小さな命たち

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「やりにくくて、しかたがなかったぜ」
手元の書類を流し読みしながら野瀬が言った。
「そういう偶然もあるんですね」
音無が後ろの棚からバインダーファイルを取り出す。
野瀬は整理が下手だから、彼が事務所にいる日は机いっぱいに散らばった書類の片付けに追われる羽目になる。
「運命の出会いみたいでいいじゃないですか」
「もう結婚してるんだから運命も何もないだろ。こっちは両方に気を遣って、ろくに話にならなかったんだぞ」
「それはお気の毒に」
いつも勢いだけで仕事をしているような野瀬が、牙を抜かれたみたいに萎れているのがおかしくて、音無はつい笑ってしまった。
今日は幸治と田沢はそれぞれ別の現場に向かっている。
それなりに大きな案件らしく、時間もかかるということで2人とも直行直帰だった。
「あの公園、いろいろトラブルがありますね」
「あの辺じゃ一番大きいからな。人が集まりゃそれだけ問題も出るさ。公園といえば、看板はどうなったんだ?」
「先週、建設課が設置したそうですよ。意外と時間がかかるんですね」
ちいき課は仕事柄、個人プレーだが情報の共有は欠かさない。
相手先との折り合いが悪く担当者が交代することもあり、その際に引き継ぎをスムーズにするためだ。
「稟議とか決裁とかいろいろな。うちを見習ってほしいくらいだ」
「収拾がつかなくなるだけですよ」
ひっきりなしだった電話の嵐が少し落ち着き、音無にも冗談を言うだけの余裕がでてきた。
やはり担当者が実際に赴くと、区民の態度は大きく変わる。
実際には何の解決もしていないのに、顔を見せるだけで怒りが治まるというケースも多い。
「いやいや、いちいち上に諮ってちゃ進むものも進まねえよ。許可が下りるのを待ってる間に仕事が増えちまう」
野瀬は数年前まで衛生課に勤めていた。
そこそこの手腕を発揮していたが、上意下達型の典型的な縦割りの風土に嫌気が差して、ちいき課への転属を希望した。
衛生課では個人の意見が封殺される風潮があり、加えて上司の決裁が遅いことも馴染めなかった理由だという。
「だから昨日の件も早めに解決したかったんですね」
「話さえつけりゃ一応は片付いたんだ。野良猫に餌やってる奴ってのは、どう説得したって止めないのが大半だからな。昨日のはわりとちゃんとした活動家みたいだったけどな」
「ここ最近でしたっけ? 地域猫って言葉が広がったのって」
「言葉はな。実際はかなり前からそういう活動はあったらしい。無責任な餌付けと区別するため、って話もあるけどどうだろうな」
「野瀬さんはやっぱり反対ですか?」
口調にやや敵意を感じた音無は、否定的に捉えているのだと思った。
実際、この種のトラブルを担当するときは、彼は決まって面倒くさそうな態度をとる。
「当然だろ。飼いたいなら家で飼え、って言いたいね」
予想したとおり、野瀬は忌み嫌うように吐き捨てた。
「家で飼えないから外で飼ってるんじゃないんですか?」
「なら飼うなって話だよ。牧場じゃねえんだから。いやいや、牧場だって柵で囲って管理してる。外飼いってのは無責任の極みだね」
この場に幸治がいないからこそ、野瀬もここまで豪語できた。
彼がいたら、この発言はそのまま美子に対する当てつけになってしまう。
「厳しいですね」
言葉遣いといい、考え方といい、彼は多くの点で幸治や田沢と対照的だった。
場を取り繕うためにその場しのぎのことを言ったり、相手との対立を避けるため当たり障りのないことを言ったりしない。
もちろん進んでことを荒立てる気は野瀬にはない。
裏表の使い分けが苦手なだけだ。
「外飼いなんてな、猫にとっちゃ災難だぜ。だいたいが若いうちに交通事故か病気で死ぬんだ。家にいりゃ車に轢かれることも、怪我や病気を放置されることもないだろ。それなら最初から野良のほうがいい。生殺しも同然だ」
「あら……?」
地域猫憎しの感情で話していたと思っていた野瀬が、意外にも猫の立場を考慮した発言をしたため、音無はしばらく呆気にとられていた。
しかも思い込みや憶測でなく、おそらく現実を語っているところも、普段の彼とのギャップを感じさせる。
「詳しいんですね。ご自宅で飼ってるんですか?」
野瀬は大袈裟に手を振った。
「昔はな。でも駄目だ。どいつもこいつも寿命が短すぎる。元気な時はいいが、最期を見送るのはつらいぜ。かわいがってたなら、なおさらだ」
意外な一面を見た、と彼女は思った。
これなら地域猫の顛末に詳しい理由も納得がいく。
「ほんとは動物好きなんですね、野瀬さんって」
いつも横柄にかまえる彼が、人間の赤ちゃんをあやすように犬や猫を愛でる姿を想像し、音無は何とか笑いをこらえる。
「嫌いだね。好きだから嫌いなんだ。さっき言った外飼いの連中の話。少し前まで俺が衛生課にいたのは知ってるだろ? その時に何度かあったのさ。そういう死体を片付ける仕事が」
野瀬は缶コーヒーを一気に飲み干した。
「そうなんですか……」
それが嫌で辞めたんですか、とはさすがに訊けない。
聞くまでもなく彼の挙動や表情が、それも原因のひとつであると語っている。
「面倒みてたんだろうな、片付けてる時に傍で泣いてる爺さんがいたよ。轢き殺した犯人を許さないってさ。半分はあんたのせいだ、って言いたいのを何とか我慢したな」
「そういう考え方もあるって、はじめて気付きました」
音無は給湯室で作ったコーヒーを差し出した。
「私の家の近くにもいるんです。マンションなんですけど、一階の階段の裏で飼ってる人。最初は1匹だけだったのに、だんだん数が増えて――」
「ちゃんと捕まえて手術してない奴なんだろ。手に余るくらいなら、やらないほうがマシだ」
口調は力強い。
迷いはなく、この考え方が正しいと確信しているようだった。
しかしその主張が強固であるほど、困ることもある。
「あの、それだと……呉谷さんのことはどうするんですか?」
「そうなんだよなあ……」
幸治の名前を出され、先ほどの威勢がウソのように萎れる。
相手によって主張を変えたくはないが、同僚やその妻となるとそうはいかない。
野瀬は腕を組んでうなった。
「やっぱりやめさせたほうがいい、って考えですか?」
という音無の問いに彼は渋々といった様子で頷く。
「一番いいのは家に連れ帰って飼うことだな、それでも足りなきゃ飼ってくれる人を探す。あんな公園の端でずっとやるべき活動じゃねえよ」
その結果、事故や病気で死んだ野良猫を何度も見ているからこそ、野瀬はやはり譲歩できそうになかった。
「なるほど……」
と呟いた音無は野瀬ではなく、パソコンの画面を見ていた。
「何してるんだ?」
「ちょっと調べてみたんです。地域猫活動がどんなのか」
役に立ちそうなページをいくつか開き、記事を流し読みしていく。
「全国的に広がっている活動ですけど、成功例はとても少ないようですね。数が減らないどころか、反対に増えている地域もあるみたいです」
「そりゃそうだろうな。何年も前からやってるなら、そろそろ活動が終わるハズなんだから、いまだに活動って言ってるのは成果が出てない証拠だ」
それ見ろ、と言わんばかりに野瀬は語気を強めた。
「まあ、少なからず上手くいってるケースもあるみたいだけどな。そういうのはよほど条件が揃っていて、しかも運が良かった場合だろ」
「条件?」
「まず活動してる奴がしっかりしてることだな。捕まえて手術するのは当然として、餌をやったら片付ける。里親も探す。何より途中で投げ出さない。そういう連中がやってるなら、まあ及第だろ」
「え、それは当然のことじゃないんですか?」
「普通はそうなんだよ。ところがロクに面倒も見ないで、餌をばらまくだけの連中も活動だと言い張ったりするんだ。そういう輩にとっちゃ便利な言葉だよな。そんなものまで分母に入れてちゃ、そりゃ成功率も下がるだろうさ。ああ、念のために言っとくけど、呉谷たちはそうじゃないぜ。何匹かいた猫の耳に手術跡があったし、餌場の手入れもしてるみたいだったからな」
聞きながら音無はページを読み進めていく。
失敗した原因をまとめているサイトを見ると、たしかに野瀬が言ったような理由で活動が破綻している例がいくつも挙がっている。
猫の繁殖能力は高く、わずかなミスから取り返しのつかない事態に発展するケースも少なくないようだ。
「それと周りの理解だな。これもけっこう重要だ。知らない奴からしたら、勝手に餌をやって勝手に帰っていくようにしか見えないからな。野良猫に迷惑してる奴は、当の猫と活動家を敵視するんだ。そうなったら関係の修復は難しくなる。今回の木部っておばさんも多分、このケースなんじゃないか?」
こんなに多弁だっただろうか、と音無は思った。
もしかしたら彼は、猫について特別な思い入れがあるのかもしれない。
活動自体には反対していながらも、多面的に分析しているような口ぶりに、彼女は驚きを隠せなかった。
「地域猫というからには、地域の理解と協力を得ること、そしてそれを継続することが大切である――と書かれてますね。独り善がりはダメってことですね」
「そういうこった。苦情が出てるってことは呉谷の奥さんや、及川って人も、ちゃんと説明できてなかったんじゃないか?」
「でも一軒一軒回って全員に分かってもらうのって大変じゃないですか? ひとりでも反対されたらおしまいでしょう?」
「難しいところだな。ひとりに反対されたからって諦めるなら、そいつの発言力がものすごく強いってことになるぜ。多数決が自然なんじゃないか? 僅差なら別の案も要るだろうが、ごく少数の意見まで吸い上げてちゃ何も進まねえ」
「たしかに……」
件のページには成功例が少ないもうひとつの大きな原因が記されている。
それが第三者の介入だ。
こう見ると大袈裟な話に思えてしまうが、つまるところ活動家でも近隣住人でもない、別の人間が紛れ込むという。
多くはそこで活動が行われていることを知って遠方からやって来た者で、飼っていた猫を捨てていくらしい。
引っ越す先で動物を飼えない。
旅行に行きたくても行けない。
思っていたより大きくなった。
言うことを聞かない。
かわいくない……。
理由はさまざまだが、活動場所に捨てれば誰かが面倒を見てくれるから、と罪の意識を感じずにすむのか、こうした遺棄が後を絶たないという。
おまけにこのような無責任な飼い主がわざわざ飼い猫に不妊手術をするハズもなく、捨てられた地域で繁殖、活動家の努力も虚しく個体数が増加していく、という悪循環に陥ってしまう。
基本的に地域猫の手術費用は活動家が自腹を切るが、増えるたびに施術していては経済的負担もバカにならない。
ゆえに活動を断念し、さらに不幸な猫が増えるという結末を迎えることもある。
(ひどい話よね……)
結局は人間の身勝手が引き起こす問題で、動物には罪はなく、むしろ彼らは犠牲者だ、というのが記事を読んだ音無の率直な感想だった。
そう考えれば野瀬も木部も、活動家たちも、みな間違ってはいない。
だが誰もが間違っていないからこそ、立場が異なるゆえに解決しないのだ。
(けっこう大変な問題なのね、これって)
記事のリンク先をクリックしかけた彼女は、その見出しが過激な内容を含んでいると察知し、急いでブラウザを閉じた。
開くつもりだった先の記事には、活動を無理やり成功させる手段についてが生々しく書かれていた。
「ま、とりあえず及川って人が、どんな意図でやってるか聞くことからだな。主体になってるのはあの人らしいから」
「呉谷さんじゃなくて?」
「手伝ってるって感じだった。まずは及川と話をして、それから木部に伝えるしかないか……。正直、ここまでやらなきゃならないのか、って話だけどな」
「それにしては積極的に見えますけど?」
「一度は引き受けた案件だからだよ。それに木部があそこまでキレてるんだから、長引けばどうしようもなくなる。ヘンな行動を起こされる前に、妥協でもいいから決着させておきたいんだ」
「ヘンな行動って……?」
さらりと言ったその単語に、妙な胸騒ぎがして音無が問う。
だが彼は鼻で笑って、
「知らないほうがいいと思うぜ?」
含みのある答えかたをした。
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