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11 毀誉の声
11-2
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人間は静けさを嫌うようで、ほんの数分の間でさえ口を動かさずにはいられないらしい。
幸治と野瀬に渡された資料を見ながら、集まった200人あまりの住民は記事を指差しながら何事かを囁き合っている。
しかし興味を持っている分だけまだマシなほうで、ふんぞり返って腕を組み、テーブルに乗せられた資料に見向きもしない者もいる。
どうせ説明会が始まれば嫌でも目を通さなければならないから、敢えて触らないのかもしれない。
「行き渡ったか?」
「ああ、足りないかもと思ったけど数部余った」
「それなら誤差の範囲だろ。見立てがいいじゃないか」
演壇の脇で会場の様子を眺めながら、2人は最後の打ち合わせをしていた。
といって込み入った話はしない。
どのタイミングで何を言うかを確認する程度のものである。
「慣れてないんだよな、俺。こういうゴチャゴチャしたのは田沢の仕事だろうに」
奈緒の懇願があったから引き受けたものの、野瀬は対立する両者の間に割り込んで仲裁する、という仕事は苦手だった。
どちらかというとクレーマーとのサシの勝負のほうが向いている。
そのほうが遠慮する相手が少ないからだ。
「いや、本来なら僕がやるべきことだよ。この案件も元は僕が受け持っていたものだからな」
その時はここまで話が膨らむとは考えていなかった。
餌やりをやめさせろ、という苦情はクレーマーと餌やりの一対一の構図でしかなかったのだ。
それが公園を中心に猫の虐待死や子どもの事故死が絡むことで、周辺の関心も高まり、もはや一個人の問題では済まされなくなった。
「今さらだけど謝らせてくれ。僕ひとりではここまで進められなかった」
「当事者の中に身内がいたらやりにくいのは当然だ。及川が俺に言ってきたのも、お前が相手だと奥さんに気を遣うからだろ。こういうのは他人同士のほうが上手くいくんだよ」
必然的にこうなった、と野瀬は言う。
この件の人間関係までは課長の耳には入っていないが、もし知っていれば間違いなく担当を変更させただろう。
野瀬か田沢か、どちらかに任されたにちがいない。
「そうかもしれないけど……」
仕事を投げ出したようで、幸治はすっきりしない。
「それより、ほら」
野瀬があごで示した先を見ると、ぎこちない歩き方で奈緒たちがやってきた。
説明役の中心となるのは、やはり以前から活動を続けてきた奈緒である。
美子とミサキはフォローに回るが、2人にも奈緒にはない独自の切り口があり、彼女だけでは偏りがちな説得に別の一面を提示する役割がある。
3人が演壇に立ったことで、ざわついていた場が静まり始める。
「よし、行こう」
幸治は演壇の横に立ち、マイクを手に取った。
「皆さま、ええ、本日はお忙しいところお集まりいただき、ありがとうございます。私、ちいき課の呉谷と申します」
簡易の音響設備のせいで、ややくぐもった声がそう広くない集会所に響く。
それまで資料に目を落としていた何人かが、そこではじめて演壇に注目した。
「ホームページ等の広報でご覧になったかと思いますが、ああ、本日は付近の公園に於いての……地域猫活動の説明および同活動について、近隣の皆さまからのお声をいただきたく、これより説明会を開催し――いたします」
この挨拶も相当練習したハズなのだが、実際に大勢を前にすると上手くいかない。
ここで一旦言葉を切り、聴衆の反応を窺う。
出だしとしては悪くない。
顔つきを見る限り、感情的になって噛みつきそうな人はいない。
といって、無条件に賛同しているようにも見えない。
「ご存じの方もおられると思いますが、地域猫活動については市も積極的に推進しています。しかしながらですね、その周知も充分とはいえません。本日は是非はもちろんのこと、ええ、地域猫活動とはどのようなものかを知っていただくことも趣旨のひとつであります」
立場上、これがぎりぎり美子たちを援護できる言葉選びだ。
これ以上の言を重ねることは片贔屓につながる。
「それでは早速ですが、当該活動を中心になって実施している及川さんより、ご説明いただきます。ここからはお配りした資料を基に進めてまいりますので、そちらをご覧になってください。また途中、休憩を挟みます。その際には私が案内いたします。なお、質疑応答に関しては別に時間を設けておりますので、よろしくお願いいたします」
幸治は深々と頭を下げた。
額をつたう汗が床に届きそうになる。
「及川奈緒と申します。皆さま、お忙しい中お集まりいただきまして、厚く御礼申し上げます。また、このような機会を頂戴いたしましたことにも重ねて感謝いたしますとともに、この度の――」
練習していたのは幸治だけではないようだ。
「お前より上手いな」
野瀬が意地悪そうに言った。
「まず、地域猫活動の意義と、その内容についてご説明いたします。資料の1ページ目から3ページ目に記載しています。この活動はいわゆる野良猫の繁殖を食い止め、その一代限りで不幸な命を終わらせることを目的としています」
慇懃すぎる長い前口上のおかげで、奈緒はすんなりと本旨に入った。
「野良猫は何もしなければ増え続けます。年に平均して2回の繁殖期があり、一度に数匹を出産します。その生まれた猫がまた交尾をして出産して……を繰り返すことで爆発的に増加することになります」
具体的な数値を織り交ぜながら、奈緒は滔々と述べた。
いざ聴衆を前にして腹を決めたか、彼女の言には控えめな力強さがあった。
「猫は生きていくために食べ物を確保しなければなりません。自然が多ければまだしも、そうでなければ民家に侵入したりゴミを漁ったりして、食いつないでいきます。これでは猫にとっても地域にとっても不衛生で危険です」
何人かがひそひそと話し始めた。
その表情は嫌悪感を示すものであり、視線は手元の資料に注がれている。
「活動ではまず全ての猫に不妊手術を実施します。繁殖能力が失われれば、当然ですがそれ以上増えることはありません。しかし万が一にも未実施のオスとメスが一組でも存在すれば、意味がなくなります。そこで個体数を確認しながら確実に捕獲して手術をします」
資料には捕獲器や手術の様子の写真も貼り付けられている。
画質が良くないため生々しいものではないが、読み手にはイメージは伝わる。
「それだけではありません。毎日、決まった場所、決まった時間に給餌――つまり餌やりをします。これは猫に飢えを覚えさせないことで、ゴミ漁りをやめさせる意味があります。加えて餌場に集まる習性を利用して、個体数の確認や、怪我、病気などの状態を診る意味もあります」
ここで女性から手が挙がった。
「ちょっと待ってください。決まった場所で、ってつまり手術した後にまた野に放すってことですよね。そのまま飼わないんですか?」
「すみませんが、質疑応答は後ほど――」
「いえ、かまいません」
幸治が申し訳なさそうに言ったのを奈緒が制した。
「もちろん引き取った子もいますが現状、私たちが見ている地域猫は10匹ちかくいますので、とてもそこまでは手が回らないのです」
「だから外で飼ってるってのか。無責任じゃねえか」
今度はガラの悪い男だ。
「こないだ車で轢きそうになったんだよ。傷でもついたらどうする? お前が弁償してくれんのかよ?」
「それは……」
「野良猫なんて放っときゃいいんだよ。餌やるからバカみたいに増えるんだよ。減らしたいなら餌なんてやらねえで餓死させりゃいいだろうがよ」
過激な物言いに、さすがに野瀬が割って入った。
「お静かに。個別の意見は後で聞きますから。及川さん、続けてください」
「え、ええ……」
いささか狼狽したが、野瀬が強い口調で押さえてくれたおかげで奈緒は冷静さを取り戻した。
「餌場については衛生面に配慮して、きちんと後始末をしています。食べ残しは持ち帰っていますし、汚れれば掃除もしています。場所も公園の隅を選んでいるので、他の利用者の邪魔にならないようにしているつもりです」
場内で一斉にページがめくられる音がした。
ここで内容に区切りがつく。
「これは犬猫の引き取り状況のデータです。毎年およそ10万匹以上の猫が殺処分されています。処分数は年々減少し、一昨年に初めて10万匹を下回りましたが、それでも多くの命が失われていることに変わりはありません」
簡単な棒グラフが処分数の多さを語る。
過去数年分のデータでは引き取られた猫のうち、里親に譲渡されるなどして処分を免れた個体もあるが、それらは1割程度だ。
「10万匹が処分されている、といえば単なる事実ですが、この数値は1匹の猫の処分が10万回行われている、ということです。何の罪もない、人間の身勝手で弄ばれた命が、です」
努めて感情的にならないようにしたが、どうしても命の尊さがテーマになると熱が入ってしまう。
特に先ほどのような心ないヤジを飛ばされた後となればなおさらだ。
「私たちはこのような不幸な子を少しでも減らしたく、活動しています。こうした活動をしている人は全国にもたくさんいます。地道に続ければ、いずれ殺処分ゼロも実現できるものと考えています」
その後、約1時間にわたって奈緒は力説した。
彼女が語ることはほとんど資料に記載されているため、常に視線を落としたままの聴衆も多かったが、しっかりと奈緒の目を見て聴き入っている者もいた。
「それでは、ここで15分間の休憩をとりたいと思います」
途中に質問やヤジが入ったため予定を少しオーバーしたが、ここまでは順調に進んでいる。
控え室に戻った奈緒たちは手応えを感じていた。
もともと賛否があって当然のテーマだ。
こうした場で自分たちの意見をしっかり主張できた時点で大きな前進である。
「次は私たちの出番ね」
後半は美子とミサキが主軸になる。
話し手を変えるのは、これまでとは異なる方向から切り出すためだ。
奈緒は活動の実績が長く、紆余曲折を経ているために説明が上手い。
説得力を支えるデータはミサキがネットで収拾した情報に頼るが、語りそのものは日々の生活をたどるだけでよいから淀みがない。
なにより彼女自身が地域猫活動の正当性や必要性を確信しているために、自信に満ちた訴えかけは聞き手の心にたしかに響いていた。
しかしなまじ経歴があるために、どこか押しつけがましい印象は拭えない。
特に否定的な者からすれば彼女の口調にかえって意固地になってしまう。
そこで美子たちの出番となる。
2人はどちらかというと、野良猫を何とかしたい、という感情の面が先に立って活動に加わった経緯がある。
制度や成果は抜きにして、地域猫をどうしたいか、あるいはどうすべきなのか。
演壇に立ちこそすれ、2人はむしろ聴衆の目線に立って語ることができるのだ。
「けっこう真剣に聴いてくれるものね」
緊張から解き放たれ、奈緒は呆けたように天井を見上げた。
強制ではなく自分の意思で足を運んできたのだから当然だが、多くは奈緒の言葉に耳を傾けていた。
「それだけ気になる話だった、ってことよ」
すぐ横で聴いていた美子もそう思っていた。
「ごめんなさいね……」
ペットボトルを持つ手に力を込め、奈緒が囁くように言う。
「どうして謝るんですか?」
奈緒が物憂げな表情を見せたので、ミサキが首をかしげた。
「私の勝手でこんな大事にしてしまったことよ。相談するべきだったし、本来なら今日だって、私ひとりで話すべきだったんだわ」
「ああ、そんなこと……」
気にしないで、と美子は笑い飛ばした。
「あの子たちをどうにかしたい、っていう気持ちは私たちも同じよ。こちらこそ何もしなくて、及川さん任せになってるのを申し訳なく思ってるの」
「そう言ってもらえると気分が楽になるわ」
「本当よ」
美子とミサキが顔を見合わせたところで、野瀬が休憩終了を伝えに来た。
幸治と野瀬に渡された資料を見ながら、集まった200人あまりの住民は記事を指差しながら何事かを囁き合っている。
しかし興味を持っている分だけまだマシなほうで、ふんぞり返って腕を組み、テーブルに乗せられた資料に見向きもしない者もいる。
どうせ説明会が始まれば嫌でも目を通さなければならないから、敢えて触らないのかもしれない。
「行き渡ったか?」
「ああ、足りないかもと思ったけど数部余った」
「それなら誤差の範囲だろ。見立てがいいじゃないか」
演壇の脇で会場の様子を眺めながら、2人は最後の打ち合わせをしていた。
といって込み入った話はしない。
どのタイミングで何を言うかを確認する程度のものである。
「慣れてないんだよな、俺。こういうゴチャゴチャしたのは田沢の仕事だろうに」
奈緒の懇願があったから引き受けたものの、野瀬は対立する両者の間に割り込んで仲裁する、という仕事は苦手だった。
どちらかというとクレーマーとのサシの勝負のほうが向いている。
そのほうが遠慮する相手が少ないからだ。
「いや、本来なら僕がやるべきことだよ。この案件も元は僕が受け持っていたものだからな」
その時はここまで話が膨らむとは考えていなかった。
餌やりをやめさせろ、という苦情はクレーマーと餌やりの一対一の構図でしかなかったのだ。
それが公園を中心に猫の虐待死や子どもの事故死が絡むことで、周辺の関心も高まり、もはや一個人の問題では済まされなくなった。
「今さらだけど謝らせてくれ。僕ひとりではここまで進められなかった」
「当事者の中に身内がいたらやりにくいのは当然だ。及川が俺に言ってきたのも、お前が相手だと奥さんに気を遣うからだろ。こういうのは他人同士のほうが上手くいくんだよ」
必然的にこうなった、と野瀬は言う。
この件の人間関係までは課長の耳には入っていないが、もし知っていれば間違いなく担当を変更させただろう。
野瀬か田沢か、どちらかに任されたにちがいない。
「そうかもしれないけど……」
仕事を投げ出したようで、幸治はすっきりしない。
「それより、ほら」
野瀬があごで示した先を見ると、ぎこちない歩き方で奈緒たちがやってきた。
説明役の中心となるのは、やはり以前から活動を続けてきた奈緒である。
美子とミサキはフォローに回るが、2人にも奈緒にはない独自の切り口があり、彼女だけでは偏りがちな説得に別の一面を提示する役割がある。
3人が演壇に立ったことで、ざわついていた場が静まり始める。
「よし、行こう」
幸治は演壇の横に立ち、マイクを手に取った。
「皆さま、ええ、本日はお忙しいところお集まりいただき、ありがとうございます。私、ちいき課の呉谷と申します」
簡易の音響設備のせいで、ややくぐもった声がそう広くない集会所に響く。
それまで資料に目を落としていた何人かが、そこではじめて演壇に注目した。
「ホームページ等の広報でご覧になったかと思いますが、ああ、本日は付近の公園に於いての……地域猫活動の説明および同活動について、近隣の皆さまからのお声をいただきたく、これより説明会を開催し――いたします」
この挨拶も相当練習したハズなのだが、実際に大勢を前にすると上手くいかない。
ここで一旦言葉を切り、聴衆の反応を窺う。
出だしとしては悪くない。
顔つきを見る限り、感情的になって噛みつきそうな人はいない。
といって、無条件に賛同しているようにも見えない。
「ご存じの方もおられると思いますが、地域猫活動については市も積極的に推進しています。しかしながらですね、その周知も充分とはいえません。本日は是非はもちろんのこと、ええ、地域猫活動とはどのようなものかを知っていただくことも趣旨のひとつであります」
立場上、これがぎりぎり美子たちを援護できる言葉選びだ。
これ以上の言を重ねることは片贔屓につながる。
「それでは早速ですが、当該活動を中心になって実施している及川さんより、ご説明いただきます。ここからはお配りした資料を基に進めてまいりますので、そちらをご覧になってください。また途中、休憩を挟みます。その際には私が案内いたします。なお、質疑応答に関しては別に時間を設けておりますので、よろしくお願いいたします」
幸治は深々と頭を下げた。
額をつたう汗が床に届きそうになる。
「及川奈緒と申します。皆さま、お忙しい中お集まりいただきまして、厚く御礼申し上げます。また、このような機会を頂戴いたしましたことにも重ねて感謝いたしますとともに、この度の――」
練習していたのは幸治だけではないようだ。
「お前より上手いな」
野瀬が意地悪そうに言った。
「まず、地域猫活動の意義と、その内容についてご説明いたします。資料の1ページ目から3ページ目に記載しています。この活動はいわゆる野良猫の繁殖を食い止め、その一代限りで不幸な命を終わらせることを目的としています」
慇懃すぎる長い前口上のおかげで、奈緒はすんなりと本旨に入った。
「野良猫は何もしなければ増え続けます。年に平均して2回の繁殖期があり、一度に数匹を出産します。その生まれた猫がまた交尾をして出産して……を繰り返すことで爆発的に増加することになります」
具体的な数値を織り交ぜながら、奈緒は滔々と述べた。
いざ聴衆を前にして腹を決めたか、彼女の言には控えめな力強さがあった。
「猫は生きていくために食べ物を確保しなければなりません。自然が多ければまだしも、そうでなければ民家に侵入したりゴミを漁ったりして、食いつないでいきます。これでは猫にとっても地域にとっても不衛生で危険です」
何人かがひそひそと話し始めた。
その表情は嫌悪感を示すものであり、視線は手元の資料に注がれている。
「活動ではまず全ての猫に不妊手術を実施します。繁殖能力が失われれば、当然ですがそれ以上増えることはありません。しかし万が一にも未実施のオスとメスが一組でも存在すれば、意味がなくなります。そこで個体数を確認しながら確実に捕獲して手術をします」
資料には捕獲器や手術の様子の写真も貼り付けられている。
画質が良くないため生々しいものではないが、読み手にはイメージは伝わる。
「それだけではありません。毎日、決まった場所、決まった時間に給餌――つまり餌やりをします。これは猫に飢えを覚えさせないことで、ゴミ漁りをやめさせる意味があります。加えて餌場に集まる習性を利用して、個体数の確認や、怪我、病気などの状態を診る意味もあります」
ここで女性から手が挙がった。
「ちょっと待ってください。決まった場所で、ってつまり手術した後にまた野に放すってことですよね。そのまま飼わないんですか?」
「すみませんが、質疑応答は後ほど――」
「いえ、かまいません」
幸治が申し訳なさそうに言ったのを奈緒が制した。
「もちろん引き取った子もいますが現状、私たちが見ている地域猫は10匹ちかくいますので、とてもそこまでは手が回らないのです」
「だから外で飼ってるってのか。無責任じゃねえか」
今度はガラの悪い男だ。
「こないだ車で轢きそうになったんだよ。傷でもついたらどうする? お前が弁償してくれんのかよ?」
「それは……」
「野良猫なんて放っときゃいいんだよ。餌やるからバカみたいに増えるんだよ。減らしたいなら餌なんてやらねえで餓死させりゃいいだろうがよ」
過激な物言いに、さすがに野瀬が割って入った。
「お静かに。個別の意見は後で聞きますから。及川さん、続けてください」
「え、ええ……」
いささか狼狽したが、野瀬が強い口調で押さえてくれたおかげで奈緒は冷静さを取り戻した。
「餌場については衛生面に配慮して、きちんと後始末をしています。食べ残しは持ち帰っていますし、汚れれば掃除もしています。場所も公園の隅を選んでいるので、他の利用者の邪魔にならないようにしているつもりです」
場内で一斉にページがめくられる音がした。
ここで内容に区切りがつく。
「これは犬猫の引き取り状況のデータです。毎年およそ10万匹以上の猫が殺処分されています。処分数は年々減少し、一昨年に初めて10万匹を下回りましたが、それでも多くの命が失われていることに変わりはありません」
簡単な棒グラフが処分数の多さを語る。
過去数年分のデータでは引き取られた猫のうち、里親に譲渡されるなどして処分を免れた個体もあるが、それらは1割程度だ。
「10万匹が処分されている、といえば単なる事実ですが、この数値は1匹の猫の処分が10万回行われている、ということです。何の罪もない、人間の身勝手で弄ばれた命が、です」
努めて感情的にならないようにしたが、どうしても命の尊さがテーマになると熱が入ってしまう。
特に先ほどのような心ないヤジを飛ばされた後となればなおさらだ。
「私たちはこのような不幸な子を少しでも減らしたく、活動しています。こうした活動をしている人は全国にもたくさんいます。地道に続ければ、いずれ殺処分ゼロも実現できるものと考えています」
その後、約1時間にわたって奈緒は力説した。
彼女が語ることはほとんど資料に記載されているため、常に視線を落としたままの聴衆も多かったが、しっかりと奈緒の目を見て聴き入っている者もいた。
「それでは、ここで15分間の休憩をとりたいと思います」
途中に質問やヤジが入ったため予定を少しオーバーしたが、ここまでは順調に進んでいる。
控え室に戻った奈緒たちは手応えを感じていた。
もともと賛否があって当然のテーマだ。
こうした場で自分たちの意見をしっかり主張できた時点で大きな前進である。
「次は私たちの出番ね」
後半は美子とミサキが主軸になる。
話し手を変えるのは、これまでとは異なる方向から切り出すためだ。
奈緒は活動の実績が長く、紆余曲折を経ているために説明が上手い。
説得力を支えるデータはミサキがネットで収拾した情報に頼るが、語りそのものは日々の生活をたどるだけでよいから淀みがない。
なにより彼女自身が地域猫活動の正当性や必要性を確信しているために、自信に満ちた訴えかけは聞き手の心にたしかに響いていた。
しかしなまじ経歴があるために、どこか押しつけがましい印象は拭えない。
特に否定的な者からすれば彼女の口調にかえって意固地になってしまう。
そこで美子たちの出番となる。
2人はどちらかというと、野良猫を何とかしたい、という感情の面が先に立って活動に加わった経緯がある。
制度や成果は抜きにして、地域猫をどうしたいか、あるいはどうすべきなのか。
演壇に立ちこそすれ、2人はむしろ聴衆の目線に立って語ることができるのだ。
「けっこう真剣に聴いてくれるものね」
緊張から解き放たれ、奈緒は呆けたように天井を見上げた。
強制ではなく自分の意思で足を運んできたのだから当然だが、多くは奈緒の言葉に耳を傾けていた。
「それだけ気になる話だった、ってことよ」
すぐ横で聴いていた美子もそう思っていた。
「ごめんなさいね……」
ペットボトルを持つ手に力を込め、奈緒が囁くように言う。
「どうして謝るんですか?」
奈緒が物憂げな表情を見せたので、ミサキが首をかしげた。
「私の勝手でこんな大事にしてしまったことよ。相談するべきだったし、本来なら今日だって、私ひとりで話すべきだったんだわ」
「ああ、そんなこと……」
気にしないで、と美子は笑い飛ばした。
「あの子たちをどうにかしたい、っていう気持ちは私たちも同じよ。こちらこそ何もしなくて、及川さん任せになってるのを申し訳なく思ってるの」
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