The Lone Hero ~The Age of Iron and Blood~

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第一編 シルヴァン村の孤星

第5話:アキテーヌ王国の暗部  「獅子の王家」の悲劇

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 その記録は、王都ボルドーの壮麗なるアキテーヌ王宮の、埃を被った書庫の最も奥深い一角に、まるで意図的に忘れ去られたかのように眠っていた。黒革の表紙はひび割れ、羊皮紙にインクで記された文字は色褪せ、紙自体も脆くなっている。

 それは、アキテーヌ王国の、ある特定の時代を記したものであり、しかし公の歴史からは巧みに抹消され、あるいは悪意をもって歪められた真実の断片だった。

「獅子の王家」最後の王、アルベリク・レグルス・ド・アキテーヌ。

 彼の治世は、アキテーヌの歴史において、束の間の、しかし眩いばかりの黄金期として、あるいは理想に殉じた悲劇の王の物語として、ごく一部の古老や、歴史の裏側を覗き見ることを好む者たちの間で、今もなお密やかに語り継がれている。

 *

 王宮書庫に仕える老修道士、ブラザー・トマスは語る。

「アルベリク・レグルス陛下…ああ、あの御方ほど、民草を深く愛し、公正なる裁きを尊ばれたアキテーヌの王は、おそらく歴史上いらっしゃらなかったでしょうな」

 老修道士ブラザー・トマスは、か細い蝋燭の灯りを頼りに、震える手で古い記録を紐解きながら呟いた。その声は、過ぎ去りし時代への痛切な郷愁と、拭いきれぬ深い悲しみを帯びている。彼の目の前には、彼自身が密かに書き写している「真実の年代記」の草稿が広げられていた。

「陛下は、代々受け継がれてきた貴族たちの不当な特権を制限し、貧しき者たちから搾り取る代官を厳しく罰し、そして何よりも、聖教の教えにもあるように、全ての民が法の光の下で等しく生きられる世を目指しておられました。そのお背中には、アキテーヌの太陽そのもののように輝かしい『獅子の聖痕』が刻まれておりました。それは、単に王家の正当性を示す印というだけでなく、民を守り、この国を正しく導くという、神聖にして侵すべからざる誓いの証でもあったのです」

 しかし、その理想は、あまりにも清らかすぎた。この鉄と血の時代には不釣り合いなほどに。

 当時のアキテーヌは、長年の慣習という名の腐敗と、血族と領地という名の利権に凝り固まった、有力貴族たちによる寡占状態にあった。アルベリク王の清廉な改革は、当然のことながら、彼らの猛烈な反発を招いた。彼らは、王の理想を「青臭い絵空事」「世間知らずの戯言」と公然と嘲笑し、自らの既得権益が脅かされることを蛇蝎だこつの如く嫌った。

「特に、当時、王の最も信頼するべき血縁の一人であり、アキテーヌ軍の若き将軍として頭角を現していたレジナルド卿…そう、今の摂政であられるレジナルド公爵閣下は、陛下のその公正さ、その慈悲深さを、誰よりも憎んでいたように見受けられましたな。彼は、その胸の内に、黒々とした野心の炎を燃やしておりました。彼は、他の有力貴族や、聖教の一部でさえも巧みに取り込み、甘言と脅迫、そして金銭をばら撒き、陛下の周囲を徐々に、しかし確実に孤立させていったのです。気高き獅子の王は、いつしか宮廷という名の魔窟まくつにおいて、牙を抜かれた孤独な獣と化しておりました」

 アルベリク王は、民からの信望は揺るぎなく厚かった。しかし、陰謀と裏切りが渦巻く宮廷においては、その民の声さえも届かぬほどに、彼はあまりにも無力だった。その慈悲深さが、かえって彼自身の首を絞めることになったのだから。

 *

 老騎士バルトロメオは、夜ごと、あの悪夢のような光景にうなされる。

 あれは、もう十数年も前のことだ。冷たい秋雨が、王都ボルドーの石畳を容赦なく叩いていた、陰鬱な夜だった。

 彼は、アルベリク・レグルス陛下に絶対の忠誠を誓う、一介の近衛騎士に過ぎなかった。だが、王の理想に強く共鳴し、この国が変わるかもしれないという淡い希望を抱いていた。

 その夜、王宮は異様な静寂に包まれていた。いつもの貴族たちの喧騒も、楽士たちの奏でる音楽もなく、まるで墓場のように、不気味なほどに静まり返っていた。

 バルトロメオは、言いようのない胸騒ぎを覚えていた。数日前から、陛下の顔色が悪く、食事もほとんど喉を通らないご様子だった。侍医は「長旅の疲れと、度重なる政務による過労」と診断したが、陛下の紺碧の瞳の奥には、深い絶望と、全てを諦観ていかんしたかのような、静かな悲しみの色が浮かんでいたのを、彼は見逃さなかった。そして、その不吉な予感は、最悪の形で的中した。

 深夜、王の寝室から、若い侍女の甲高い悲鳴が上がった。

 何事かと駆けつけたバルトロメオが見たのは、寝台の上で、安らかに、しかし永遠に目を閉ざされているアルベリク・レグルス陛下の姿だった。その顔は、激しい苦痛に歪んでいたようにも、しかし同時に、全ての重荷から解放されたかのように安らかな表情にも見えた。

「陛下は…長らく患っておられた病により、崩御された…」

 レジナルド卿……その時には既に王国の軍事力を完全に掌握し、宮廷内に自らの息のかかった者たちを配置し終えていた……は、そう厳かに宣言した。その声には、悲しみの色など微塵も感じられなかった。

 しかし、バルトロメオには分かっていた。これは、断じて単なる病死などではない。巧妙に仕組まれた、冷酷非情な暗殺だ。おそらくは、時間をかけてゆっくりと作用する、見つけ出すことの困難な毒…。

 証拠は何もなかった。レジナルド卿の陰謀は、あまりにも用意周到で、完璧だった。
 彼は、公式の場では、アルベリク王の死を心から嘆き悲しむ忠臣の芝居を打ちながら、その実、邪魔者が消えたことに安堵の表情を浮かべていたのを、バルトロメオは決して、決して忘れられない。

 そして、獅子の王家の悲劇は、それで終わりではなかった。むしろ、それは序章に過ぎなかった。

 アルベリク・レグルス陛下には、美しい王妃と、まだ幼い二人の王子がいた。

 長男のテオドール王子は、まだ十歳にも満たない少年だったが、父王の聡明さと母王妃の優しさを受け継ぎ、将来はきっと偉大な王になるだろうと、誰もが期待していた。そして、次男の…生まれたばかりの赤子。その背中には、父王と同じ、鮮やかな「獅子の聖痕」が輝いていたという。

 レジナルド卿は、その冷酷な仮面の下に、冷たい笑みを浮かべながら、こともなげに言い放った。

「王妃様と王子方には、王都を離れ、安全な場所へお移りいただく。アキテーヌの未来を担うべき王家の血筋を、これ以上、悲しみの癒えぬこの王宮の危険に晒すわけにはいかぬ故な」

 その言葉が、何を意味するのか。バルトロメオには痛いほど分かった。それは、慈悲を装った、死の宣告に他ならなかった。

 数日後、王妃とテオドール王子は、「不慮の事故」で命を落としたと、宮廷から公式に発表された。王都から遠く離れた離宮へ向かう途中の馬車が、険しい峠道で崖から転落したのだという。生存者は、一人もいなかった。あまりにも都合の良い事故だった。あまりにも、レジナルド卿の筋書き通りに。

 その時、バルトロメオの若い部下の一人であり、王家に代々仕えてきた古い騎士の家柄の青年、アラン・ド・モンフェラートが、血相を変えて彼の私室へと駆け込んできた。

「バルトロメオ様! 赤子の王子が…アレクシオス王子が、まだ生きておられます! レジナルド卿の兵に見つかる前に、乳母の手引きで、なんとか王宮から運び出すことができました!」

 アランの腕には、上質な毛織の布にくるまれた、小さな赤子が安らかに眠っていた。そのか細い背中には、間違いなく、獅子の王家の血を引く者のみに現れるという「獅子の聖痕」が、まるで燃えるような赤色で、鮮やかに刻まれていた。

「この御子だけは…アレクシオス王子だけは、何としてもお守りしなければ…! これが、アキテーヌ最後の希望なのです!」

 アランは、涙ながらに、しかし強い決意を目に宿して訴えた。

 バルトロメオは、底知れぬ絶望の中で、そのアランの言葉と、赤子の背中に輝く聖痕に、ほんの僅かな、しかし確かな光を見出した気がした。

 *

 アレクシオス王子……カイルと名付けられ、シルヴァン村の片隅で密かに育てられることになるその赤子は、アラン・ド・モンフェラートと、彼に命がけで協力した数少ない忠臣たちの手によって、レジナルド卿の執拗な追っ手から辛うじて逃れることができた。彼らは、夜の闇に紛れて王都ボルドーを脱出し、追っ手を欺くために幾度も経路を変え、飢えと寒さ、そして絶え間ない恐怖と戦いながら、厳しい逃避行を続けた。その道中、アランの仲間たちは、一人、また一人と、レジナルドの追っ手に捕らえられ、あるいは命を落としていった。

 そして、アラン自身もまた、数えきれないほどの深手を負いながら、最後の力を振り絞って、アキテーヌの最も辺境、黒森に近いシルヴァン村へと辿り着いた。彼は、そこで偶然出会った、長年子宝に恵まれなかった心優しい老夫婦に、アレクシオス王子の運命を託した。

「この御子は…アキテーヌの最後の希望かもしれぬ…」

 アランは、もはや息も絶え絶えになりながら、そう言い残し、アレクシオス王子の背中にある「獅子の聖痕」を老夫婦に示したという。そして、その印が何を意味し、それが故にこの御子が常に命を狙われる危険性があることを伝え、決して誰にもその存在を悟られてはならない、その印を見せてはならないと、固く固く口止めした。

 老夫婦は、アランのただならぬ様子と、赤子の背負ったあまりにも重い運命を察し、涙ながらにその最後の頼みを引き受けた。

 アラン・ド・モンフェラートは、アレクシオス王子の無事を見届けた後、その老夫婦の見守る中で、静かに息を引き取った。

 彼の名は、アキテーヌの公式な歴史の表舞台には、決して残ることはなかった。だが、彼の揺るぎない勇気と、主君への絶対的な忠誠心こそが、アキテーヌの最後の希望の種を、絶望の淵から救い出し、未来へと繋いだのだ。

 *

 レジナルド公爵の側近、ギルバート男爵の冷笑的な独白。

「獅子の王家は、完全に、そして永遠に滅びた」

 レジナルド公爵は、そう確信していた。いや、そう信じ込むように、自分自身に言い聞かせていた。

 アルベリク・レグルスを排除し、その目障りな王妃と利発だった長男も「適切に処理」した。次男の赤子については、忠臣気取りの馬鹿な騎士が何人か連れて逃亡したという忌々しい報告もあったが、所詮は乳飲み子。

 辺境のどこかで野垂れ死んだか、あるいは飢えた狼の餌食にでもなっただろう。たとえ、万が一、億が一生き延びていたとしても、その存在が再び歴史の表舞台に現れ、自分の築き上げた権力を脅かすことなど、天地がひっくり返ってもあり得ぬことだ。

 レジナルドは、全てにおいて周到に事を進めた。

 王家の血筋が完全に途絶えたことを内外に宣言した後、彼は、王家の遠縁であり、領地も小さく、何よりも己の野心を持たず、意気地のないことで有名なギヨーム卿を選び、新たなアキテーヌ国王として恭しく玉座に据えた。

 ギヨームは、その地位にふさわしい器では万に一つもなかった。彼は、ただレジナルドの意のままに動き、民衆の不満の捌け口となり、そして何よりもレジナルドの権力の正当性を糊塗ことするための、都合の良い操り人形に過ぎなかった。玉座に座ってはいるものの、その実権は全て、摂政であるレジナルド公爵が、その鉄の腕で握りしめていた。

「ギヨーム陛下、何のご心配もいりません。このレジナルドがいる限り、アキテーヌの安寧と繁栄は、未来永劫保証いたしますぞ」

 レジナルドは、壮麗な玉座の間で、青白い顔をして怯えるギヨーム王に、そう恭しく囁きかける。その言葉は、甘美な毒薬のように、忠誠を装った紛れもない脅迫に他ならなかった。
 ギヨーム王は、全てを知っていた。レジナルドの非道な野望も、アルベリク王の無念の死も、そして自らが正統な王ではないという、拭い去ることのできない罪の意識も。

 その罪悪感と、いつか「獅子の王家」の真の生き残りが、亡霊のように現れ、自らの欺瞞に満ちた地位を奪い去るのではないかという、狂気に近い恐怖に、彼は夜毎うなされ続けていた。もはや、アルコールと、宮廷侍医が処方する怪しげな鎮静剤だけが、彼の唯一の慰めであり、現実逃避の手段となっていた。

「獅子の聖痕…か」

 レジナルドは、時折、執務室で一人になると、その言葉を苦々しげに口にすることがあった。それは、彼にとって、忌まわしい過去の象徴であり、そして決して消えることのない、心の奥底に突き刺さった棘のような不安の種でもあった。彼は、その印を持つ者が再び現れることを、誰よりも、何よりも恐れていたのだ。

 だからこそ、彼は、その噂のほんの欠片でも耳にすれば、血眼になってその芽を摘み取ろうとするだろう。たとえそれが、どんな些細な情報であっても、辺境の村の、取るに足らない孤児の噂であったとしても。

 *

 シルヴァン村。
 マティアス村長は、エルミートの前に深々と、そして長い間頭を下げ続けていた。その顔には、苦渋と、混乱と、そしてほんの僅かな、しかし確かに灯った決意の色が浮かんでいた。

「…賢者エルミート様、よく…よく分かりました」

 村長の声は、まだ震えていたが、その中には、何かを振り切ったような、確かな響きがあった。

「あの子たちを…、あなた様にお託し申し上げます。このシルヴァン村では、あのお方を守り切ることも、その大いなるお力を正しくお導きすることも、我々のような卑賤の者には到底できませぬ。どうか…どうか、カイルを、リアナを、そして、もし…もし万が一にも叶うものならば、このアキテーヌの未来を、お導きくださいませ…!」

 その言葉は、一縷の、しかしあまりにも儚い望みと、世界の不条理に対する深い絶望が入り混じった、村全体の、そして歴史に翻弄される名もなき民の、悲痛な叫びそのものであった。

 エルミートは、その言葉の重みを全身で受け止め、静かに、そして厳かに頷いた。

「必ずや…このエルミート、命に代えましても…」

 カイルは、村長の言葉とエルミートの表情を、ただ呆然と見つめていた。

 自分の背中の印が、そんなにも重い過去と、そして危険に満ちた未来に繋がっているとは。
 彼は、これから自分がどのような道を歩むことになるのか、想像もできなかった。
 だが、隣で、リアナが、そっと彼の手を力強く握ってくれた。その温もりが、カイルの心に、ほんの少しの、しかし確かな勇気を灯した。

 運命の歯車は、もう誰にも止められない圧倒的な速さで、回り始めていた。

 アキテーヌの空は、相変わらず鉛色に重く曇っていたが、その分厚い雲の切れ間から、ほんの僅かに、まるで血の色のような、弱々しい太陽の光が差し込んでいるようにも見えた。

 紅き涙の夜明けの、最初の兆しなのか。
 その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。
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