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第一話
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その日、彼は笑っていた
教室の空気が、いつもより少しだけ重たかった。
誰かが大きな声を出したわけでもない。机が倒れた音も、椅子がきしむ音も、聞こえてこなかった。ただ――あの瞬間だけ、空気がひとつ止まった気がした。
春の始まり。高校一年の四月。
私は、その日、教室の隅で窓の外を見ていた。校庭に咲いた桜が、風に吹かれて舞っていた。その向こうで、彼が誰かに掴みかかっていた。
よくある喧嘩。……のはずだった。
最初は押し合いだった。よくいる男子たちのじゃれ合い、あるいは小さな諍い。先生が来れば止まるだろう、そんな程度。
でも、その瞬間、私は見てしまった。
彼の拳が、相手の頬を打った瞬間。
血が出たのか、出ていないのか、わからなかった。ただ、まわりの時間が少しだけゆがんだように感じた。まるで音がすべて引っ込んで、教室だけが真空になったみたいに。
そして、彼は――笑っていた。
ほんの少しだけ、口元が上がっていた。ほんの少しだけ、目が細くなっていた。
その笑顔が、どうしてか私は頭から離れなかった。
怒っているのでも、楽しんでいるのでもなくて。嬉しそうにも見えたけれど、どこかで悲しそうにも見えた。
……おかしいなって思った。
でも、その“おかしさ”が気になって、私は、その日から彼を目で追うようになった。
――その笑顔が、私にとっての始まりだった。
*
彼の名前は、蓮(れん)というらしい。
名簿で確認した。声をかけたことはなかった。彼は私と同じで、あまり喋らない。クラスの輪からも少し距離を置いていた。
その日の朝、彼は窓の外をじっと見ていた。風でノートが捲れても、手で押さえることすらしなかった。
「……変な人だな」
そう思った。でも、変なものは嫌いじゃない。
私はその日、帰りたくなかった。家に帰るくらいなら、少しでも教室にいたほうが楽だった。誰の声もしない空間のほうが、まだ安心できた。
「教室の方が、少しだけ静かだった。」
それは、たぶん彼も同じだったのかもしれない。
数日後、私はふと思い切って声をかけた。
「……あの時、なんで笑ったの?」
彼は一瞬、驚いた顔をして、そして首を傾げた。
「笑ってた?」
「……うん。少しだけ」
「そうかな……あのとき、たぶん、楽しかったんだと思う」
楽しかった――?
その言葉が、なぜか怖かった。でも同時に、正直だなと思った。
たぶん普通なら「ごめん」「カッとなって」とか、そういう言葉を言う場面だったと思う。でも彼はそうは言わなかった。
「殴って、楽しかったんだと思うよ。自分でもよくわかんないけど」
「……怖くないの?」
「怖いよ。たぶん。でもさ――」
彼は言いかけて、やめた。窓の外を見ながら、少し笑った。
「――あのとき、何かを感じた気がした。なんていうか、生きてるなって」
私は何も言えなかった。
それが正しいのか、間違ってるのかもわからない。でも、嘘じゃないと思った。
言葉の奥にあるものが、私の中の何かを揺らした。ほんの少しだけ、共鳴したような気がした。
家に帰っても、思い出すのはあの時の彼の横顔だった。
翌日、私はまた彼に話しかけた。
次の日も、またその次の日も。
理由は自分でもわからない。ただ、彼の隣にいるときだけ、私は少しだけ静かになれた。家に帰らなくてもいい時間が、そこにあった。
そしてその日、彼はふいに言った。
「……お前、俺のこと怖くないの?」
「……うん、怖いよ。でも、ひとりのほうがもっと怖い」
私がそう言うと、彼は少し目を丸くして、そのあとで、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、あの日のものとは少し違って見えた。
ほんのすこし、柔らかかった。
――君が笑った。私といるときに。それだけで、私は少し救われた気がした。
教室の空気が、いつもより少しだけ重たかった。
誰かが大きな声を出したわけでもない。机が倒れた音も、椅子がきしむ音も、聞こえてこなかった。ただ――あの瞬間だけ、空気がひとつ止まった気がした。
春の始まり。高校一年の四月。
私は、その日、教室の隅で窓の外を見ていた。校庭に咲いた桜が、風に吹かれて舞っていた。その向こうで、彼が誰かに掴みかかっていた。
よくある喧嘩。……のはずだった。
最初は押し合いだった。よくいる男子たちのじゃれ合い、あるいは小さな諍い。先生が来れば止まるだろう、そんな程度。
でも、その瞬間、私は見てしまった。
彼の拳が、相手の頬を打った瞬間。
血が出たのか、出ていないのか、わからなかった。ただ、まわりの時間が少しだけゆがんだように感じた。まるで音がすべて引っ込んで、教室だけが真空になったみたいに。
そして、彼は――笑っていた。
ほんの少しだけ、口元が上がっていた。ほんの少しだけ、目が細くなっていた。
その笑顔が、どうしてか私は頭から離れなかった。
怒っているのでも、楽しんでいるのでもなくて。嬉しそうにも見えたけれど、どこかで悲しそうにも見えた。
……おかしいなって思った。
でも、その“おかしさ”が気になって、私は、その日から彼を目で追うようになった。
――その笑顔が、私にとっての始まりだった。
*
彼の名前は、蓮(れん)というらしい。
名簿で確認した。声をかけたことはなかった。彼は私と同じで、あまり喋らない。クラスの輪からも少し距離を置いていた。
その日の朝、彼は窓の外をじっと見ていた。風でノートが捲れても、手で押さえることすらしなかった。
「……変な人だな」
そう思った。でも、変なものは嫌いじゃない。
私はその日、帰りたくなかった。家に帰るくらいなら、少しでも教室にいたほうが楽だった。誰の声もしない空間のほうが、まだ安心できた。
「教室の方が、少しだけ静かだった。」
それは、たぶん彼も同じだったのかもしれない。
数日後、私はふと思い切って声をかけた。
「……あの時、なんで笑ったの?」
彼は一瞬、驚いた顔をして、そして首を傾げた。
「笑ってた?」
「……うん。少しだけ」
「そうかな……あのとき、たぶん、楽しかったんだと思う」
楽しかった――?
その言葉が、なぜか怖かった。でも同時に、正直だなと思った。
たぶん普通なら「ごめん」「カッとなって」とか、そういう言葉を言う場面だったと思う。でも彼はそうは言わなかった。
「殴って、楽しかったんだと思うよ。自分でもよくわかんないけど」
「……怖くないの?」
「怖いよ。たぶん。でもさ――」
彼は言いかけて、やめた。窓の外を見ながら、少し笑った。
「――あのとき、何かを感じた気がした。なんていうか、生きてるなって」
私は何も言えなかった。
それが正しいのか、間違ってるのかもわからない。でも、嘘じゃないと思った。
言葉の奥にあるものが、私の中の何かを揺らした。ほんの少しだけ、共鳴したような気がした。
家に帰っても、思い出すのはあの時の彼の横顔だった。
翌日、私はまた彼に話しかけた。
次の日も、またその次の日も。
理由は自分でもわからない。ただ、彼の隣にいるときだけ、私は少しだけ静かになれた。家に帰らなくてもいい時間が、そこにあった。
そしてその日、彼はふいに言った。
「……お前、俺のこと怖くないの?」
「……うん、怖いよ。でも、ひとりのほうがもっと怖い」
私がそう言うと、彼は少し目を丸くして、そのあとで、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、あの日のものとは少し違って見えた。
ほんのすこし、柔らかかった。
――君が笑った。私といるときに。それだけで、私は少し救われた気がした。
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