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2 ちいき課と看板
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5月も中旬になると陽が長い。
定時で上がれるサラリーマンがそろそろ帰路につく時分。
幸治は建設課の赤座という女をともなってN町に戻ってきた。
彼女は公園やその周辺の道路を担当する古参で、経験も豊富だ。
仕事でのミスもほとんどしないし、他部署への伝達もスムーズに行う。
事務所からも区民からも評判が良かったから、幸治は彼女に声をかけたのだった。
「すみません、こっちの仕事なのに」
赤座は何度も頭を下げた。
「電話もなかったので問題はないと思ってました。それで巡回も怠っていたようです。完全に私たちの落ち度です」
「いえ、僕のほうこそ。以前から問い合わせがあったのを放置してましたから。すぐに建設課に回していればよかったんですよね」
「定期的に点検して回るように提案しますね」
自分たちのミスであると認めたうえで、いつまでも思い悩んだりしないのが赤座の長所だった。
くよくよするくらいなら、それを反省して次につなげる。
この切り替えの早さと積極性が評価を得ている理由だ。
「ひどいですね……」
着くなり赤座が言った。
しかし彼女は看板を見て言ったのではない。
「朝はこんな状態じゃなかったんですけどね」
幸治は公園内を見回した。
あちらこちらにゴミが散乱していた。
アイスクリームや駄菓子の空き袋がほぼ数メートルおきに落ちている。
それらをまとめて入れていたらしいビニル袋もすべり台の下で揺れていた。
「危ないなあ」
幸治は半分砂に埋まっている串を見て言った。
色のせいで見分けがつきにくくなっているが、割り箸も何本か転がっているようだ。
それを拾おうとした赤座を幸治が止めた。
「キリがないですよ。それに僕たち、何も持ってませんし」
「でも……」
「今日はこれを見に来たんですから、ゴミ問題は後日に考えましょう」
幸治は看板を指差した。
破損具合や根元の腐食など、建設課ならではの目線で状況を確認した赤座は、憮然として息を吐いた。
「経年が原因ではないですね」
そんなことは僕でも分かる、と幸治は言いそうになった。
「これなら予備があるので、すぐにでも設置できますが……」
赤座は唸った。
「壊されるために設置するのはためらいますね」
「どういう意味ですか?」
「これ、金属の棒か何かで叩き割った跡ですよ。板は二重に張ってますから、ボールが当たったくらいじゃこうはなりません。ボウリングの球ならできるでしょうけど」
本来なら被害届を出してもいい、と彼女は言った。
いつ壊されたかも分からないし、犯人が捕まるハズがないと幸治は考えるのだが、赤座の気持ちはよく分かっていた。
「でも放置というのもマズいですよ。電話をくれたおじいさんに僕、すぐに直しますって約束しましたし」
「ええ、ではとりあえず予備で対応しましょう」
赤座の胸中は複雑だった。
大切に扱えば10年以上は持つ看板だ。
それを意図的に壊されたとあっては、自分たちの仕事の邪魔をされているようで気分が悪い。
そもそも物を大事に扱わないこと自体、生真面目な彼女には理解できなかった。
2人は念のため他に問題はないか、公園を見て回った。
ベンチにひび割れはないか、遊具に瑕疵はないか。
こればかりは幸治だけでは分からなかったから、赤座に頼りきりになる。
「特に何もないようですね――」
と、言いかけた幸治の目が泳いだ。
植え込みに何かがいる。
草に隠れて小さな双眸がきらりと光った。
「あ、かわいい!」
少し遅れてそれに気付いた赤座は、そっと屈みこんだ。
「猫ですよ、それ?」
幸治は無意識に二、三歩退いていた。
植え込みからチョコンと顔を出しているのは黒猫だ。
伏せたままの姿勢で顔だけ出しているようで、表情には分からないものの近寄ってきた人間を怪しむように見上げている。
「猫はね、目を見るとケンカの合図になるんですよ。だからもし目が合ったらゆっくりまばたきするといいんです」
「見ませんよ、そんなの」
言うより先に彼は顔をそむけていた。
「どこから来たの? ここで寝てるの?」
赤座は猫撫で声で言った。
黒猫のほうはそんな赤座をじっと見つめていたが、彼女がいっこうにいなくならないので、のっそりと立ち上がってどこかへ行ってしまった。
「あらぁ……」
名残惜しそうに後ろ姿を見送る赤座。
幸治はほっと息をついた。
「猫、好きなんですか?」
「猫、嫌いなんですか?」
2人が同時に問うた。
あっ、と声を漏らして幸治たちは笑った。
「だって、かわいいじゃないですか。小さいし、丸っこいし、かまってほしそうにするけど、遊んであげると急に怒ったりするところも……」
猫の魅力を語る赤座は、つい先ほどまでの仕事のできる建設課の顔を完全に捨て去っている。
頬もゆるみっぱなしで、身振り手振りで幸治に共感を求めた。
だが彼はというと、
「猫とか、犬もダメですね。意思疎通ができないというか、何を考えてるか分からないじゃないですか。次にどういう行動に出るか分からないところなんかが特に苦手なんですよ」
こちらも誰からも愛されるちいき課の仮面が剥がれ、嫌悪感を隠しもしない呉谷幸治になっていた。
「そうですか? かわいいのに……」
赤座はかわいいを連呼した。
「さあ、もう帰りましょう。早く戻って報告書を書かないと」
幸治は逃げるように公園を出た。
定時で上がれるサラリーマンがそろそろ帰路につく時分。
幸治は建設課の赤座という女をともなってN町に戻ってきた。
彼女は公園やその周辺の道路を担当する古参で、経験も豊富だ。
仕事でのミスもほとんどしないし、他部署への伝達もスムーズに行う。
事務所からも区民からも評判が良かったから、幸治は彼女に声をかけたのだった。
「すみません、こっちの仕事なのに」
赤座は何度も頭を下げた。
「電話もなかったので問題はないと思ってました。それで巡回も怠っていたようです。完全に私たちの落ち度です」
「いえ、僕のほうこそ。以前から問い合わせがあったのを放置してましたから。すぐに建設課に回していればよかったんですよね」
「定期的に点検して回るように提案しますね」
自分たちのミスであると認めたうえで、いつまでも思い悩んだりしないのが赤座の長所だった。
くよくよするくらいなら、それを反省して次につなげる。
この切り替えの早さと積極性が評価を得ている理由だ。
「ひどいですね……」
着くなり赤座が言った。
しかし彼女は看板を見て言ったのではない。
「朝はこんな状態じゃなかったんですけどね」
幸治は公園内を見回した。
あちらこちらにゴミが散乱していた。
アイスクリームや駄菓子の空き袋がほぼ数メートルおきに落ちている。
それらをまとめて入れていたらしいビニル袋もすべり台の下で揺れていた。
「危ないなあ」
幸治は半分砂に埋まっている串を見て言った。
色のせいで見分けがつきにくくなっているが、割り箸も何本か転がっているようだ。
それを拾おうとした赤座を幸治が止めた。
「キリがないですよ。それに僕たち、何も持ってませんし」
「でも……」
「今日はこれを見に来たんですから、ゴミ問題は後日に考えましょう」
幸治は看板を指差した。
破損具合や根元の腐食など、建設課ならではの目線で状況を確認した赤座は、憮然として息を吐いた。
「経年が原因ではないですね」
そんなことは僕でも分かる、と幸治は言いそうになった。
「これなら予備があるので、すぐにでも設置できますが……」
赤座は唸った。
「壊されるために設置するのはためらいますね」
「どういう意味ですか?」
「これ、金属の棒か何かで叩き割った跡ですよ。板は二重に張ってますから、ボールが当たったくらいじゃこうはなりません。ボウリングの球ならできるでしょうけど」
本来なら被害届を出してもいい、と彼女は言った。
いつ壊されたかも分からないし、犯人が捕まるハズがないと幸治は考えるのだが、赤座の気持ちはよく分かっていた。
「でも放置というのもマズいですよ。電話をくれたおじいさんに僕、すぐに直しますって約束しましたし」
「ええ、ではとりあえず予備で対応しましょう」
赤座の胸中は複雑だった。
大切に扱えば10年以上は持つ看板だ。
それを意図的に壊されたとあっては、自分たちの仕事の邪魔をされているようで気分が悪い。
そもそも物を大事に扱わないこと自体、生真面目な彼女には理解できなかった。
2人は念のため他に問題はないか、公園を見て回った。
ベンチにひび割れはないか、遊具に瑕疵はないか。
こればかりは幸治だけでは分からなかったから、赤座に頼りきりになる。
「特に何もないようですね――」
と、言いかけた幸治の目が泳いだ。
植え込みに何かがいる。
草に隠れて小さな双眸がきらりと光った。
「あ、かわいい!」
少し遅れてそれに気付いた赤座は、そっと屈みこんだ。
「猫ですよ、それ?」
幸治は無意識に二、三歩退いていた。
植え込みからチョコンと顔を出しているのは黒猫だ。
伏せたままの姿勢で顔だけ出しているようで、表情には分からないものの近寄ってきた人間を怪しむように見上げている。
「猫はね、目を見るとケンカの合図になるんですよ。だからもし目が合ったらゆっくりまばたきするといいんです」
「見ませんよ、そんなの」
言うより先に彼は顔をそむけていた。
「どこから来たの? ここで寝てるの?」
赤座は猫撫で声で言った。
黒猫のほうはそんな赤座をじっと見つめていたが、彼女がいっこうにいなくならないので、のっそりと立ち上がってどこかへ行ってしまった。
「あらぁ……」
名残惜しそうに後ろ姿を見送る赤座。
幸治はほっと息をついた。
「猫、好きなんですか?」
「猫、嫌いなんですか?」
2人が同時に問うた。
あっ、と声を漏らして幸治たちは笑った。
「だって、かわいいじゃないですか。小さいし、丸っこいし、かまってほしそうにするけど、遊んであげると急に怒ったりするところも……」
猫の魅力を語る赤座は、つい先ほどまでの仕事のできる建設課の顔を完全に捨て去っている。
頬もゆるみっぱなしで、身振り手振りで幸治に共感を求めた。
だが彼はというと、
「猫とか、犬もダメですね。意思疎通ができないというか、何を考えてるか分からないじゃないですか。次にどういう行動に出るか分からないところなんかが特に苦手なんですよ」
こちらも誰からも愛されるちいき課の仮面が剥がれ、嫌悪感を隠しもしない呉谷幸治になっていた。
「そうですか? かわいいのに……」
赤座はかわいいを連呼した。
「さあ、もう帰りましょう。早く戻って報告書を書かないと」
幸治は逃げるように公園を出た。
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