小さな命たち

JEDI_tkms1984

文字の大きさ
5 / 34
2 ちいき課と看板

2-3

しおりを挟む
事務所に戻ると音無はまだ残っていて資料整理をしていた。
「おかえりなさい。遅かったですね」
「ただいま。田沢と野瀬は帰ってきましたか?」
「2人とも直帰だそうです。ボランティア団体との打ち合わせが長引いているみたいですよ。大変ですね」
音無がコーヒーを淹れて幸治に差し出した。
「大変ですよ、飲み会は」
彼は皮肉を言ってやったが、音無には意味が分からなかったようだ。
コーヒーを飲みながら報告書を作成していた幸治は、机に張ってあった付箋の大半がなくなっているのに気付いた。
「関係部署に回したんです。どう考えてうちじゃないものもありましたから」
「そうなんですか?」
言ってから失礼だったか、と幸治は思った。
音無は仕事は疎漏なくこなすが、能動的というワケではなかった。
課の窓口という自覚があって、日常業務は回っていたから積極的に働きかける必要も、仕事について提案することもしなかった。
いわゆるルーチンワークを淡々とさばくだけのタイプだと幸治は思っていたため、彼女の行動に驚いたのだ。
「何もかもできるワケじゃないですよ。それができるなら他の課なんて必要なくなりますから」
そう言う音無の意見はもっともで、課長にも聞かせてやりたかった。
「そうですね……そのとおりだと思います」
幸治はとたんに彼女を頼もしく感じるようになった。
自分たちの仕事は理解されにくい。
同じ課とはいえ内勤の音無でさえ幸治たちが外で何をして、どんな成果を上げているかは分からない。
そこに今のような声をかけてもらうと、彼も励まされたような気持ちになる。
「N町のほうはどうでした? 件数が多かったと思いますけど」
「まあ、順調ですよ。何人かと顔を合わせましたけど、そこまで怒っている感じでもなかったですし」
幸治は言うが、実際にはお叱りも受けている。
税金を払っているのだからしっかりやれ、という口調は特に年配に多かった。
「看板は今後、建設課と一緒にやるとして、しばらくは後回しにしていた案件を順番に処理しようと思ってます」
ちいき課には明確なノルマや方針がない。
音無を含めて6名の人員がそれぞれに動いている。
一応は課長と呼ばれる人間もいるにはいるが、それは名ばかりで実際には他と同じように現場を飛び回っているのである。
そのために自然と少ない労力ですむ案件を優先するようになってしまい、放置していた問題が大きなトラブルに発展することもあった。
報告書を書き終えた幸治は、音無を送り出して帰路に就く。
今日は久しぶりに充実感を味わえた一日だった。
どんな小さなことであれ、問題が解決に向かうと心地がよい。
ここのところ、成果がはっきり表れない仕事ばかりだったため、彼はなおさら気分がよかった。


「おかえりなさい。さっき沸いたばかりだから先にお風呂に入っちゃって」
帰宅するなり美子が入浴を勧める。
なにかあるな、と幸治は思った。
美子は相談事や悩み事があると、決まって食事の時に切り出してくる。
先に風呂に入れというのは、後でじっくりと話をしたいという合図なのだ。
「ミサキはもう食べたのか?」
「まだよ。お父さんと一緒に食べる、って」
幸治はふたつの安心をした。
ミサキが同席なら、そこまで込み入った話ではあるまい。
娘に聞かれてもかまわない程度の内容ということだ。
もうひとつ、彼女にはまだ反抗期は来ていない。
さすがにもう一緒に風呂には入ってくれないが、親子の対立がないのは精神的には楽だった。
「分かった、じゃあ早めに出てくるよ」
浴室に向かった幸治と入れ替わりに、ミサキが部屋から出てきた。
「お父さん、帰ってきたでしょ」
「そうよ。勉強してたの?」
「明日、小テストがあるからちょっとだけね。お母さん、英語得意?」
「少しはね。中学レベルの文法なら、まだ記憶に残ってるわ」
ミサキが小学生の間は勉強を見ていたが、中学生になって量も範囲も増えると、美子の手には負えなくなってきた。
何年に何が起きたとか、どこにどんな山脈があるかとか、必要でないかぎり、大人になっても覚えている人は少ない。
家庭教師でもつけようか、と美子が思っていたところに幸治が出てきた。
娘に嫌われたくないのか、しっかり部屋着に着替えている。
「じゃあ、いただきましょうか」
3人、テーブルについて手を合わせる。
食事はやむを得ない場合を除き、できるだけ家族そろって――。
それが呉谷家のルールだった。
誰が言いだしたことでもなく、自然とそうなっていたが、おかげで家族間のコミュニケーションがとれている。
旅行の計画や大きな買い物の相談も、食事をしながらだと進みやすい。
「つまずいてる教科はあるか?」
幸治にとってはミサキと接点を持てる貴重な時間でもある。
「体育と音楽かな。他はそこそこって感じ」
「それは……どうにもできないな」
「言うと思った」
彼としてはどうにか父親の威厳を見せたかったが、目論見は失敗に終わった。
「ねえ、あなた、ちょっと……」
美子がおずおずと言ったので、幸治は思わず箸をとめた。
内容次第では小遣いアップを交換条件にしてやろうと思っていたところ、
「――動物嫌いなのは重々承知だけど」
と続き、彼は嫌な予感がした。
「猫、飼っちゃダメかしら……?」
予感は2秒後に的中してしまい、彼は大息した。
「え? 猫飼うの? アメショー? ロシアンブルー?」
まだ何の話もしていないのに、ミサキは身を乗り出した。
行儀が悪いぞ、といつもの幸治なら叱るところだが、今の彼はそれどころではなかった。
「なんで急に……まさか……!」
椅子をひっくり返す勢いで立ち上がった幸治は、窓に飛びつくようにして外の様子を窺った。
もっぱら物置代わりになっている小さな庭には、ガーデニングをやりかけて放っているプランターが並んでいる。
「拾ってきたのかと思った……」
冷や汗を拭って幸治は席に戻る。
気分なおしにと麦茶を飲んだが、味はまったくしなかった。
猫という言葉を出しただけで、ここまでの反応をされてしまうと、美子も二の句が継げなくなる。
「飼いたいのか?」
無言でいることもばつが悪いと思い、幸治は訊いた。
「まあ、できれば、だけど……無理にとは言わないわ」
「無理……」
幸治は断定口調で言いかけて、
「だと思う」
と、一応の歩み寄りを見せた。
小動物を飼う、という行為そのものは彼も賛成だった。
いわゆるペットと呼ばれていた時代から、コンパニオンアニマルという呼称が広まった今、動物に対する人間の見方や扱いはずいぶんと変わった。
犬や猫を家に招いて、その世話を通じて子どもの情操教育に役立つという意見もあり、幸治はそれへの理解があった。
だから美子の言葉を受け容れて猫を置けば、ミサキも心の優しい子に育つかもしれない。
その意味では無礙にはできない申し出だった。
しかも先ほどの反応のように、ミサキ自身も猫を飼いたがっている節がある。
それを拒めば妻子を縛っていることになりはしないか、と彼は逡巡した。
「苦手なんだ。じんましんが出る」
理由は彼も分かっていない。
遠くから見るだけなら平気だが、手の届く位置まで来ると総毛立ってしまい、体は硬直してしまう。
「えー、かわいいのに」
という娘の感想も幸治には理解できない。
「やっぱりダメよね……」
美子はあからさまに落ち込んだが、無理を通してまで飼おうとは思わない。
「すまんな、なんとか我慢できればいいんだけどな。それにしても突然、どうしたんだ? テレビでやってたのか?」
「そうじゃないの。仕事の帰りに仔猫を見つけてね。それで、つい……」
「なら親がいるかもしれないだろ。誘拐みたいなものじゃないか」
「まあ、そう言われれば、ね」
動物嫌いからではない正論に、美子もそれ以上は言えなくなった。
「なんだ、結局飼わないの?」
「こればかりは、ちょっとな」
「次のテストで100点取っても?」
「ペットはご褒美じゃないぞ。命をそんなふうに考えるな」
幸治としては娘を諭すために発した言葉だったが、その言葉に誰よりも反応したのは彼自身だった。
「どうしたの?」
呆気にとられた様子の夫に美子は訝りながら問うた。
「いや、なんでもない……」
幸治は頭を振って残しておいた味噌汁を飲み干した。
(なんだ、妙な感覚だな……)
この夜、彼は違和感の正体が気になって、なかなか寝つけなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

処理中です...