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7 迷走
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「まったく、どうしてこんなことに……」
音無はポーチから取り出した砂糖菓子を口に入れた。
甘いものが好きな彼女は適度に糖分を補給してストレスを発散する。
塩分の多いスナック菓子や、苦手な渋味しか感じないコーヒーでは何の安らぎにもならない。
今日は1件のお褒めの言葉と、十数件の苦情の電話をいただいている。
前者は以前、公園の看板を直してほしいと言ってきた老人で、無事に修繕がなされたことに対するお礼だった。
そういう電話を受けると嬉しくなる。
区民の要望を聞いて実現するのが仕事だが、その後の反応をもらえるのはありがたい。
モチベーションも上がるし、役に立てたという満足感もある。
反対に苦情が続くと、そこまでメンタルの強くない彼女は菓子を食べることで精神の安定を図らなければならない。
「またクレーム?」
田沢があくびをしながら言った。
この男は仕事といえばたいてい遠出をしたがるので事務所にいないことが常だが、この日はたまたま資料整理のために残っていた。
「そうなんです。それも似たようなものが多くて」
「一時期より減ったと思ったけどな」
興味のない風を装いながら、壁に貼られた付箋に目を向ける。
〈 ゴミステーションのカラス対策 〉
〈 ゴミ収集車の来る時間を統一してほしい 〉
〈 猫の餌やりを禁止してほしい 〉
「なるほどねえ」
田沢はこの部署は永続するものだと思っている。
要望も欲の一種だと思えば、人間にそれが尽きることはない。
問題がひとつ解決しても、必ず次の問題が生まれる。
あちらを立てれば、こちらが立たず。
となれば、どうせ区民の声も同じような内容を延々と繰り返すだろう。
たとえばゴミ収集車の巡回時間を統一しても、今度はそれが早すぎる、遅すぎると不満が出る。
そのうち一日に数回来るようにしろ、などという無茶な要求が起こり、挙げ句に収集日を増やせ――となるだろう。
ちいき課とはつまり目安箱なのだ。
「これは呉谷と野瀬が当たってる案件だったよな」
「ええ。呉谷さん、動物嫌いらしくて野瀬さんを引っ張って行ったんですよ」
「あいつが嫌いなのはケンカだよ。すぐ謝る癖がついてる」
「いいことじゃないですか。それで収まるなら」
「それは相手が正しいときだけだよ。どうしたって折れちゃいけない場合っていうのがあるからな」
飄々としている田沢がどんな回答をするのか気になって、
「田沢さんはどんなふうにするんですか?」
音無はそう訊ねた。
「俺か? 俺なら……」
彼は冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、豪快に飲み干してから言った。
「相手が謝るまで待つね。強引に謝らせるんじゃない。待つんだ」
音無はくすっと笑った。
見事に3人とも性格がばらばらだ。
穏健派の幸治、直球勝負の野瀬、駆け引きが得意な田沢。
こうも個性が分かれているのに、それなりにまとまっている。
「それにしてもこれ、毎日来てるね」
付箋の一枚を指差して田沢が言う。
「最初は同じ人だったんです。でも周りの人も刺激されたのか、私もうちの課に言いたい、っていう感じで」
音無は憮然として言った。
東公園での猫への餌やりをやめさせろという声に数日前から、公園での餌やり自体を禁止しろ、が付け加わった。
連日苦情を申し立てているのは木部という女だが、最近はそれに混じって他の住人からも同様の意見が寄せられている。
「あの2人が行ったんだろう? 何とかならなかったのか?」
「先方、相当お怒りだったみたいですよ。たしか今日、その問題の人に声をかけてみるって話でしたけど」
音無は予定表を見た。
2人の名前の横にていねいな字体で、夕方に東公園に行く旨が書かれてあったので、幸治が書いたのだろうと彼女は思った。
「なるほど、それまで待てなかったワケか」
クレーマーの姿を想像して田沢が笑った。
この種の住人はよくいる。
連絡がついたら即日対応してもらえると思っている。
実際には入念な下調べや準備が要るのだが、そうしたプロセスは考慮してもらえない。
「こりゃ、ちいき課に文句を言うための、別の課が必要になるな」
「そんな電話、私はとりたくないですよ」
豪放な田沢の雰囲気に音無も笑って返した。
音無はポーチから取り出した砂糖菓子を口に入れた。
甘いものが好きな彼女は適度に糖分を補給してストレスを発散する。
塩分の多いスナック菓子や、苦手な渋味しか感じないコーヒーでは何の安らぎにもならない。
今日は1件のお褒めの言葉と、十数件の苦情の電話をいただいている。
前者は以前、公園の看板を直してほしいと言ってきた老人で、無事に修繕がなされたことに対するお礼だった。
そういう電話を受けると嬉しくなる。
区民の要望を聞いて実現するのが仕事だが、その後の反応をもらえるのはありがたい。
モチベーションも上がるし、役に立てたという満足感もある。
反対に苦情が続くと、そこまでメンタルの強くない彼女は菓子を食べることで精神の安定を図らなければならない。
「またクレーム?」
田沢があくびをしながら言った。
この男は仕事といえばたいてい遠出をしたがるので事務所にいないことが常だが、この日はたまたま資料整理のために残っていた。
「そうなんです。それも似たようなものが多くて」
「一時期より減ったと思ったけどな」
興味のない風を装いながら、壁に貼られた付箋に目を向ける。
〈 ゴミステーションのカラス対策 〉
〈 ゴミ収集車の来る時間を統一してほしい 〉
〈 猫の餌やりを禁止してほしい 〉
「なるほどねえ」
田沢はこの部署は永続するものだと思っている。
要望も欲の一種だと思えば、人間にそれが尽きることはない。
問題がひとつ解決しても、必ず次の問題が生まれる。
あちらを立てれば、こちらが立たず。
となれば、どうせ区民の声も同じような内容を延々と繰り返すだろう。
たとえばゴミ収集車の巡回時間を統一しても、今度はそれが早すぎる、遅すぎると不満が出る。
そのうち一日に数回来るようにしろ、などという無茶な要求が起こり、挙げ句に収集日を増やせ――となるだろう。
ちいき課とはつまり目安箱なのだ。
「これは呉谷と野瀬が当たってる案件だったよな」
「ええ。呉谷さん、動物嫌いらしくて野瀬さんを引っ張って行ったんですよ」
「あいつが嫌いなのはケンカだよ。すぐ謝る癖がついてる」
「いいことじゃないですか。それで収まるなら」
「それは相手が正しいときだけだよ。どうしたって折れちゃいけない場合っていうのがあるからな」
飄々としている田沢がどんな回答をするのか気になって、
「田沢さんはどんなふうにするんですか?」
音無はそう訊ねた。
「俺か? 俺なら……」
彼は冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、豪快に飲み干してから言った。
「相手が謝るまで待つね。強引に謝らせるんじゃない。待つんだ」
音無はくすっと笑った。
見事に3人とも性格がばらばらだ。
穏健派の幸治、直球勝負の野瀬、駆け引きが得意な田沢。
こうも個性が分かれているのに、それなりにまとまっている。
「それにしてもこれ、毎日来てるね」
付箋の一枚を指差して田沢が言う。
「最初は同じ人だったんです。でも周りの人も刺激されたのか、私もうちの課に言いたい、っていう感じで」
音無は憮然として言った。
東公園での猫への餌やりをやめさせろという声に数日前から、公園での餌やり自体を禁止しろ、が付け加わった。
連日苦情を申し立てているのは木部という女だが、最近はそれに混じって他の住人からも同様の意見が寄せられている。
「あの2人が行ったんだろう? 何とかならなかったのか?」
「先方、相当お怒りだったみたいですよ。たしか今日、その問題の人に声をかけてみるって話でしたけど」
音無は予定表を見た。
2人の名前の横にていねいな字体で、夕方に東公園に行く旨が書かれてあったので、幸治が書いたのだろうと彼女は思った。
「なるほど、それまで待てなかったワケか」
クレーマーの姿を想像して田沢が笑った。
この種の住人はよくいる。
連絡がついたら即日対応してもらえると思っている。
実際には入念な下調べや準備が要るのだが、そうしたプロセスは考慮してもらえない。
「こりゃ、ちいき課に文句を言うための、別の課が必要になるな」
「そんな電話、私はとりたくないですよ」
豪放な田沢の雰囲気に音無も笑って返した。
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