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第一編 シルヴァン村の孤星
第4話:賢者の眼差し
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エルミートの言葉は、静かだが、カイルの心の奥深くに重く響いた。その背にあるものは、一体。
カイルは、自分の背中の「印」のことを言っているのだとすぐに理解した。だが、エルミートのそのただならぬ様子は、今まで感じたことのないような、言いようのない不安と、そしてどこか避けられない運命の予感を彼に抱かせた。
リアナもまた、エルミートの言葉の背後にある重大な意味を感じ取ったのか、静かに二人を見守っている。彼女の唇はまだ微かに血が滲み、痛々しい。
エルミートは、カイルの返事を待つかのように、じっと彼を見つめている。その瞳は、深い思慮と、そして何かを見極めようとするような鋭さを含んでいた。彼がカイルの「獅子の聖痕」を見た時の衝撃は、まだその表情に微かな影を落としていたが、今はそれを努めて抑え、冷静さを保とうとしているように見えた。
(間違いない…あれは、真の『獅子の聖痕』。アルベリク陛下の忘れ形見…アレクシオス王子が生きておられたとは…。だが、この事実を今、この場で、この幼い少年に告げるべきなのか…? レジナルド公爵の耳に入れば、この村はおろか、カイル自身の命さえ危うくなる。いや、それ以上に、この過酷な運命を、この純粋な魂が受け止めきれるのだろうか…?)
エルミートの胸中には、様々な思いが交錯していた。カイルの安全、彼の心の準備、そして何よりも、この「獅子の血脈」が再び歴史の表舞台に出ることの意味。それは、アキテーヌにとって、そしてユーロディア大陸全体にとって、祝福となるのか、それとも新たな戦乱の火種となるのか。
エルミートは、カイルの瞳の奥に宿る、一点の曇りもない純粋な光と、未熟ながらも確かな気概を見た。そして、その魂の稀有な輝きに、僅かな希望を見出していた。
「カイル」
エルミートは、静かに、しかし諭すような口調で語り始めた。
「お主の背にあるその『印』…それは、ただの痣ではないやもしれぬ。それは、お主が特別な使命を帯びていることの証…あるいは、古き血の記憶が刻まれた、過酷な運命の刻印やもしれぬ」
カイルは、エルミートの言葉の意味を測りかねて、ただ戸惑ったように彼を見つめ返した。
「かつて、このアキテーヌを真に照らした太陽の王家があった」
エルミートは続けた。
「民に愛され、公正を尊んだ、真の王の血筋じゃ。その王家の者たちだけが、その背に『獅子の聖痕』と呼ばれる特別な印を宿したという。それは、王家の正当性と、民を守るという神聖な誓いの象徴だった…お主の背にあるものは、その聖痕に、あまりにもよく似ておる」
リアナが、はっと息を呑んだ。彼女は以前、カイルの「印」を「英雄の印みたい」と言った。その言葉が、今、エルミートの口から語られる、さらに壮大で、そして危険な物語と重なり合っていく。
「では…」
リアナは、震える声で尋ねた。
「カイルは…本当に、その王様の血を…?」
エルミートは、即答を避けた。
「断言はできぬ。じゃが、もしそうだとすれば…カイル、お主は、このアキテーヌの、いや、この世界の歪みを正すための、大きな役割を担うことになるやもしれぬ。そしてそれは、想像を絶する困難と、苦しみを伴う道となるじゃろう」
エルミートは、カイルとリアナを、村長の家へと促した。
マティアス村長は、エルミートのただならぬ様子と、カイルの出自に関する衝撃的な可能性に、言葉を失い、ただ混乱した表情で二人を迎えた。リアナは、村長の妻に改めて手当てを受けながら、心配そうにカイルとエルミートのやり取りを見守っていた。
村長の家の薄暗い部屋で、エルミートは静かにアキテーヌの現状について語り始めた。それは、レジナルド公爵がいかにして権力を掌握し、傀儡のギヨーム王を立てて圧政を敷いているか、そしてその恐怖政治の下で、いかに多くの民が苦しんでいるかという、血塗られた現実だった。
「今の王都ボルドーは、欲望と裏切りが渦巻く魔窟じゃ」
エルミートの声は、厳しさを増した。
「レジナルド公爵は、自らの権力を盤石にするため、反対勢力を次々と粛清し、民を恐怖で支配しておる。そして、彼が何よりも恐れているのは、真の王の血を引く者…あの『獅子の聖痕』を持つ者が、再び現れることなのじゃ。なぜなら、それは彼の権力の正当性を根底から覆しかねないからな」
エルミートは、そこで一度言葉を切り、カイルの反応を窺った。カイルは、ただ黙ってエルミートの言葉に耳を傾けていた。その小さな肩が、背負いきれないほどの重圧に震えているように見えた。
「賢者様…」
マティアス村長が、重々しく口を開いた。先程の徴税官たちの暴虐は、彼の心にも深い傷跡を残していた。
「今日のあの者たちの行いは、まるで…まるで何か恐ろしいものの始まりではないかと、わしには思えてならんのです。ただでさえ凶作続きで村は疲弊しておるのに、あの仕打ち…民の心は、もう限界ですじゃ…」
エルミートは、村長の言葉に静かに頷いた。
「確かに、マティアス殿の申される通りかもしれぬ。人心の乱れ、社会の腐敗は、古より災厄を呼び覚ます土壌となると言われておる。わしが書庫で紐解いた古の伝承の中には…」
エルミートはそこで一度言葉を切り、カイルとリアナの顔を交互に見つめた。まるで、これから語る内容の重さを、二人に覚悟させようとしているかのようだった。
「…『ヘルマーチャー』、あるいは『ヴァルドスの眷属』と呼ばれる存在についての記述がある。それは、遥か古の時代に、このユーロディア大陸を恐怖で覆ったとされる、闇の存在じゃ」
彼の声は、ひときわ低くなった。部屋の空気が、シンと静まり返る。
「古の伝承によれば、ヘルマーチャーは、人の姿に似て非なる、トカゲのような鱗に覆われた異形の者たちじゃったという。彼らは、古王ヴァルドスと呼ばれる、さらに強大な闇の存在に仕え、人間を襲い、その魂を喰らい、世界を絶望で塗りつぶそうとした…」
カイルは、ゴクリと唾を飲んだ。ヘルマーチャー…ヴァルドス…。初めて聞く名だが、その響きには、形容しがたい不気味さと、抗いがたい力の気配が感じられた。今日の徴税官たちの非道な行いも、あるいはそういった「闇」と無関係ではないのかもしれない。そんな恐ろしい想像が、彼の心をよぎった。
「もちろん、今の世では、そんなものはただのおとぎ話として片付けられておる。聖教もまた、そのような異形の存在は、神の教えに反する妄想であるとして、その名を口にすることさえ禁じておるからのう。じゃが…」
エルミートは、再びカイルとリアナの方へと向き直った。その瞳には、深い憂慮の色が浮かんでいる。
「おとぎ話と侮るなかれ。闇は、常に人の心の隙間から忍び寄るものじゃ。憎しみ、恐怖、絶望、そして際限のない欲望…そういった負の感情が渦巻く時、世界は闇の力に対して無防備になる。そして、今のユーロディアは、まさにその闇が満ち満ちておる…」
彼は、先程のギルバート男爵たちの暴虐を思い返すように、目を細めた。
「レジナルド公爵のような者の圧政、貴族たちの飽くなき権力闘争、そしてそれに苦しむ民衆の絶望…これら全てが、ヘルマーチャーのような災厄を呼び覚ます、肥沃な土壌となりうるのじゃ。お前たちの村で今日起こったことも、あるいは、そのほんの始まり…世界の歪みが引き起こした、小さな悲鳴の一つやもしれぬ」
エルミートの言葉は、カイルの心に重く響いた。今日、自分が感じたあの圧倒的な苦しみは、ただの共感ではなかったのかもしれない。それは、この世界全体が発している、声なき悲鳴だったのかもしれない。そして、その悲鳴は、さらに恐ろしい「何か」を呼び覚まそうとしているのかもしれない。
*
エルミートの言葉は、リアナの心にも深い感銘を与えていた。彼女は、カイルの持つ不思議な力や、その背中の印が、何か特別な意味を持つのではないかと、ずっと感じていた。そして、エルミートの話を聞いて、その予感が確信に変わりつつあった。カイルは、ただの村の少年ではない。彼には、何か大きな運命が待ち受けているのだと。
「賢者様」
リアナは、決意を秘めた目でエルミートを見つめた。その声には、先程までの恐怖の色はなく、むしろ強い意志が感じられた。
「私…もっと学びたいです。世界のことを、そして、カイルの力のことを。もし、カイルの力が、この苦しんでいる世界を少しでも良くするために使えるのなら…私は、そのために何でもしたいんです。カイルのそばで、彼を支えたいんです」
カイルは、リアナのその言葉に驚いた。彼女は、自分のことよりも、カイルのこと、そして世界のことを考えている。その純粋で力強い思いに、カイルは胸を打たれた。彼女の存在が、どれほど自分の支えになっていることか。
エルミートは、リアナの言葉に、静かに頷いた。
「見上げた心がけじゃな、リアナ。お主のその強い意志と、カイルを思う心は、何よりも尊いものじゃ。そして、カイル…」
彼は、再びカイルへと向き直った。
「お主のその背にある『獅子の聖痕』が、本当に獅子の王家のものだとしたら…それは、ただの印ではない。それは、民を導き、民のために戦うことを宿命づけられた者の証じゃ。今のままでは、お主はその力に押し潰されてしまうか、あるいは心ない者たちに利用されるだけじゃろう」
エルミートは、深く息を吸い込んだ。
「わしも、年をとりすぎた。じゃが、残された時間で、お前たちに伝えられるだけの知識と、そして生き抜くための術を教えたいと思う。マティアス村長」
彼は、村長へと向き直った。
「カイルとリアナを、わしの弟子として預からせてはくれまいか。わしの庵は、黒森の奥深く、人里離れた場所にある。そこでなら、レジナルド公爵の目も届くまい。そして、カイルの持つ可能性と、リアナの強い意志を、正しく導くことができるやもしれぬ」
*
エルミートの申し出は、マティアス村長にとって、あまりにも突然で、そして衝撃的なものだった。彼は、しばらくの間、言葉もなくエルミートとカイルの顔を交互に見つめていた。その表情には、困惑と、恐れのようなものが入り混じっていた。
「…賢者様…」
村長は、ようやく絞り出すように言った。
「もし…もし、カイルが本当に…あの『失われた王家の血』を引く者だとしたら…それは、このシルヴァン村にとって、いや、このアキテーヌ王国にとって、祝福となるのでしょうか…それとも…」
彼の声は、不安に震えていた。
「それとも、レジナルド公爵による、さらなる災厄を招くことになるのでしょうか…? 我々のような小さな村が、公爵閣下の怒りを買えば、どうなるか…今日のことで、嫌というほど分かりました…」
村長のその言葉は、村人たちの偽らざる気持ちを代弁していた。カイルの存在が、この村に破滅をもたらすかもしれないという恐怖。それは、無理もないことだった。
エルミートは、その言葉を静かに受け止めた。
「いずれにせよ」彼は、静かに、しかしきっぱりとした口調で告げた。
「このままでは、この子たちの未来はない。そして、このアキテーヌの未来もな…」
その言葉は、まるで予言のように、部屋の重い空気の中に響き渡った。
カイルは、自分の運命が、今、この瞬間に、大きく動き出そうとしているのを感じていた。それは、希望なのか、それとも絶望への入り口なのか。彼にはまだ、知る由もなかった。
ただ、背中の「獅子の聖痕」が、まるで彼の覚悟を問うかのように、ズキズキと疼き続けていた。
カイルは、自分の背中の「印」のことを言っているのだとすぐに理解した。だが、エルミートのそのただならぬ様子は、今まで感じたことのないような、言いようのない不安と、そしてどこか避けられない運命の予感を彼に抱かせた。
リアナもまた、エルミートの言葉の背後にある重大な意味を感じ取ったのか、静かに二人を見守っている。彼女の唇はまだ微かに血が滲み、痛々しい。
エルミートは、カイルの返事を待つかのように、じっと彼を見つめている。その瞳は、深い思慮と、そして何かを見極めようとするような鋭さを含んでいた。彼がカイルの「獅子の聖痕」を見た時の衝撃は、まだその表情に微かな影を落としていたが、今はそれを努めて抑え、冷静さを保とうとしているように見えた。
(間違いない…あれは、真の『獅子の聖痕』。アルベリク陛下の忘れ形見…アレクシオス王子が生きておられたとは…。だが、この事実を今、この場で、この幼い少年に告げるべきなのか…? レジナルド公爵の耳に入れば、この村はおろか、カイル自身の命さえ危うくなる。いや、それ以上に、この過酷な運命を、この純粋な魂が受け止めきれるのだろうか…?)
エルミートの胸中には、様々な思いが交錯していた。カイルの安全、彼の心の準備、そして何よりも、この「獅子の血脈」が再び歴史の表舞台に出ることの意味。それは、アキテーヌにとって、そしてユーロディア大陸全体にとって、祝福となるのか、それとも新たな戦乱の火種となるのか。
エルミートは、カイルの瞳の奥に宿る、一点の曇りもない純粋な光と、未熟ながらも確かな気概を見た。そして、その魂の稀有な輝きに、僅かな希望を見出していた。
「カイル」
エルミートは、静かに、しかし諭すような口調で語り始めた。
「お主の背にあるその『印』…それは、ただの痣ではないやもしれぬ。それは、お主が特別な使命を帯びていることの証…あるいは、古き血の記憶が刻まれた、過酷な運命の刻印やもしれぬ」
カイルは、エルミートの言葉の意味を測りかねて、ただ戸惑ったように彼を見つめ返した。
「かつて、このアキテーヌを真に照らした太陽の王家があった」
エルミートは続けた。
「民に愛され、公正を尊んだ、真の王の血筋じゃ。その王家の者たちだけが、その背に『獅子の聖痕』と呼ばれる特別な印を宿したという。それは、王家の正当性と、民を守るという神聖な誓いの象徴だった…お主の背にあるものは、その聖痕に、あまりにもよく似ておる」
リアナが、はっと息を呑んだ。彼女は以前、カイルの「印」を「英雄の印みたい」と言った。その言葉が、今、エルミートの口から語られる、さらに壮大で、そして危険な物語と重なり合っていく。
「では…」
リアナは、震える声で尋ねた。
「カイルは…本当に、その王様の血を…?」
エルミートは、即答を避けた。
「断言はできぬ。じゃが、もしそうだとすれば…カイル、お主は、このアキテーヌの、いや、この世界の歪みを正すための、大きな役割を担うことになるやもしれぬ。そしてそれは、想像を絶する困難と、苦しみを伴う道となるじゃろう」
エルミートは、カイルとリアナを、村長の家へと促した。
マティアス村長は、エルミートのただならぬ様子と、カイルの出自に関する衝撃的な可能性に、言葉を失い、ただ混乱した表情で二人を迎えた。リアナは、村長の妻に改めて手当てを受けながら、心配そうにカイルとエルミートのやり取りを見守っていた。
村長の家の薄暗い部屋で、エルミートは静かにアキテーヌの現状について語り始めた。それは、レジナルド公爵がいかにして権力を掌握し、傀儡のギヨーム王を立てて圧政を敷いているか、そしてその恐怖政治の下で、いかに多くの民が苦しんでいるかという、血塗られた現実だった。
「今の王都ボルドーは、欲望と裏切りが渦巻く魔窟じゃ」
エルミートの声は、厳しさを増した。
「レジナルド公爵は、自らの権力を盤石にするため、反対勢力を次々と粛清し、民を恐怖で支配しておる。そして、彼が何よりも恐れているのは、真の王の血を引く者…あの『獅子の聖痕』を持つ者が、再び現れることなのじゃ。なぜなら、それは彼の権力の正当性を根底から覆しかねないからな」
エルミートは、そこで一度言葉を切り、カイルの反応を窺った。カイルは、ただ黙ってエルミートの言葉に耳を傾けていた。その小さな肩が、背負いきれないほどの重圧に震えているように見えた。
「賢者様…」
マティアス村長が、重々しく口を開いた。先程の徴税官たちの暴虐は、彼の心にも深い傷跡を残していた。
「今日のあの者たちの行いは、まるで…まるで何か恐ろしいものの始まりではないかと、わしには思えてならんのです。ただでさえ凶作続きで村は疲弊しておるのに、あの仕打ち…民の心は、もう限界ですじゃ…」
エルミートは、村長の言葉に静かに頷いた。
「確かに、マティアス殿の申される通りかもしれぬ。人心の乱れ、社会の腐敗は、古より災厄を呼び覚ます土壌となると言われておる。わしが書庫で紐解いた古の伝承の中には…」
エルミートはそこで一度言葉を切り、カイルとリアナの顔を交互に見つめた。まるで、これから語る内容の重さを、二人に覚悟させようとしているかのようだった。
「…『ヘルマーチャー』、あるいは『ヴァルドスの眷属』と呼ばれる存在についての記述がある。それは、遥か古の時代に、このユーロディア大陸を恐怖で覆ったとされる、闇の存在じゃ」
彼の声は、ひときわ低くなった。部屋の空気が、シンと静まり返る。
「古の伝承によれば、ヘルマーチャーは、人の姿に似て非なる、トカゲのような鱗に覆われた異形の者たちじゃったという。彼らは、古王ヴァルドスと呼ばれる、さらに強大な闇の存在に仕え、人間を襲い、その魂を喰らい、世界を絶望で塗りつぶそうとした…」
カイルは、ゴクリと唾を飲んだ。ヘルマーチャー…ヴァルドス…。初めて聞く名だが、その響きには、形容しがたい不気味さと、抗いがたい力の気配が感じられた。今日の徴税官たちの非道な行いも、あるいはそういった「闇」と無関係ではないのかもしれない。そんな恐ろしい想像が、彼の心をよぎった。
「もちろん、今の世では、そんなものはただのおとぎ話として片付けられておる。聖教もまた、そのような異形の存在は、神の教えに反する妄想であるとして、その名を口にすることさえ禁じておるからのう。じゃが…」
エルミートは、再びカイルとリアナの方へと向き直った。その瞳には、深い憂慮の色が浮かんでいる。
「おとぎ話と侮るなかれ。闇は、常に人の心の隙間から忍び寄るものじゃ。憎しみ、恐怖、絶望、そして際限のない欲望…そういった負の感情が渦巻く時、世界は闇の力に対して無防備になる。そして、今のユーロディアは、まさにその闇が満ち満ちておる…」
彼は、先程のギルバート男爵たちの暴虐を思い返すように、目を細めた。
「レジナルド公爵のような者の圧政、貴族たちの飽くなき権力闘争、そしてそれに苦しむ民衆の絶望…これら全てが、ヘルマーチャーのような災厄を呼び覚ます、肥沃な土壌となりうるのじゃ。お前たちの村で今日起こったことも、あるいは、そのほんの始まり…世界の歪みが引き起こした、小さな悲鳴の一つやもしれぬ」
エルミートの言葉は、カイルの心に重く響いた。今日、自分が感じたあの圧倒的な苦しみは、ただの共感ではなかったのかもしれない。それは、この世界全体が発している、声なき悲鳴だったのかもしれない。そして、その悲鳴は、さらに恐ろしい「何か」を呼び覚まそうとしているのかもしれない。
*
エルミートの言葉は、リアナの心にも深い感銘を与えていた。彼女は、カイルの持つ不思議な力や、その背中の印が、何か特別な意味を持つのではないかと、ずっと感じていた。そして、エルミートの話を聞いて、その予感が確信に変わりつつあった。カイルは、ただの村の少年ではない。彼には、何か大きな運命が待ち受けているのだと。
「賢者様」
リアナは、決意を秘めた目でエルミートを見つめた。その声には、先程までの恐怖の色はなく、むしろ強い意志が感じられた。
「私…もっと学びたいです。世界のことを、そして、カイルの力のことを。もし、カイルの力が、この苦しんでいる世界を少しでも良くするために使えるのなら…私は、そのために何でもしたいんです。カイルのそばで、彼を支えたいんです」
カイルは、リアナのその言葉に驚いた。彼女は、自分のことよりも、カイルのこと、そして世界のことを考えている。その純粋で力強い思いに、カイルは胸を打たれた。彼女の存在が、どれほど自分の支えになっていることか。
エルミートは、リアナの言葉に、静かに頷いた。
「見上げた心がけじゃな、リアナ。お主のその強い意志と、カイルを思う心は、何よりも尊いものじゃ。そして、カイル…」
彼は、再びカイルへと向き直った。
「お主のその背にある『獅子の聖痕』が、本当に獅子の王家のものだとしたら…それは、ただの印ではない。それは、民を導き、民のために戦うことを宿命づけられた者の証じゃ。今のままでは、お主はその力に押し潰されてしまうか、あるいは心ない者たちに利用されるだけじゃろう」
エルミートは、深く息を吸い込んだ。
「わしも、年をとりすぎた。じゃが、残された時間で、お前たちに伝えられるだけの知識と、そして生き抜くための術を教えたいと思う。マティアス村長」
彼は、村長へと向き直った。
「カイルとリアナを、わしの弟子として預からせてはくれまいか。わしの庵は、黒森の奥深く、人里離れた場所にある。そこでなら、レジナルド公爵の目も届くまい。そして、カイルの持つ可能性と、リアナの強い意志を、正しく導くことができるやもしれぬ」
*
エルミートの申し出は、マティアス村長にとって、あまりにも突然で、そして衝撃的なものだった。彼は、しばらくの間、言葉もなくエルミートとカイルの顔を交互に見つめていた。その表情には、困惑と、恐れのようなものが入り混じっていた。
「…賢者様…」
村長は、ようやく絞り出すように言った。
「もし…もし、カイルが本当に…あの『失われた王家の血』を引く者だとしたら…それは、このシルヴァン村にとって、いや、このアキテーヌ王国にとって、祝福となるのでしょうか…それとも…」
彼の声は、不安に震えていた。
「それとも、レジナルド公爵による、さらなる災厄を招くことになるのでしょうか…? 我々のような小さな村が、公爵閣下の怒りを買えば、どうなるか…今日のことで、嫌というほど分かりました…」
村長のその言葉は、村人たちの偽らざる気持ちを代弁していた。カイルの存在が、この村に破滅をもたらすかもしれないという恐怖。それは、無理もないことだった。
エルミートは、その言葉を静かに受け止めた。
「いずれにせよ」彼は、静かに、しかしきっぱりとした口調で告げた。
「このままでは、この子たちの未来はない。そして、このアキテーヌの未来もな…」
その言葉は、まるで予言のように、部屋の重い空気の中に響き渡った。
カイルは、自分の運命が、今、この瞬間に、大きく動き出そうとしているのを感じていた。それは、希望なのか、それとも絶望への入り口なのか。彼にはまだ、知る由もなかった。
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