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3 及川奈緒という女
3-1
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なんだかご機嫌ね、と言われて美子は頬がゆるんでいる自分に気付く。
「そ、そうかしら」
と慌てて取り繕うが、上調子は声にも出てしまう。
「なにか良いことでもあったの?」
同僚の細野に問われ、
「娘がね、昨日の面談で褒められたのよ」
美子は自慢げにならないように答えた。
何事に於いても平均的な娘だと褒められることも叱られることもない。
小学生時分でも担任はそろって、よく頑張っていますよ、と言うだけで具体的な内容に触れることはなかった。
「へえ、ミサキちゃんだったっけ? 娘さん」
「そう。親バカかもしれないけど嬉しくてね」
ミサキの通うW中学校では、校庭の隅でウサギとチャボが飼育されている。
通常、教員と飼育係に選ばれた生徒が世話をするのだが、その日は誰の不手際かケージのドアが開きっぱなしになっていたらしい。
逃げ出したチャボはどうにか捕まえられたが、すばしっこいウサギはそうはいかない。
飼育係も手を焼いていたところ、たまたま近くにいたミサキがあっさりと捕まえてケージに戻したという。
後で聞いたところでは、逃げ回っていたウサギがなぜかミサキの呼び声にだけは反応して自分から近寄っていったらしい。
ストレスに弱い動物のために下手に追いかけることもできず、困っていた矢先のことだったので彼女の功績は思いのほか大きいということになった。
将来は獣医師になったら、とはさすがに担任の冗談であろうが、なにしろそういう賛辞には慣れていない美子である。
ついつい舞い上がってしまうのだった。
もちろん、だからといって仕事に手抜かりはない。
今日は本来の業務のレジ担当ができたので、すこぶる機嫌もいい。
帰りに明日の弁当の食材を買って事務所を出た美子は、あの仔猫のことが気になって回り道をした。
猫がいつも同じ場所にいるハズがない。
普通はそう考えるのだが、彼女はペットショップで売れ残った仔を見に行くような感覚だった。
件の公園に近づくと、鳴き声をたどって歩いていた時には気が付かなかったものが見えてくる。
そこかしこに落ちているお菓子の包装紙だ。
空き袋ならまだしも、食べ残しもある。
祭りでもあったのか、と美子は思った。
夜店が引き払った後には、たこ焼きのトレイや串が散乱しているものだが、彼女が見ているのはまさにそれと同じ光景だった。
入ってすぐの植え込みを覗く……が、仔猫の姿はない。
耳を澄ませてみても鳴き声はしない。
「やっぱりいないか……」
一周して帰ろうと思った美子は、奥に誰かがいるのに気付いた。
彼女の位置からは掃除道具などを収納している倉庫の死角になっていて見えなかったが、女が隠れるようにごそごそと何かをやっている。
年齢は美子とそう変わらないだろう。
スポーティな服装で、見るからに活発そうな風貌である。
「…………?」
女は周囲より一段高くなっている植え込みに小皿を並べ、そこにドライフードを入れていた。
その周りには何匹かの猫がいて、行儀よく待っている子、鼻先で皿をついて急かす子、フードの入った袋に手を伸ばす欲張りな子などがいた。
「はいはい、ちょっと待ってね。ちゃんと全員にあたるから」
もちろんそんな言葉を理解してくれるハズもなく、気の早い猫は他を押しのけて自分の餌にありつこうとした。
「あの…………」
かけられた声よりも先に足音を聞きつけた女はさっと振り返って美子の姿を認めると、敵意を込めた視線を彼女に向けた。
「なんですか?」
あなたに迷惑はかけていない。
咎められる謂れはない。
何もルールは犯していない。
だから何の問題もない。
訊き返すその声には、それら全ての意味が含まれているような響きがあった。
初対面にしてはずいぶん失礼な感じだ、と美子は思ったが、
「いつもここでお世話されてるんですか?」
声をかけたのは自分だからと遠慮がちに続ける。
「そうですけど」
答えた女はすでに目を逸らしていた。
邪魔だからどこかへ行け、と言わんばかりに美子にわざと背を向けて猫たちの面倒をみている。
「一昨日、ここで仔猫を見たんです。白い――」
「あの子は死んだよ」
「え……?」
あまりにもあっさりと死を告げられて、美子は色を失った。
女は特に気にも留めない様子で、手に頬ずりしている黒猫を見ていた。
「どうして……」
「カラスにやられたんだよ。親がいないからね」
当然のように彼女は言う。
美子は悔いた。
幸治が反対することは分かっていたが、それでもあの時、連れて帰っていればよかったと思った。
そうすれば死なずにすんだ。
飼えないなら里親を探すなど、他にも方法があったかもしれないのだ。
そう思ったあと、今度は女の冷淡な物言いに腹が立ってきて、
「見捨てたんですか? カラスにやられたって知ってたなら、あなたもその子のことは見てたんでしょう」
彼女にしては厳しい口調でなじった。
すると女は手を止め、振り向いた。
「あんたはどうした? その子を見てどうしたの? その子のために何かしようとしたの? 一昨日見たのなら、昨日は? 自分は何もしないくせに無責任なこと言わないで!」
予想外の剣幕に美子は怯んだ。
彼女はただ女の非を指摘しただけのつもりだった。
死んでしまった仔猫への後ろめたさから逃れたい、という動機もたしかにあった。
この女が見捨てたから仔猫が死んだ、とすることで罪悪感を覚えずにすむハズだったのだ。
「無責任、って……」
この言葉は重く、美子にのしかかった。
何よりも的確な表現だった。
ただ、彼女自身はまだそれは認められなかったようで、
「ずっとお世話してるんでしょ? どうしてあの子だけ見てあげなかったんですか?」
何もしなかった自分を棚にあげて反駁した。
「勝手なこと言うじゃない。あんたたちはいつもそうなんだ。捨てる奴のことは何も言わずに、頭ごなしに活動を否定する。どれだけ苦労してここまで減らしたと思ってるんだ」
女が怒鳴ったので、何匹かの猫が驚いて茂みに隠れた。
「え……? 捨てた……?」
しばらくして美子はハッとする。
その言葉の意味、仔猫がいた理由を漠然と理解し始める。
「あの子、捨てられたんですか?」
「そうだよ。この子らはみんな、施術済みだからね」
言われて美子は改めて猫たちを見た。
隠れていた子たちが、もうほとぼりは冷めたかと顔を出す。
見るとどの猫も片方の耳の先端が欠けていた。
「耳を怪我してますよ」
「それが手術の証なんだ。不妊してるから子供は産まれない」
まだ気が立っている女は、やや乱暴な口調で説明した。
この公園には現在、一二匹の猫がいること。
毎日、決まった時間、決まった場所で給餌していること。
全ての個体に子どもが生まれないように手術をし、その証拠に耳の先端に切り込みをいれていること。
それら一連の行動の目的が、不幸な猫を減らすことである、とも。
「じゃあ、野良猫はここにいる子たちで最後、ということですか」
子孫を残せなければ個体数は徐々に減っていき、やがてゼロになる。
野良猫という言い方に、女はわずか嫌悪感を示し、
「地域猫はこの代で終わりだよ」
別の名称に言い換えた。
食事を終えた猫たちの行動はさまざまだ。
早々とどこかへ去る子もいれば、おかわりを待つ子もいる。
リラックスしているのか、女の足にすり寄って仰向けに寝転ぶ猫もいた。
「あの、さっきはすみませんでした。よく知りもしないのに勝手なことばかり言ってしまって……」
「慣れてるからいいわ。よく言われるからね。日常茶飯事よ」
女は怒りを引きずらない性格のようで、元の口調――ぶっきらぼうで他人を寄せつけない感じ――に戻っていた。
「あの子のことはかわいそうだけどね……仕方ないのよ。そりゃ私だってね、できることなら助けてあげたかったわよ。でもそんなことしてちゃキリがないんだから」
「数が減らないから、ですか?」
「そう。さっきも言ったけど、この子たちがみんないなくなることが、この活動の最終的な目標。冷たいと思うかもしれないけど、捨てられる猫を育てるのがそもそもの目的じゃないんだよ」
女は腰をかがめ、足元でじゃれついている猫の頭を撫でた。
猫は嬉しそうに首をもたげ、それから小さく鳴いた。
野良なのにここまで懐くのか、と美子は見ていて思った。
「この子たち、手術してるって言ってましたけど、けっこうお金かかりますよね。どこかから寄付されてるんですか?」
女は呆れたように、
「自費に決まってるじゃない。あんただって、この子らが手術してるなんて考えもしなかったでしょ? お金なんてどこからも出ないよ」
ため息交じりに言った。
「そんな……餌代だってかかるのに……」
憐れむような美子の声に、女は鬱陶しそうに立ち上がり、空になった皿を片付け始めた。
おかわりを待っていた猫はそれで悟ったか、少し離れたところで毛繕いしている。
「何か、お手伝いできることはありませんか?」
そう言おうと思いもしないうちに、美子は言っていた。
同情心か、猫たちへの庇護心か。
とにかくこのまま何もしないで立ち去ることが躊躇われたのだった。
「ないよ、何も。邪魔だけはしないでほしいわね」
食べ残しがないか確かめたあと、女は早々と引き上げてしまった。
美子は肩を落としたついでに、視線も落とした。
あれほどいた猫はいつの間にか散り散りになっており、彼女の足元には一匹の黒猫だけが残っていた。
「まだお腹空いてるの?」
美子がしゃがみこんで手を伸ばすと、黒猫はフーッと威嚇の声をあげた。
「何もしないわよ」
できるだけ穏やかな声で言うも、黒猫は睨むように美子を見上げると、音も立てずにどこかへ走り去ってしまった。
(あの女の人と揉めてたからかしら?)
ため息ひとつついて踵を返す。
植え込みのあたりはきれいに片付いていて、つい先ほどまで野良猫の給餌場になっていたとは思えないほどだった。
食べ残しのひと欠片さえ落ちていない。
公園を出る際、ふと入口の脇を見やる。
一昨日に見た、生まれたばかりの白猫がいた場所だ。
そこはもう風で均されていて、小さなくぼみすら見当たらない。
美子は思った。
さっきの女が見つけた時にはもう、白猫は息絶えていたのではないか。
生きている姿を知っているのと、初めて見たのが亡骸だった、というのでは意味が全くちがう。
見捨てたのか、と美子は詰ったが、あの女が亡骸を見つけるまで白猫の存在を知らなかったのであれば筋違いの批難だ。
そこまで考え至ると、彼女は思慮に欠けていたことを思い知る。
同時に女が放った、”無責任”という言葉がさらに重みを増してくる。
自分は何もせず、何もできなかったのだ。
美子は悔いた。
が、猫一匹の命はどうしたって帰ってはこない。
「そ、そうかしら」
と慌てて取り繕うが、上調子は声にも出てしまう。
「なにか良いことでもあったの?」
同僚の細野に問われ、
「娘がね、昨日の面談で褒められたのよ」
美子は自慢げにならないように答えた。
何事に於いても平均的な娘だと褒められることも叱られることもない。
小学生時分でも担任はそろって、よく頑張っていますよ、と言うだけで具体的な内容に触れることはなかった。
「へえ、ミサキちゃんだったっけ? 娘さん」
「そう。親バカかもしれないけど嬉しくてね」
ミサキの通うW中学校では、校庭の隅でウサギとチャボが飼育されている。
通常、教員と飼育係に選ばれた生徒が世話をするのだが、その日は誰の不手際かケージのドアが開きっぱなしになっていたらしい。
逃げ出したチャボはどうにか捕まえられたが、すばしっこいウサギはそうはいかない。
飼育係も手を焼いていたところ、たまたま近くにいたミサキがあっさりと捕まえてケージに戻したという。
後で聞いたところでは、逃げ回っていたウサギがなぜかミサキの呼び声にだけは反応して自分から近寄っていったらしい。
ストレスに弱い動物のために下手に追いかけることもできず、困っていた矢先のことだったので彼女の功績は思いのほか大きいということになった。
将来は獣医師になったら、とはさすがに担任の冗談であろうが、なにしろそういう賛辞には慣れていない美子である。
ついつい舞い上がってしまうのだった。
もちろん、だからといって仕事に手抜かりはない。
今日は本来の業務のレジ担当ができたので、すこぶる機嫌もいい。
帰りに明日の弁当の食材を買って事務所を出た美子は、あの仔猫のことが気になって回り道をした。
猫がいつも同じ場所にいるハズがない。
普通はそう考えるのだが、彼女はペットショップで売れ残った仔を見に行くような感覚だった。
件の公園に近づくと、鳴き声をたどって歩いていた時には気が付かなかったものが見えてくる。
そこかしこに落ちているお菓子の包装紙だ。
空き袋ならまだしも、食べ残しもある。
祭りでもあったのか、と美子は思った。
夜店が引き払った後には、たこ焼きのトレイや串が散乱しているものだが、彼女が見ているのはまさにそれと同じ光景だった。
入ってすぐの植え込みを覗く……が、仔猫の姿はない。
耳を澄ませてみても鳴き声はしない。
「やっぱりいないか……」
一周して帰ろうと思った美子は、奥に誰かがいるのに気付いた。
彼女の位置からは掃除道具などを収納している倉庫の死角になっていて見えなかったが、女が隠れるようにごそごそと何かをやっている。
年齢は美子とそう変わらないだろう。
スポーティな服装で、見るからに活発そうな風貌である。
「…………?」
女は周囲より一段高くなっている植え込みに小皿を並べ、そこにドライフードを入れていた。
その周りには何匹かの猫がいて、行儀よく待っている子、鼻先で皿をついて急かす子、フードの入った袋に手を伸ばす欲張りな子などがいた。
「はいはい、ちょっと待ってね。ちゃんと全員にあたるから」
もちろんそんな言葉を理解してくれるハズもなく、気の早い猫は他を押しのけて自分の餌にありつこうとした。
「あの…………」
かけられた声よりも先に足音を聞きつけた女はさっと振り返って美子の姿を認めると、敵意を込めた視線を彼女に向けた。
「なんですか?」
あなたに迷惑はかけていない。
咎められる謂れはない。
何もルールは犯していない。
だから何の問題もない。
訊き返すその声には、それら全ての意味が含まれているような響きがあった。
初対面にしてはずいぶん失礼な感じだ、と美子は思ったが、
「いつもここでお世話されてるんですか?」
声をかけたのは自分だからと遠慮がちに続ける。
「そうですけど」
答えた女はすでに目を逸らしていた。
邪魔だからどこかへ行け、と言わんばかりに美子にわざと背を向けて猫たちの面倒をみている。
「一昨日、ここで仔猫を見たんです。白い――」
「あの子は死んだよ」
「え……?」
あまりにもあっさりと死を告げられて、美子は色を失った。
女は特に気にも留めない様子で、手に頬ずりしている黒猫を見ていた。
「どうして……」
「カラスにやられたんだよ。親がいないからね」
当然のように彼女は言う。
美子は悔いた。
幸治が反対することは分かっていたが、それでもあの時、連れて帰っていればよかったと思った。
そうすれば死なずにすんだ。
飼えないなら里親を探すなど、他にも方法があったかもしれないのだ。
そう思ったあと、今度は女の冷淡な物言いに腹が立ってきて、
「見捨てたんですか? カラスにやられたって知ってたなら、あなたもその子のことは見てたんでしょう」
彼女にしては厳しい口調でなじった。
すると女は手を止め、振り向いた。
「あんたはどうした? その子を見てどうしたの? その子のために何かしようとしたの? 一昨日見たのなら、昨日は? 自分は何もしないくせに無責任なこと言わないで!」
予想外の剣幕に美子は怯んだ。
彼女はただ女の非を指摘しただけのつもりだった。
死んでしまった仔猫への後ろめたさから逃れたい、という動機もたしかにあった。
この女が見捨てたから仔猫が死んだ、とすることで罪悪感を覚えずにすむハズだったのだ。
「無責任、って……」
この言葉は重く、美子にのしかかった。
何よりも的確な表現だった。
ただ、彼女自身はまだそれは認められなかったようで、
「ずっとお世話してるんでしょ? どうしてあの子だけ見てあげなかったんですか?」
何もしなかった自分を棚にあげて反駁した。
「勝手なこと言うじゃない。あんたたちはいつもそうなんだ。捨てる奴のことは何も言わずに、頭ごなしに活動を否定する。どれだけ苦労してここまで減らしたと思ってるんだ」
女が怒鳴ったので、何匹かの猫が驚いて茂みに隠れた。
「え……? 捨てた……?」
しばらくして美子はハッとする。
その言葉の意味、仔猫がいた理由を漠然と理解し始める。
「あの子、捨てられたんですか?」
「そうだよ。この子らはみんな、施術済みだからね」
言われて美子は改めて猫たちを見た。
隠れていた子たちが、もうほとぼりは冷めたかと顔を出す。
見るとどの猫も片方の耳の先端が欠けていた。
「耳を怪我してますよ」
「それが手術の証なんだ。不妊してるから子供は産まれない」
まだ気が立っている女は、やや乱暴な口調で説明した。
この公園には現在、一二匹の猫がいること。
毎日、決まった時間、決まった場所で給餌していること。
全ての個体に子どもが生まれないように手術をし、その証拠に耳の先端に切り込みをいれていること。
それら一連の行動の目的が、不幸な猫を減らすことである、とも。
「じゃあ、野良猫はここにいる子たちで最後、ということですか」
子孫を残せなければ個体数は徐々に減っていき、やがてゼロになる。
野良猫という言い方に、女はわずか嫌悪感を示し、
「地域猫はこの代で終わりだよ」
別の名称に言い換えた。
食事を終えた猫たちの行動はさまざまだ。
早々とどこかへ去る子もいれば、おかわりを待つ子もいる。
リラックスしているのか、女の足にすり寄って仰向けに寝転ぶ猫もいた。
「あの、さっきはすみませんでした。よく知りもしないのに勝手なことばかり言ってしまって……」
「慣れてるからいいわ。よく言われるからね。日常茶飯事よ」
女は怒りを引きずらない性格のようで、元の口調――ぶっきらぼうで他人を寄せつけない感じ――に戻っていた。
「あの子のことはかわいそうだけどね……仕方ないのよ。そりゃ私だってね、できることなら助けてあげたかったわよ。でもそんなことしてちゃキリがないんだから」
「数が減らないから、ですか?」
「そう。さっきも言ったけど、この子たちがみんないなくなることが、この活動の最終的な目標。冷たいと思うかもしれないけど、捨てられる猫を育てるのがそもそもの目的じゃないんだよ」
女は腰をかがめ、足元でじゃれついている猫の頭を撫でた。
猫は嬉しそうに首をもたげ、それから小さく鳴いた。
野良なのにここまで懐くのか、と美子は見ていて思った。
「この子たち、手術してるって言ってましたけど、けっこうお金かかりますよね。どこかから寄付されてるんですか?」
女は呆れたように、
「自費に決まってるじゃない。あんただって、この子らが手術してるなんて考えもしなかったでしょ? お金なんてどこからも出ないよ」
ため息交じりに言った。
「そんな……餌代だってかかるのに……」
憐れむような美子の声に、女は鬱陶しそうに立ち上がり、空になった皿を片付け始めた。
おかわりを待っていた猫はそれで悟ったか、少し離れたところで毛繕いしている。
「何か、お手伝いできることはありませんか?」
そう言おうと思いもしないうちに、美子は言っていた。
同情心か、猫たちへの庇護心か。
とにかくこのまま何もしないで立ち去ることが躊躇われたのだった。
「ないよ、何も。邪魔だけはしないでほしいわね」
食べ残しがないか確かめたあと、女は早々と引き上げてしまった。
美子は肩を落としたついでに、視線も落とした。
あれほどいた猫はいつの間にか散り散りになっており、彼女の足元には一匹の黒猫だけが残っていた。
「まだお腹空いてるの?」
美子がしゃがみこんで手を伸ばすと、黒猫はフーッと威嚇の声をあげた。
「何もしないわよ」
できるだけ穏やかな声で言うも、黒猫は睨むように美子を見上げると、音も立てずにどこかへ走り去ってしまった。
(あの女の人と揉めてたからかしら?)
ため息ひとつついて踵を返す。
植え込みのあたりはきれいに片付いていて、つい先ほどまで野良猫の給餌場になっていたとは思えないほどだった。
食べ残しのひと欠片さえ落ちていない。
公園を出る際、ふと入口の脇を見やる。
一昨日に見た、生まれたばかりの白猫がいた場所だ。
そこはもう風で均されていて、小さなくぼみすら見当たらない。
美子は思った。
さっきの女が見つけた時にはもう、白猫は息絶えていたのではないか。
生きている姿を知っているのと、初めて見たのが亡骸だった、というのでは意味が全くちがう。
見捨てたのか、と美子は詰ったが、あの女が亡骸を見つけるまで白猫の存在を知らなかったのであれば筋違いの批難だ。
そこまで考え至ると、彼女は思慮に欠けていたことを思い知る。
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