだそうです」
「逃げたな……」
幸治は呟いた。
そろそろ放ったらかし同然のN町に向かわなければ、と考えていた矢先に、同僚が不在では幸治が行かないワケにはいかない。
要望は何件も届いているというから、これ以上引き延ばせば職務怠慢ということになる。
「じゃあ僕、行ってきますよ」
音無からリストを受け取り、幸治は事務所を出た。
正直、気が重かった。
町民からは無視を決め込んでいる、と思われてもしかたがない。
今頃なんだと町民に怒鳴られはしないか、と彼は悪いほうへと考えてしまう。
が、これは杞憂に終わった。
苦情や要望を受け付けた際に住所と名前を控えているのだが、複数回名前が挙がっている人の元へ伺うと、感じの良さそうな老人だった。
「もう来てくれんのかと思いましたわ」
言葉に少し訛りのあるこの老人は、杖を片手に幸治を出迎えた。
「申し訳ありません。他の案件が立て込んでいたもので」
「そら、何回も電話して悪かったねえ。分かりにくいところもあるから、どこを直してほしいか案内しますわ」
そう言って老人は外に出た。
杖なしでは歩けないようだったが歩調は速く、足腰もしっかりしているように見えた。
「ここですわ、ここ。この看板」
公園に着くなり、彼は杖の先で入口近くの看板を指した。
「ああ、これは……」
幸治は唸った。
よくあることだ。
公園での禁止事項や利用者へのお願いを記した看板が、引き裂いた紙のように破れている。
木製とはいえ劣化しないよう防護処理も施しており、自然にこうなったとは考えられなかった。
「ちょうどここの、ボール遊び禁止の部分が削れておるでしょ。だからそこらの子どもらがボールで遊んでもいいと勘違いしとるんですな」
「うむ……」
それはちがうな、と幸治は思う。
破損の具合から見て、野球ボールのようなものをかなりの力でぶつけて壊しているにちがいなかった。
落雷でもない限りこんな壊れかたはしない。
(わざとだ)
心無い者のいたずらである。
それが大人か子どもかは明らかではないが、公共のものを粗末に扱う輩の仕業だ。
「これは早急に直さなければいけませんね。おじいさん、もしかして危ない目に遭ったりしていませんか? ボールが飛んできて怪我をしたとか……」
「そんなもん打ち返してやりますわ」
老人は大笑した。
「でも気を付けてくださいね。軽い怪我でも後で重くなることもありますから」
幸治は看板根元の管理番号をメモした。この番号を土木建設課に見せれば同じものを手配してくれる。
彼はちらっと左右を見た。
この公園はほぼ正方形で、東西をアパートと戸建てに挟まれる格好だ。
問題は残る二辺が車道に面していることだ。
囲いはそう高くなく、入り口も広く設計されているのでボールが飛び出すおそれがある。
いくつかのベンチに健康遊具や小さな池まである。
となればそれらを利用する人もいるハズで、たしかにここをボールが飛び交うのは危険だった。
「今日の夕方、あらためて建設課の担当を連れてきます。そこで状況を見つつ同じものでよいか、丈夫な材質のものにするか検討します」
「よろしく頼んますわ」
老人はていねいに頭を下げた。
この後、幸治は事務所と連絡を取りながらいくつかの案件を処理していった。
内容としては信号機の歩行者側の待ち時間が長いとか、庭の木にカラスが巣を作ったのをどうにかしてくれ、といった対応できないものも多かった。
そういう場合でも意見を寄せてくれた、ということで訪問する。
できないことはできない、とはっきり答えるのも仕事のうちだ。
それら案件の中に、ひとつ気になるものがあった。
〈野良猫を駆除してほしい〉
という要望が3件ほど入っていた。
いずれもN町からで、電話をかけてきたのは高齢者、30代の主婦、小学生だった。
幸治は午前中いっぱいかけて町を回ったが、猫の姿をまったく見ていない。
昔は野良猫や野良犬があちこちにいたものだが、人間以外で目につく生物といえば、スズメやハト、昆虫くらいである。
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