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第一編 シルヴァン村の孤星
第3話:圧政の鉄槌
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賢者エルミートがシルヴァン村に滞在を始めてから、数日が過ぎた。彼は、村の子供たちに文字や算術を教える傍ら、時折、カイルとリアナに意味深な言葉を投げかけたり、彼らの行動を静かに観察したりしていた。カイルは、エルミートの底知れない知識と、全てを見透かすような鋭い眼光に、畏敬と同時にどこか言いようのない不安を感じていた。
リアナは、「きっとカイルの背中の印のことも、何かご存知かもよ」と、期待と緊張の入り混じった表情でカイルに囁くのだった。
村には、束の間の穏やかな空気が流れていた。エルミートの存在が、日々の厳しい暮らしに追われる村人たちにとって、僅かながらの安らぎと希望をもたらしているかのようだった。
だが、その脆い平和は、ある日突然打ち砕かれた。
その日、カイルとリアナは、エルミートから「薬草の知識も、世界を知る上では大切なことじゃ」と促され、森で薬草摘みを手伝っていた。エルミートは、様々な植物の名前や効能、そしてそれらが育つ環境について、まるで物語を語るように興味深く教えてくれた。カイルは、彼の博識ぶりに舌を巻きながらも、その言葉の端々から、世界の広大さのようなものを感じ取っていた。
「…さて、今日はこのくらいにしておこうかの」
エルミートがそう言って腰を上げた瞬間だった。
遠くから、複数の馬のいななきと、男たちの野太い怒声、そして何かが激しくぶつかり合うような鈍い音が、森の静寂を切り裂いて響いてきた。
エルミートの表情が、さっと険しくなった。
「…来たか」
彼は、誰に言うともなく呟いた。その声には、予期していた事態に対する諦観と、しかしそれを許容しないという静かな怒りが込められているようにカイルには聞こえた。
「カイル、リアナ、わしから離れるでないぞ」
エルミートは、二人を背後に庇うようにして、村の方角へと早足で歩き出した。
村の広場は、既に地獄のような様相を呈していた。
数日前、カイルが森で遭遇した、あの横暴な徴税官とその手下たちが、再び村を襲撃していたのだ。今回は、前回よりも人数が多く、その装備もより物々しい。彼らは、馬に乗り、鞭を振り回し、村人たちを恐怖で支配していた。
「聞け、愚民ども!」
徴税官。その名はギルバート男爵といい、レジナルド公爵の遠縁にあたる小貴族だった。ギルバートは馬上から村人たちを見下ろし、唾を飛ばしながら怒鳴った。
「レジナルド公爵閣下は、このアキテーヌ王国の栄光を取り戻し、腐敗したアルビオンの異教徒どもを打ち滅ぼすため、偉大なる聖戦を準備しておられる!そのための軍資金が、更に必要である! 貴様らのような下賤の民が国家に貢献出来る事を有り難く思うがいい!」
村長である老いたマティアスが、震える声で前に進み出た。
「ギルバート様…どうか、お慈悲を…今年の作物は、日照りの影響で例年になく不作でして…これ以上、年貢を納めろと仰せられても、我々にはもう何も…」
「黙れ、老いぼれが!」
ギルバートは、マティアスの言葉を遮り、鞭を空中で鋭く鳴らした。
「言い訳など聞きたくもないわ! 公爵閣下のご命令は絶対だ! 差し出すものがないだと? ならば、家畜でも、娘でも、何でも差し出せ! それが、貴様ら貧民の、公爵閣下への忠誠の証というものだ!」
兵士たちは、ギルバートの言葉を合図に、村の家々へと押し入り始めた。抵抗しようとする者は容赦なく殴り倒され、女子供の悲鳴が響き渡る。なけなしの食料が奪われ、古びた農具が叩き壊される。それは、取り立てというよりも、一方的な略奪と破壊だった。
「ああ…神よ…」
村人たちの間から、絶望のため息が漏れた。
カイルは、その光景を、エルミートの背後から息を詰めて見つめていた。
村人たちの恐怖、怒り、絶望、そして深い悲しみ。それら全ての負の感情が、彼の共感性を通じて、津波のように押し寄せてくる。頭の芯がズキズキと痛み、吐き気が込み上げてくる。呼吸が浅くなり、立っていることさえ困難になってきた。
「リアナ…僕…苦しい…」
カイルは、思わずリアナの袖を掴んだ。
「みんなが…みんなが泣いている声が…心の声が…直接聞こえてくるみたいだ…苦しくて…息ができない…」
彼の顔は蒼白になり、額には脂汗が滲んでいた。
「カイル、しっかりして!」
リアナは、カイルの背中を必死に支えながら、彼の耳元で囁いた。彼女自身も、目の前の惨状に唇を噛み締め、怒りと無力感に震えていた。だが、今はカイルを支えなければならない。
「大丈夫よ、カイル。私がそばにいるわ。目を閉じて、深呼吸して…」
リアナの言葉は、荒れ狂う嵐の中の小さな灯火のように、カイルの意識をかろうじて繋ぎ止めていた。だが、彼の苦しみは増すばかりだった。まるで、村全体の苦痛を、彼一人が背負い込んでいるかのようだった。
その時、一人の兵士が、よろよろと歩く老婆の腕を掴み、彼女が大事そうに抱えていた小さな袋を奪い取ろうとした。
「おい、婆さん! その中身は何だ! 金目のものか!」
「お、おやめください…これは…孫娘の薬代にする、最後の…最後の銀貨でございます…!」
老婆は、必死に抵抗するが、屈強な兵士の力には到底敵わない。
「うるさい!」
兵士は、老婆を突き飛ばし、銀貨の入った袋を乱暴に奪い取った。老婆は地面に倒れ込み、動かなくなった。
「なんてことを…!」
リアナは、思わず叫んでいた。彼女は、カイルの手を振りほどくと、兵士の前に立ちはだかった。
「返しなさい! あの銀貨は、あのお婆さんにとって、命と同じくらい大切なものなのよ! あなたたちに、それを奪う権利なんてないわ!」
十三歳の少女の、あまりにも無謀な行動だった。
兵士は、鼻で笑うと、リアナを小突いた。
「小娘が、でしゃばるな! 死にたいのか?」
リアナは、その言葉に怯むことなく、兵士を睨みつけた。
「人のものを奪って、何が聖戦ですって! あなたたちは、ただの強盗じゃない!」
「…このアマ!」
兵士は、逆上し、リアナの頬を平手で打ち据えた。リアナは、小さな悲鳴を上げて地面に倒れ込み、口の端から血を流した。
「リアナッ!!」
カイルは、絶叫していた。
その瞬間、彼の内側で何かが激しく燃え上がった。リアナが傷つけられた。自分の、たった一人の、大切な存在が。
怒り。純粋な、制御できないほどの激しい怒りが、彼の全身を駆け巡った。背中の「印」が、焼け付くように熱い。
(許せない…絶対に、許せない…!)
彼は、無意識のうちに前に踏み出そうとしていた。その手には、いつの間にか拾い上げた石ころが握り締められている。この石で、あの兵士を殴りつけてやりたい。いや、この怒りは、そんなものでは収まらない。もっと、もっと大きな力で、この不条理な暴力を根絶やしにしてしまいたい。
だが、同時に、彼の心の奥底で、別の声が囁いていた。
(だめだ…もし、僕が抵抗したら…何をされるかわからない…リアナが、もっと危険な目に遭うかもしれない…それに、僕なんかの力で、何かが変わるわけがないじゃないか…)
無力感。
圧倒的な暴力の前で、自分がいかに無力であるかという、冷たい絶望感が、彼の燃え上がる怒りに冷水を浴びせかける。
カイルは、その場に立ち尽くし、ただ唇を噛み締め、己の無力さに打ち震えることしかできなかった。その瞳からは、悔しさと悲しみと、そして自分自身への激しい怒りが入り混じった涙が、止めどなく溢れ出ていた。
兵士は、倒れたリアナを見下ろし、嘲るように言った。
「ふん、女子供まで逆らうとはな。レジナルド公爵閣下のお慈悲も、ここまでだ」
そして、彼は村長のマティアスの方へと向き直った。
「おい、村長。貴様がこの村の責任者だろう。どうやら、お前たちはまだ公爵閣下の本当の恐ろしさを分かっていないようだな。少しばかり、躾が必要らしい」
ギルバートは、にやりとサディスティックな笑みを浮かべると、手下の兵士たちに目配せした。
兵士の一人が、村長のマティアスの前に進み出た。
「おい、爺さん。お前、何か隠しているだろう。正直に白状しろ。さもないと…」
兵士は、腰の剣の柄に手をかけた。
「わ、わしには、何も隠しているものなど…」
マティアス村長は、震える声で答えた。
「嘘をつくな!」ギルバートが怒鳴った。
「この村の者たちは、皆、嘘つきで強欲だ! きっと、どこかに金目のものを隠し持っているに違いない! さあ、吐け! どこに隠した!」
ギルバートは、馬から降りると、マティアスの胸ぐらを掴み、力任せに引きずり倒した。そして、その痩せた体に、容赦なく蹴りを入れ始めた。
「やめてください! 村長には、何の罪も…!」
村人たちの悲痛な叫びが上がるが、兵士たちはそれを力で押さえつける。
カイルは、目の前で繰り広げられる無慈悲な暴力に、我を忘れそうになっていた。
(だめだ…マティアスさんが…このままでは…!)
彼は、もう一度、前に飛び出そうとした。たとえ無力でも、何かをしなければ。
その時。
「――そこまでにされよ」
静かだが、凛とした威厳のある声が、広場に響き渡った。
声の主は、いつの間にかギルバートの背後に立っていた、賢者エルミートだった。
ギルバートは、驚いたように振り返った。
「な、何奴だ、貴様は!」
エルミートは、その老いた顔に一切の表情を浮かべず、ただ静かにギルバートを見据えていた。
「わしは、ただの旅の者。だが、あなた方の行いは、アキテーヌ王国の法にも、そして何よりも人の道にもとるものではないかな?」
「な、何を言うか、この老いぼれが!」
ギルバートは狼狽しながらも虚勢を張った。
「我々は、レジナルド公爵閣下のご命令に従い、正当な税を取り立てているのだ! 文句があるというのか!」
「税、ですかな?」
エルミートは、静かに首を横に振った。
「わしが見る限り、これは税の徴収ではなく、一方的な略奪と暴力にしか見えませぬが。アキテーヌの古き法には、『民を慈しみ、その暮らしを守ることこそ、領主の務めである』と記されております。レジナルド公爵閣下が、そのような古き良き法を忘れられたとでもおっしゃるのか?」
エルミートの言葉には、不思議な説得力があった。その落ち着いた態度と、理路整然とした言葉遣いは、ギルバートのような単なるごろつき貴族には、到底太刀打ちできるものではなかった。
「ぐ…うぬ…」ギルバートは言葉に詰まった。
「貴様…何者だ…ただの旅の者ではあるまい…」
「さあ、それはどうかな」
エルミートは、ふっと口元に微かな笑みを浮かべた。
「だが、もし、これ以上の狼藉を続けるというのであれば、わしは王都ボルドーに戻り、枢密院にこの一件を正式に報告することも吝かではない。レジナルド公爵閣下も、ご自身の名の元に、このような無法が行われていることをお知りになれば、さぞお嘆きになることであろうな」
枢密院、という言葉に、ギルバートの顔色が変わった。たとえレジナルド公爵の威光を笠に着ていても、王都の正式な機関に訴え出られれば、さすがに面倒なことになる。
「…ちっ…覚えていろよ、爺…そして、このクソ村の百姓どもめ…!」
ギルバートは、苦々しげに悪態をつくと、手下たちに撤退の合図を送った。彼らは、奪ったものを荷馬車に積んだまま、慌ただしく村を去っていった。
嵐のような暴力が過ぎ去った後、広場には、安堵のため息と、そして深い疲労感が漂っていた。エルミートの介入は、まさに絶望的な状況下にあった村人たちにとって、そしてカイルとリアナにとって、一筋の光のように見えた。
エルミートは、倒れているマティアス村長やリアナに駆け寄り、その怪我の具合を確かめた。幸い、二人とも命に別状はなさそうだった。
そして、彼は、まだショックと無力感に打ち震えているカイルの前に、ゆっくりと屈み込んだ。その深い叡智を湛えた瞳が、カイルの瞳をじっと見つめる。
「カイルよ」
エルミートは、静かな声で言った。
「お主、ただ者ではないな。その瞳の奥に宿る光…そして、あの者たちに立ち向かおうとした、その気概。お主の内には、まだ磨かれておらぬが、確かな勇気の種火が見える」
カイルは、エルミートの言葉の意味がよく分からず、ただ戸惑ったように彼を見つめ返した。
エルミートは、僅かに視線を下げ、カイルの胸元、そしてその背中の方へと目を向けた。
「そして…」
彼の声のトーンが、微かに変わった。
エルミートの目が、カイルの破れたシャツの隙間から覗く肌に吸い寄せられた。そこに刻まれた、赤みがかった複雑な紋様……獅子が爪で引っ掻いたかのような、「背中の痣」。
その瞬間、エルミートの顔から血の気が引いた。彼の瞳が見開かれ、驚愕と、信じられないものを見たかのような戦慄、そして…長い間探し求めていた何かをついに見つけ出したかのような、複雑な表情が浮かんだ。
(ま…さか…この印は…アルベリク陛下の…いや、それ以前の、初代の王から連綿と受け継がれてきたという、真の『獅子の聖痕』…!? このような辺境の村に…あの時の赤子が…本当に生き延びていたというのか…!なんと…なんという運命の悪戯……!)
エルミートは、カイルの目を見据え、かろうじて言葉を絞り出した。その声は、微かに震えていた。
「カイル…その背にあるものは…一体…」
(この人も…僕の印に気づいた…?)
カイルの心臓が、再び大きく脈打つのを感じた。
リアナは、「きっとカイルの背中の印のことも、何かご存知かもよ」と、期待と緊張の入り混じった表情でカイルに囁くのだった。
村には、束の間の穏やかな空気が流れていた。エルミートの存在が、日々の厳しい暮らしに追われる村人たちにとって、僅かながらの安らぎと希望をもたらしているかのようだった。
だが、その脆い平和は、ある日突然打ち砕かれた。
その日、カイルとリアナは、エルミートから「薬草の知識も、世界を知る上では大切なことじゃ」と促され、森で薬草摘みを手伝っていた。エルミートは、様々な植物の名前や効能、そしてそれらが育つ環境について、まるで物語を語るように興味深く教えてくれた。カイルは、彼の博識ぶりに舌を巻きながらも、その言葉の端々から、世界の広大さのようなものを感じ取っていた。
「…さて、今日はこのくらいにしておこうかの」
エルミートがそう言って腰を上げた瞬間だった。
遠くから、複数の馬のいななきと、男たちの野太い怒声、そして何かが激しくぶつかり合うような鈍い音が、森の静寂を切り裂いて響いてきた。
エルミートの表情が、さっと険しくなった。
「…来たか」
彼は、誰に言うともなく呟いた。その声には、予期していた事態に対する諦観と、しかしそれを許容しないという静かな怒りが込められているようにカイルには聞こえた。
「カイル、リアナ、わしから離れるでないぞ」
エルミートは、二人を背後に庇うようにして、村の方角へと早足で歩き出した。
村の広場は、既に地獄のような様相を呈していた。
数日前、カイルが森で遭遇した、あの横暴な徴税官とその手下たちが、再び村を襲撃していたのだ。今回は、前回よりも人数が多く、その装備もより物々しい。彼らは、馬に乗り、鞭を振り回し、村人たちを恐怖で支配していた。
「聞け、愚民ども!」
徴税官。その名はギルバート男爵といい、レジナルド公爵の遠縁にあたる小貴族だった。ギルバートは馬上から村人たちを見下ろし、唾を飛ばしながら怒鳴った。
「レジナルド公爵閣下は、このアキテーヌ王国の栄光を取り戻し、腐敗したアルビオンの異教徒どもを打ち滅ぼすため、偉大なる聖戦を準備しておられる!そのための軍資金が、更に必要である! 貴様らのような下賤の民が国家に貢献出来る事を有り難く思うがいい!」
村長である老いたマティアスが、震える声で前に進み出た。
「ギルバート様…どうか、お慈悲を…今年の作物は、日照りの影響で例年になく不作でして…これ以上、年貢を納めろと仰せられても、我々にはもう何も…」
「黙れ、老いぼれが!」
ギルバートは、マティアスの言葉を遮り、鞭を空中で鋭く鳴らした。
「言い訳など聞きたくもないわ! 公爵閣下のご命令は絶対だ! 差し出すものがないだと? ならば、家畜でも、娘でも、何でも差し出せ! それが、貴様ら貧民の、公爵閣下への忠誠の証というものだ!」
兵士たちは、ギルバートの言葉を合図に、村の家々へと押し入り始めた。抵抗しようとする者は容赦なく殴り倒され、女子供の悲鳴が響き渡る。なけなしの食料が奪われ、古びた農具が叩き壊される。それは、取り立てというよりも、一方的な略奪と破壊だった。
「ああ…神よ…」
村人たちの間から、絶望のため息が漏れた。
カイルは、その光景を、エルミートの背後から息を詰めて見つめていた。
村人たちの恐怖、怒り、絶望、そして深い悲しみ。それら全ての負の感情が、彼の共感性を通じて、津波のように押し寄せてくる。頭の芯がズキズキと痛み、吐き気が込み上げてくる。呼吸が浅くなり、立っていることさえ困難になってきた。
「リアナ…僕…苦しい…」
カイルは、思わずリアナの袖を掴んだ。
「みんなが…みんなが泣いている声が…心の声が…直接聞こえてくるみたいだ…苦しくて…息ができない…」
彼の顔は蒼白になり、額には脂汗が滲んでいた。
「カイル、しっかりして!」
リアナは、カイルの背中を必死に支えながら、彼の耳元で囁いた。彼女自身も、目の前の惨状に唇を噛み締め、怒りと無力感に震えていた。だが、今はカイルを支えなければならない。
「大丈夫よ、カイル。私がそばにいるわ。目を閉じて、深呼吸して…」
リアナの言葉は、荒れ狂う嵐の中の小さな灯火のように、カイルの意識をかろうじて繋ぎ止めていた。だが、彼の苦しみは増すばかりだった。まるで、村全体の苦痛を、彼一人が背負い込んでいるかのようだった。
その時、一人の兵士が、よろよろと歩く老婆の腕を掴み、彼女が大事そうに抱えていた小さな袋を奪い取ろうとした。
「おい、婆さん! その中身は何だ! 金目のものか!」
「お、おやめください…これは…孫娘の薬代にする、最後の…最後の銀貨でございます…!」
老婆は、必死に抵抗するが、屈強な兵士の力には到底敵わない。
「うるさい!」
兵士は、老婆を突き飛ばし、銀貨の入った袋を乱暴に奪い取った。老婆は地面に倒れ込み、動かなくなった。
「なんてことを…!」
リアナは、思わず叫んでいた。彼女は、カイルの手を振りほどくと、兵士の前に立ちはだかった。
「返しなさい! あの銀貨は、あのお婆さんにとって、命と同じくらい大切なものなのよ! あなたたちに、それを奪う権利なんてないわ!」
十三歳の少女の、あまりにも無謀な行動だった。
兵士は、鼻で笑うと、リアナを小突いた。
「小娘が、でしゃばるな! 死にたいのか?」
リアナは、その言葉に怯むことなく、兵士を睨みつけた。
「人のものを奪って、何が聖戦ですって! あなたたちは、ただの強盗じゃない!」
「…このアマ!」
兵士は、逆上し、リアナの頬を平手で打ち据えた。リアナは、小さな悲鳴を上げて地面に倒れ込み、口の端から血を流した。
「リアナッ!!」
カイルは、絶叫していた。
その瞬間、彼の内側で何かが激しく燃え上がった。リアナが傷つけられた。自分の、たった一人の、大切な存在が。
怒り。純粋な、制御できないほどの激しい怒りが、彼の全身を駆け巡った。背中の「印」が、焼け付くように熱い。
(許せない…絶対に、許せない…!)
彼は、無意識のうちに前に踏み出そうとしていた。その手には、いつの間にか拾い上げた石ころが握り締められている。この石で、あの兵士を殴りつけてやりたい。いや、この怒りは、そんなものでは収まらない。もっと、もっと大きな力で、この不条理な暴力を根絶やしにしてしまいたい。
だが、同時に、彼の心の奥底で、別の声が囁いていた。
(だめだ…もし、僕が抵抗したら…何をされるかわからない…リアナが、もっと危険な目に遭うかもしれない…それに、僕なんかの力で、何かが変わるわけがないじゃないか…)
無力感。
圧倒的な暴力の前で、自分がいかに無力であるかという、冷たい絶望感が、彼の燃え上がる怒りに冷水を浴びせかける。
カイルは、その場に立ち尽くし、ただ唇を噛み締め、己の無力さに打ち震えることしかできなかった。その瞳からは、悔しさと悲しみと、そして自分自身への激しい怒りが入り混じった涙が、止めどなく溢れ出ていた。
兵士は、倒れたリアナを見下ろし、嘲るように言った。
「ふん、女子供まで逆らうとはな。レジナルド公爵閣下のお慈悲も、ここまでだ」
そして、彼は村長のマティアスの方へと向き直った。
「おい、村長。貴様がこの村の責任者だろう。どうやら、お前たちはまだ公爵閣下の本当の恐ろしさを分かっていないようだな。少しばかり、躾が必要らしい」
ギルバートは、にやりとサディスティックな笑みを浮かべると、手下の兵士たちに目配せした。
兵士の一人が、村長のマティアスの前に進み出た。
「おい、爺さん。お前、何か隠しているだろう。正直に白状しろ。さもないと…」
兵士は、腰の剣の柄に手をかけた。
「わ、わしには、何も隠しているものなど…」
マティアス村長は、震える声で答えた。
「嘘をつくな!」ギルバートが怒鳴った。
「この村の者たちは、皆、嘘つきで強欲だ! きっと、どこかに金目のものを隠し持っているに違いない! さあ、吐け! どこに隠した!」
ギルバートは、馬から降りると、マティアスの胸ぐらを掴み、力任せに引きずり倒した。そして、その痩せた体に、容赦なく蹴りを入れ始めた。
「やめてください! 村長には、何の罪も…!」
村人たちの悲痛な叫びが上がるが、兵士たちはそれを力で押さえつける。
カイルは、目の前で繰り広げられる無慈悲な暴力に、我を忘れそうになっていた。
(だめだ…マティアスさんが…このままでは…!)
彼は、もう一度、前に飛び出そうとした。たとえ無力でも、何かをしなければ。
その時。
「――そこまでにされよ」
静かだが、凛とした威厳のある声が、広場に響き渡った。
声の主は、いつの間にかギルバートの背後に立っていた、賢者エルミートだった。
ギルバートは、驚いたように振り返った。
「な、何奴だ、貴様は!」
エルミートは、その老いた顔に一切の表情を浮かべず、ただ静かにギルバートを見据えていた。
「わしは、ただの旅の者。だが、あなた方の行いは、アキテーヌ王国の法にも、そして何よりも人の道にもとるものではないかな?」
「な、何を言うか、この老いぼれが!」
ギルバートは狼狽しながらも虚勢を張った。
「我々は、レジナルド公爵閣下のご命令に従い、正当な税を取り立てているのだ! 文句があるというのか!」
「税、ですかな?」
エルミートは、静かに首を横に振った。
「わしが見る限り、これは税の徴収ではなく、一方的な略奪と暴力にしか見えませぬが。アキテーヌの古き法には、『民を慈しみ、その暮らしを守ることこそ、領主の務めである』と記されております。レジナルド公爵閣下が、そのような古き良き法を忘れられたとでもおっしゃるのか?」
エルミートの言葉には、不思議な説得力があった。その落ち着いた態度と、理路整然とした言葉遣いは、ギルバートのような単なるごろつき貴族には、到底太刀打ちできるものではなかった。
「ぐ…うぬ…」ギルバートは言葉に詰まった。
「貴様…何者だ…ただの旅の者ではあるまい…」
「さあ、それはどうかな」
エルミートは、ふっと口元に微かな笑みを浮かべた。
「だが、もし、これ以上の狼藉を続けるというのであれば、わしは王都ボルドーに戻り、枢密院にこの一件を正式に報告することも吝かではない。レジナルド公爵閣下も、ご自身の名の元に、このような無法が行われていることをお知りになれば、さぞお嘆きになることであろうな」
枢密院、という言葉に、ギルバートの顔色が変わった。たとえレジナルド公爵の威光を笠に着ていても、王都の正式な機関に訴え出られれば、さすがに面倒なことになる。
「…ちっ…覚えていろよ、爺…そして、このクソ村の百姓どもめ…!」
ギルバートは、苦々しげに悪態をつくと、手下たちに撤退の合図を送った。彼らは、奪ったものを荷馬車に積んだまま、慌ただしく村を去っていった。
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エルミートは、倒れているマティアス村長やリアナに駆け寄り、その怪我の具合を確かめた。幸い、二人とも命に別状はなさそうだった。
そして、彼は、まだショックと無力感に打ち震えているカイルの前に、ゆっくりと屈み込んだ。その深い叡智を湛えた瞳が、カイルの瞳をじっと見つめる。
「カイルよ」
エルミートは、静かな声で言った。
「お主、ただ者ではないな。その瞳の奥に宿る光…そして、あの者たちに立ち向かおうとした、その気概。お主の内には、まだ磨かれておらぬが、確かな勇気の種火が見える」
カイルは、エルミートの言葉の意味がよく分からず、ただ戸惑ったように彼を見つめ返した。
エルミートは、僅かに視線を下げ、カイルの胸元、そしてその背中の方へと目を向けた。
「そして…」
彼の声のトーンが、微かに変わった。
エルミートの目が、カイルの破れたシャツの隙間から覗く肌に吸い寄せられた。そこに刻まれた、赤みがかった複雑な紋様……獅子が爪で引っ掻いたかのような、「背中の痣」。
その瞬間、エルミートの顔から血の気が引いた。彼の瞳が見開かれ、驚愕と、信じられないものを見たかのような戦慄、そして…長い間探し求めていた何かをついに見つけ出したかのような、複雑な表情が浮かんだ。
(ま…さか…この印は…アルベリク陛下の…いや、それ以前の、初代の王から連綿と受け継がれてきたという、真の『獅子の聖痕』…!? このような辺境の村に…あの時の赤子が…本当に生き延びていたというのか…!なんと…なんという運命の悪戯……!)
エルミートは、カイルの目を見据え、かろうじて言葉を絞り出した。その声は、微かに震えていた。
「カイル…その背にあるものは…一体…」
(この人も…僕の印に気づいた…?)
カイルの心臓が、再び大きく脈打つのを感じた。
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