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7 迷走
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「まったく、なんでこんなことに……」
目の前を飛ぶハエを手で払いながら、幸治はため息まじりに呟く。
近くに喫茶店はないのかと見回すが、あるのはあと1時間もすれば開店する居酒屋ばかりだった。
「我慢しろよ。もうすぐ来るだろうから」
ガムを噛みながら野瀬が言う。
こちらもイライラしているようだ。
木部との約束どおり、2人は件の餌やりと接触するために東公園に来ていた。
いつも決まって夕方に現れるというので時間を計ったつもりだったが、来るのが早すぎたらしい。
どこかで時間をつぶそうと考えたが周囲に手頃な店はない。
餌やりは手際がよいらしく、しばらくするとすぐに帰ってしまうというから、公園が見える位置で待たなければならない。
ということで隣接するアパートに隠れるように立っている2人であるが、これでは不審者と疑われてもおかしくはない。
幸治はあまり不満を言わないようにした。
今日はいよいよ直接対決である。
衝突が嫌いな彼にとっては逃げ出したい仕事だ。
代理を務めてくれる野瀬の機嫌を損ねてしまうとマズい。
彼はまだ事が始まる前から板挟み状態だった。
「遅いな」
野瀬が手を閉じたり開いたりしている。
勤務中の喫煙は禁止されているが、あやうくそれを無視しそうになる。
待つこと30分。
今日は来ないのでは、と諦めかけたところに、薄汚れた猫が前を通り過ぎた。
その後を追うようにさらに2匹、同じ方向へ走っていく。
ああ、来てしまった、と幸治は肩を落とした。
「よし、行くぞ」
探偵気取りで野瀬が小走りに公園に向かう。
重い足を無理やり動かして幸治も続く。
「あの、すみません。私、ちいき課の野瀬といいます」
彼は名乗っただけだが、それを高圧的に受け取った奈緒はおもむろに顔を上げ、挑むような視線を投げつけた。
「失礼ですが、いつもここで餌をやってるんですか?」
奈緒は身構えた。
「そうですけど、何か?」
気弱になってはいけない。
わずかでも後ろめたさを見せれば、向こうはそこに付け入ってくる。
動じないことだ。
「及川さん、どうしたの?」
奥の水飲み場で水を汲んでいた美子が戻ってきた。
彼女には奈緒が男たちに絡まれているように見えていた。
「役所の人よ。何とかっていう課の」
「ちいき課です」
野瀬が言う。
美子が会釈してその顔を見る。
そして目が合う。
彼の後ろにいる、もうひとりの男と。
「美子……?」
「あなた……」
2人は付き合い始めた頃の、互いに運命の出会いを感じていた当時のように、茫然と見つめ合った。
「どうなってるんだ、これ」
固まったまま動かない幸治に、野瀬が苛立たしげに言った。
「妻だ」
「そ、そうなのか」
これは野瀬にはやりにくい。
相手に同僚の身内がいるとなると、強く出ることもできない。
常に幸治と美子の顔を窺いながらでは、お願いをするのにも気を遣わざるを得ない。
奈緒も同様で、野瀬の口調から批判的なことを言ってくると踏んだが、美子の手前ぞんざいな振る舞いはできない。
「ええ、と……それでですね、私たちが来たのは、猫に餌をやって……あげてる人がいると。ちょっと控えてほしいという声がありまして」
ちらちらと幸治の様子を見ながら野瀬が伝える。
「そう言われても、ここは別に禁止されてるワケじゃないですし……。まあ、そういう声があるのも分かりますけど」
奈緒も美子の表情を見ながらの返答である。
場を困惑させている当の2人は、何度か視線を交えたあと、ばつ悪そうに俯いたままだった。
そんな妙な人間模様などおかまいなしに、一度は幸治たちの登場で散り散りになった猫たちは、食事はまだかと足元をうろうろしている。
いいですか、と対話を保留させた奈緒は手早く小皿を並べ、充分な量のフードを注いだ。
「私たちとしても、どうしても、というつもりはないんですよ。ただ、そういう声が大きくなってきた、と。糞尿被害に遭われている方も」
野瀬はこの仕事に就いて以来、初めて言葉を選びながら話した。
対人交渉はこれまでもあったが、役人というアドバンテージのお陰でたいていはスムーズに片付いていた。
「排泄で汚されることはないと思いますよ。ほら」
奈緒が指差した先では、茶トラがブランコの近くで用を足していた。
排泄が終わると前脚で器用に砂をかけ、それを隠した。
「ああやって隠す習性があるんです。猫砂というのも売ってるでしょう? それと同じことですよ」
「たしかに……でも、今は、ですよね。一日中見ているワケではないでしょう。たとえば昼間とかは?」
「それは……」
痛いところを突かれて奈緒は口ごもる。そもそも二四時間面倒を見られるなら家で飼えばすむ話だ。
「相当怒ってらっしゃるんですか?」
美子の手前もあったが、批判の声にも耳を傾けなければいけないと感じた奈緒は、野瀬を通じて周囲の動向を探ろうと考えた。
彼はしばらく黙っていたが、
「大半はこちらから聞き出して文句が出る程度です。怒っているというより迷惑に感じているレベルでしょうか。ただ、中にはどうしても許せない、とかなりお怒りの人もいます」
顔を真っ赤にして怒鳴る木部を思い浮かべながら言った。
(やめさせろ、とか苦情を入れたのね、きっと)
珍しいことではないし、そう言いたい人の心情も理解できないではない。
害虫がいれば殺すように、不快なものを排除したがるのは当然の反応だ。
実際、奈緒も蚊やハエを叩いたことは何度もある。
猫をかわいがる人もいれば、仇のように憎む人もいる、ただそれだけのことである。
だが理解できるのもそこまで。
部屋にいる害虫を殺すのは分かるとして、わざわざ隣町まで害虫を殺しに行くような人間の神経はとうてい理解できない。
(そういう人は嫌いなものを徹底的に排除しなきゃ気が済まないのよ)
奈緒は失礼にならないように野瀬の顔を見る。
彼はどういうスタンスなのだろうか。
やめさせたいのか、それとも苦情を伝えに来ただけなのか。
「お話は分かりました」
だからどうするか、は言わない。
続けるとも辞めるとも答えないのが、ここでは最適な回答だ。
「及川さん、どうするの?」
黙っていればいいのに、美子が結論を知りたがった。
「考えるわ。これから」
思ってもいないことを奈緒は言う。
やめる、という選択肢は彼女にはない。
たった一度の苦情に屈しては、今まで何のために活動してきたのか分からない。
その程度で折れるような軽い気持ちで世話をしてきたのではないハズだ。
それにここで手を引けば、この猫たちはどうなる。
たくましい子ばかりではない。
弱い個体は食べ物にありつけずに餓死するかもしれない。
そうではない強い子も、生きるためにゴミを漁ったり、他人の敷地に入り込んだりするかもしれない。
そうなれば野良猫はますます忌み嫌われる。
迷惑に思った人が撃退するだけならまだいいが、残酷な方法で駆除するかもしれない。
そういう悲観的な未来を想像してしまうから、奈緒はひとりになっても活動を続けるつもりでいた。
「市も推進している地域猫活動を、私たちがやめさせることはできません。ただ、そういった苦情がある、ということは知っておいてください。トラブルにならないためにも……」
不公平だ、と奈緒は思う。
猫が迷惑だという人はこうして役所などに苦情を申し入れることができるが、活動家が訴える場所はほとんどない。
双方にそれなりに主義主張があるなら、公正な場で意見をぶつけるべきだ、と彼女は考えている。
「考えておきます」
結局、美子と幸治はほとんど何も言えないまま、またこの件も何の進展もないままに両者は別れた。
目の前を飛ぶハエを手で払いながら、幸治はため息まじりに呟く。
近くに喫茶店はないのかと見回すが、あるのはあと1時間もすれば開店する居酒屋ばかりだった。
「我慢しろよ。もうすぐ来るだろうから」
ガムを噛みながら野瀬が言う。
こちらもイライラしているようだ。
木部との約束どおり、2人は件の餌やりと接触するために東公園に来ていた。
いつも決まって夕方に現れるというので時間を計ったつもりだったが、来るのが早すぎたらしい。
どこかで時間をつぶそうと考えたが周囲に手頃な店はない。
餌やりは手際がよいらしく、しばらくするとすぐに帰ってしまうというから、公園が見える位置で待たなければならない。
ということで隣接するアパートに隠れるように立っている2人であるが、これでは不審者と疑われてもおかしくはない。
幸治はあまり不満を言わないようにした。
今日はいよいよ直接対決である。
衝突が嫌いな彼にとっては逃げ出したい仕事だ。
代理を務めてくれる野瀬の機嫌を損ねてしまうとマズい。
彼はまだ事が始まる前から板挟み状態だった。
「遅いな」
野瀬が手を閉じたり開いたりしている。
勤務中の喫煙は禁止されているが、あやうくそれを無視しそうになる。
待つこと30分。
今日は来ないのでは、と諦めかけたところに、薄汚れた猫が前を通り過ぎた。
その後を追うようにさらに2匹、同じ方向へ走っていく。
ああ、来てしまった、と幸治は肩を落とした。
「よし、行くぞ」
探偵気取りで野瀬が小走りに公園に向かう。
重い足を無理やり動かして幸治も続く。
「あの、すみません。私、ちいき課の野瀬といいます」
彼は名乗っただけだが、それを高圧的に受け取った奈緒はおもむろに顔を上げ、挑むような視線を投げつけた。
「失礼ですが、いつもここで餌をやってるんですか?」
奈緒は身構えた。
「そうですけど、何か?」
気弱になってはいけない。
わずかでも後ろめたさを見せれば、向こうはそこに付け入ってくる。
動じないことだ。
「及川さん、どうしたの?」
奥の水飲み場で水を汲んでいた美子が戻ってきた。
彼女には奈緒が男たちに絡まれているように見えていた。
「役所の人よ。何とかっていう課の」
「ちいき課です」
野瀬が言う。
美子が会釈してその顔を見る。
そして目が合う。
彼の後ろにいる、もうひとりの男と。
「美子……?」
「あなた……」
2人は付き合い始めた頃の、互いに運命の出会いを感じていた当時のように、茫然と見つめ合った。
「どうなってるんだ、これ」
固まったまま動かない幸治に、野瀬が苛立たしげに言った。
「妻だ」
「そ、そうなのか」
これは野瀬にはやりにくい。
相手に同僚の身内がいるとなると、強く出ることもできない。
常に幸治と美子の顔を窺いながらでは、お願いをするのにも気を遣わざるを得ない。
奈緒も同様で、野瀬の口調から批判的なことを言ってくると踏んだが、美子の手前ぞんざいな振る舞いはできない。
「ええ、と……それでですね、私たちが来たのは、猫に餌をやって……あげてる人がいると。ちょっと控えてほしいという声がありまして」
ちらちらと幸治の様子を見ながら野瀬が伝える。
「そう言われても、ここは別に禁止されてるワケじゃないですし……。まあ、そういう声があるのも分かりますけど」
奈緒も美子の表情を見ながらの返答である。
場を困惑させている当の2人は、何度か視線を交えたあと、ばつ悪そうに俯いたままだった。
そんな妙な人間模様などおかまいなしに、一度は幸治たちの登場で散り散りになった猫たちは、食事はまだかと足元をうろうろしている。
いいですか、と対話を保留させた奈緒は手早く小皿を並べ、充分な量のフードを注いだ。
「私たちとしても、どうしても、というつもりはないんですよ。ただ、そういう声が大きくなってきた、と。糞尿被害に遭われている方も」
野瀬はこの仕事に就いて以来、初めて言葉を選びながら話した。
対人交渉はこれまでもあったが、役人というアドバンテージのお陰でたいていはスムーズに片付いていた。
「排泄で汚されることはないと思いますよ。ほら」
奈緒が指差した先では、茶トラがブランコの近くで用を足していた。
排泄が終わると前脚で器用に砂をかけ、それを隠した。
「ああやって隠す習性があるんです。猫砂というのも売ってるでしょう? それと同じことですよ」
「たしかに……でも、今は、ですよね。一日中見ているワケではないでしょう。たとえば昼間とかは?」
「それは……」
痛いところを突かれて奈緒は口ごもる。そもそも二四時間面倒を見られるなら家で飼えばすむ話だ。
「相当怒ってらっしゃるんですか?」
美子の手前もあったが、批判の声にも耳を傾けなければいけないと感じた奈緒は、野瀬を通じて周囲の動向を探ろうと考えた。
彼はしばらく黙っていたが、
「大半はこちらから聞き出して文句が出る程度です。怒っているというより迷惑に感じているレベルでしょうか。ただ、中にはどうしても許せない、とかなりお怒りの人もいます」
顔を真っ赤にして怒鳴る木部を思い浮かべながら言った。
(やめさせろ、とか苦情を入れたのね、きっと)
珍しいことではないし、そう言いたい人の心情も理解できないではない。
害虫がいれば殺すように、不快なものを排除したがるのは当然の反応だ。
実際、奈緒も蚊やハエを叩いたことは何度もある。
猫をかわいがる人もいれば、仇のように憎む人もいる、ただそれだけのことである。
だが理解できるのもそこまで。
部屋にいる害虫を殺すのは分かるとして、わざわざ隣町まで害虫を殺しに行くような人間の神経はとうてい理解できない。
(そういう人は嫌いなものを徹底的に排除しなきゃ気が済まないのよ)
奈緒は失礼にならないように野瀬の顔を見る。
彼はどういうスタンスなのだろうか。
やめさせたいのか、それとも苦情を伝えに来ただけなのか。
「お話は分かりました」
だからどうするか、は言わない。
続けるとも辞めるとも答えないのが、ここでは最適な回答だ。
「及川さん、どうするの?」
黙っていればいいのに、美子が結論を知りたがった。
「考えるわ。これから」
思ってもいないことを奈緒は言う。
やめる、という選択肢は彼女にはない。
たった一度の苦情に屈しては、今まで何のために活動してきたのか分からない。
その程度で折れるような軽い気持ちで世話をしてきたのではないハズだ。
それにここで手を引けば、この猫たちはどうなる。
たくましい子ばかりではない。
弱い個体は食べ物にありつけずに餓死するかもしれない。
そうではない強い子も、生きるためにゴミを漁ったり、他人の敷地に入り込んだりするかもしれない。
そうなれば野良猫はますます忌み嫌われる。
迷惑に思った人が撃退するだけならまだいいが、残酷な方法で駆除するかもしれない。
そういう悲観的な未来を想像してしまうから、奈緒はひとりになっても活動を続けるつもりでいた。
「市も推進している地域猫活動を、私たちがやめさせることはできません。ただ、そういった苦情がある、ということは知っておいてください。トラブルにならないためにも……」
不公平だ、と奈緒は思う。
猫が迷惑だという人はこうして役所などに苦情を申し入れることができるが、活動家が訴える場所はほとんどない。
双方にそれなりに主義主張があるなら、公正な場で意見をぶつけるべきだ、と彼女は考えている。
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