君と笑った

もしかしてポコ

文字の大きさ
1 / 10

第一話

しおりを挟む
その日、彼は笑っていた

 
教室の空気が、いつもより少しだけ重たかった。

誰かが大きな声を出したわけでもない。机が倒れた音も、椅子がきしむ音も、聞こえてこなかった。ただ――あの瞬間だけ、空気がひとつ止まった気がした。

春の始まり。高校一年の四月。

私は、その日、教室の隅で窓の外を見ていた。校庭に咲いた桜が、風に吹かれて舞っていた。その向こうで、彼が誰かに掴みかかっていた。

よくある喧嘩。……のはずだった。

最初は押し合いだった。よくいる男子たちのじゃれ合い、あるいは小さな諍い。先生が来れば止まるだろう、そんな程度。

でも、その瞬間、私は見てしまった。

彼の拳が、相手の頬を打った瞬間。

血が出たのか、出ていないのか、わからなかった。ただ、まわりの時間が少しだけゆがんだように感じた。まるで音がすべて引っ込んで、教室だけが真空になったみたいに。

そして、彼は――笑っていた。

ほんの少しだけ、口元が上がっていた。ほんの少しだけ、目が細くなっていた。

その笑顔が、どうしてか私は頭から離れなかった。

怒っているのでも、楽しんでいるのでもなくて。嬉しそうにも見えたけれど、どこかで悲しそうにも見えた。

……おかしいなって思った。

でも、その“おかしさ”が気になって、私は、その日から彼を目で追うようになった。

 

――その笑顔が、私にとっての始まりだった。



彼の名前は、蓮(れん)というらしい。

名簿で確認した。声をかけたことはなかった。彼は私と同じで、あまり喋らない。クラスの輪からも少し距離を置いていた。

その日の朝、彼は窓の外をじっと見ていた。風でノートが捲れても、手で押さえることすらしなかった。

「……変な人だな」

そう思った。でも、変なものは嫌いじゃない。

私はその日、帰りたくなかった。家に帰るくらいなら、少しでも教室にいたほうが楽だった。誰の声もしない空間のほうが、まだ安心できた。

「教室の方が、少しだけ静かだった。」

それは、たぶん彼も同じだったのかもしれない。

数日後、私はふと思い切って声をかけた。

「……あの時、なんで笑ったの?」

彼は一瞬、驚いた顔をして、そして首を傾げた。

「笑ってた?」

「……うん。少しだけ」

「そうかな……あのとき、たぶん、楽しかったんだと思う」

楽しかった――?

その言葉が、なぜか怖かった。でも同時に、正直だなと思った。

たぶん普通なら「ごめん」「カッとなって」とか、そういう言葉を言う場面だったと思う。でも彼はそうは言わなかった。

「殴って、楽しかったんだと思うよ。自分でもよくわかんないけど」

「……怖くないの?」

「怖いよ。たぶん。でもさ――」

彼は言いかけて、やめた。窓の外を見ながら、少し笑った。

「――あのとき、何かを感じた気がした。なんていうか、生きてるなって」

私は何も言えなかった。

それが正しいのか、間違ってるのかもわからない。でも、嘘じゃないと思った。

言葉の奥にあるものが、私の中の何かを揺らした。ほんの少しだけ、共鳴したような気がした。

家に帰っても、思い出すのはあの時の彼の横顔だった。

翌日、私はまた彼に話しかけた。

次の日も、またその次の日も。

理由は自分でもわからない。ただ、彼の隣にいるときだけ、私は少しだけ静かになれた。家に帰らなくてもいい時間が、そこにあった。

そしてその日、彼はふいに言った。

「……お前、俺のこと怖くないの?」

「……うん、怖いよ。でも、ひとりのほうがもっと怖い」

私がそう言うと、彼は少し目を丸くして、そのあとで、ほんの少しだけ笑った。

その笑顔は、あの日のものとは少し違って見えた。

ほんのすこし、柔らかかった。

 
――君が笑った。私といるときに。それだけで、私は少し救われた気がした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

降っても晴れても

凛子
恋愛
もう、限界なんです……

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」 笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。 夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。 幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。 王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

処理中です...