小さな命たち

JEDI_tkms1984

文字の大きさ
29 / 34
11 毀誉の声

11-3

しおりを挟む
資料を持つ手の震えを隠すのは難しい。
演壇に置いてしまえばいいのだが、それでは聴衆の顔を見るたびに頭を上げなくてはならなくなる。
(よくこんな状況ですらすら喋れたものね)
美子は感心した。
何人もの視線がこちらに向いているとなると、その緊張はかなりのものだ。
全員が好意的ならいいが、反対している者、中立の者に理解と賛成を求めるのだから責任は大である。
「ここからは私、呉谷が、お話させていただきます……」
ゆっくりと挨拶すれば少しは緊張も和らぐかと思ったが無駄だった。
「それでは……あの、ページをめくってください」
「お母さん、しっかりしてよ!」
ミサキが小声で怒鳴った。
「分かってるわよ……」
という拗ねた声がマイクを通して会場に響く。
離れたところで見ていた幸治は気を揉んだ。
奈緒の進行がスムーズだっただけに拙さが目立ってしまう。
「本来、犬も猫も、人間も……動物という意味では同じです。命です。それを人間の勝手な、都合で、いじめたりとか……殺したりするのは、間違っていると思います。飼うなら最後まで責任を持って飼う。どうしても飼えなくなったのなら、里親を探してその子が幸せになれるように努力する――そういう義務があると思うのです」
それでも話しているうちに落ち着いてくるもので、大半は資料の音読だが次第に聞き取りやすい声になっていった。
「どうか、ほんの少しでかまいません。優しい気持ちをあの子たちに向けてあげてください。それだけでも救われる命があるハズなんです」
心に訴えかける方法は間違いではない。
人間は機械ではない。
所詮は感情を捨てきれない生き物だから、愛護の精神があるならば美子の声は届くハズだ。
「そんなの、こっちには関係ないわよ」
どこかからそんな声が聞こえる。
幸治が真っ先に発言者を突き止めた。
「現に迷惑かけられてんのよ、こっちは。庭に入って来るだけでも嫌なのに、どれだけの花を駄目にされたか! 植木鉢だって割られたし、あっちこっちでトイレはするし、もう散々なの!」
木部だ。
会場の一番後ろにいるというのに怒声にはマイクもなしに演壇を振るわせるほどの迫力がある。
「相変わらずだな、あの人」
野瀬が幸治に耳打ちした。
「あんたたちだって、家にゴキブリがいたら殺すじゃないの! 虫はよくて猫がダメな理由ってなによ? 勝手なこと言ってんじゃないわよ!」
なんだあのばあさんは、とあちこちで囁かれる。
退屈な話で眠りかけていた老人も、木部のヒステリックな抗議に目を覚ました。
「あの、そういう話じゃ……」
「そこまで言うなら弁償してくれるんでしょうね! 今まであのクソ猫どものためにかかった費用、払ってちょうだい!」
突然、木部が立ち上がり、周囲の人を押しのけるようにして美子たちの前に進み出た。
幸治と野瀬は身構えた。
木部が暴力行為に出たらすぐに制止しなければならない。
だが木部は配られた資料を皆に見えるように高々と掲げ、破り捨てた。
「なにが地域猫よ! くだらない! 無責任なのはあんたたちじゃないの!」
ほとんどの人は呆気にとられていたが、ちらほらと拍手が起こっていた。
言うまでもなく、この活動に強烈に反対していた者たちだ。
「よく言った!」
「そのとおりだ」
両手でメガホンを作り、国会よろしくヤジを飛ばす様は正視に耐えない。
そんな後押しがあるものだから、木部はますます増長し、
「猫畜生なんてね! カラスの餌にでもなればいいのさ!」
細切れになった紙片を踏みつけながら吠えた。
さすがに我慢できなくなった幸治が木部の腕をつかむ。
「やめてください。席に戻ってください」
「なによ! 私はね、あんたたちに餌やりをやめさせろ、って言ったのよ。それなのに一向にやめない。やっと仕事したと思ったら、説明会開くから集まれ? 来たら来たで、餌やりを認めろだの、理解しろだの……冗談じゃないわ! 誰の税金で食べてるか分かってるの?」
興奮で呂律の回っていない声は最後のほうはほとんど聞き取れない。
ただ彼女が相当な怒りを持っていることは場に伝わり、実際に野良猫に不快感を抱く何人かには心強い援軍になった。
「これは地域猫活動について理解を深める場です。お気持ちは分かりますが、終わるまで待ってください。後で時間を設けると言ったでしょう」
美子たちの危機に幸治もつい声を荒らげてしまう。
「あんたたち側で勝手に話を進めてるだけじゃないのよ! 分かってほしいのなら、もっと頭を下げなさいよ、頭を! バカにしてんじゃないわ!」
今にも飛びかかりそうな勢いで木部が吠えた時だった。
「おばさん、ちょっと静かにしてよ」
入口近くで男の子が言った。
ちょうど声がわりの時期に差し掛かり、高音と低音が混じった少年独特の声質だった。
「おばさんのせいで話が進まないじゃん」
この雰囲気に大胆に切り込んだのは戸塚大虎だった。
彼は発言どおりことさら迷惑そうな顔で、批難がましく木部を見据えていた。
その目つきが憐れむような色を帯びていたので、木部はますますいきり立つ。
「生意気な子どもね! 私は大人の話をしてるの! 子どもは黙ってろ!」
言葉はだんだんと乱暴になる。
これ以上秩序を乱すなら退場してもらうしかない、と野瀬は動向を注視した。
「おばさん、猫よりうるさいね」
大虎が嘲笑するように真顔で言う。
「みんな静かに聴いてるのに、騒いでるの、おばさんだけだよ。猫のことバカにしてるみたいだけど、今のおばさんって猫以下じゃん。俺みたいな子どもだって椅子に座って静かにできるのに。大人って黙って話も聞けないの?」
これには木部だけでなく、先ほど彼女に加勢してヤジを飛ばした者たちもばつが悪くなった。
大虎の言葉に、周囲の冷たい視線が彼女らに注がれたからだ。
(大虎くん、あまり刺激しちゃ駄目よ……!)
美子は気が気ではなかった。
ここで乱闘にでもなったら、今までの時間が台無しになる。
場を設けてくれた野瀬たちにも申し訳ない。
「………………」
木部はまだ何か言いたそうだったが、聴衆の批難の目に耐えきれず、足元の紙片を蹴り飛ばすようにして席に戻った。
「やるねえ」
野瀬は後ろを向いて笑った。
あの機転は是非ちいき課に欲しいところだ、と彼は思った。
「どうぞ続けてください」
場が静まったのを確かめ、幸治が促す。
木部の剣幕に押され動転していた彼女だが、幸治に肩を叩かれたことで落ち着きを取り戻した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

処理中です...