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第一編 シルヴァン村の孤星
第7話:旅立ちの夜
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その夜のシルヴァン村は、まるで息を潜めた獣のように静まり返っていた。
村長の家には、マティアス村長と、数人の信頼できる村の男たちが集まっていた。彼らは、エルミートから事情を聞き、青ざめた顔をしながらも、カイルとリアナの脱出を手助けすることを承諾してくれた。
「賢者様、そしてカイル、リアナ…どうか、ご無事で…」
マティアス村長は、震える手で、干し肉と硬いパン、そして古い毛布が入った袋をエルミートに手渡した。その目には、不安の色が浮かんでいた。
月も星も見えない、まさに漆黒の闇。三人は、他の村人たちに気づかれぬよう、息を殺して村の裏手から黒森へと足を踏み入れた。
カイルは、闇に沈む故郷の村を振り返った。養父母と暮らした小さな家、リアナと秘密を語り合った泉、そして、自分を疎みながらも、どこかで見守ってくれていた村の人々。その全てが、急速に闇の中へと溶けていく。もう二度と、この村に戻ることはないのかもしれない。そんな予感が、彼の胸を締め付けた。
リアナもまた、黙ってカイルの隣を歩いていた。彼女の故郷への想いは、カイル以上に強いはずだ。病気の母親や、幼い弟妹たちを残していくことへの辛さは、察するに余りある。だが、彼女の表情には、悲しみよりもむしろ、これから始まるであろう未知の旅への、そしてカイルと共にいることへの、静かな決意が滲んでいた。
*
村を出て、黒森の中を半刻ほど進んだ頃だった。
「…来たな」
エルミートが、低い声で呟いた。
カイルとリアナが緊張した面持ちで周囲を見回すと、後方の闇の中から、複数の松明の光と、犬の唸り声のようなものが微かに聞こえてきた。追っ手だ。それも、猟犬を連れている。
「やはり、わしの読み通りじゃったか。ギルバートの報告を受けた公爵の差し金に相違あるまい。奴ら、思ったよりも鼻が利くわい」
エルミートは、苦々しげに言った。しかし、その表情に焦りの色は見られない。むしろ、この状況を予測していたかのような冷静ささえ感じられた。
「カイル、リアナ、落ち着いてわしの言う通りにするのじゃ。この森は、わしにとっては庭のようなもの。奴らを撒くことなど、造作もないわ」
そう言うと、エルミートは二人を促し、獣道とも呼べないような、さらに深い森の奥へと進路を変えた。
息詰まる追跡劇が始まった。
追っ手の数は、おそらく五、六人。彼らは、猟犬を使って執拗に三人の匂いを追ってくる。松明の光が、木々の間からちらつき、その距離が徐々に縮まってきているのが分かった。
カイルの心臓は、激しく高鳴っていた。恐怖と、そしてリアナとエルミートを守らなければならないという焦りが、彼の全身を支配する。背中の「獅子の傷痕」が、まるで警告を発するように、ズキズキと熱を持っていた。
エルミートは、冷静だった。彼は、まるで森の精霊のように、音もなく木々の間をすり抜け、時折立ち止まっては地面の痕跡を消し、あるいはわざと偽の足跡を残して追っ手を別の方向へと誘導した。その知識と経験は、カイルとリアナにとって、まさに驚嘆すべきものだった。
「リアナ、あの崖の上の枯れ木に、お主が持っておる眠り草の粉を仕掛けよ。風向きを読めば、奴らの猟犬の鼻を一時的に麻痺させられるやもしれん」
「カイル、お主はわしと共に来い。あの岩陰に潜み、追っ手が通り過ぎるのを待つ。もし見つかった場合は…」
エルミートは、そこで一旦言葉を切り、懐から一本の古びた短剣を取り出すと、カイルに手渡した。
「…これを使え。ただし、殺すためではない。お主自身と、リアナを守るためにじゃ。良いな?」
カイルは、震える手で短剣を受け取った。冷たい鉄の感触が、彼の掌に重くのしかかる。人を傷つけるための道具。そんなものを、自分が使う日が来るなんて。
エルミートの策は、見事に功を奏した。リアナが仕掛けた眠り草の粉は、風に乗って追っ手の猟犬たちを混乱させ、彼らの追跡の足を鈍らせた。そして、エルミートとカイルが潜んだ岩陰を、追っ手の一隊が気づかずに通り過ぎようとした、その時だった。
不運にも、一人の兵士が、何かに気づいたように足を止め、カイルたちが隠れている岩陰の方へと鋭い視線を向けた。その手には、抜き身の剣が握られている。
「誰かいるのか! 出てこい!」
エルミートが、カイルの肩を強く押さえた。
「動くな、カイル。わしが出る」
しかし、エルミートが立ち上がろうとした瞬間、カイルは、まるで何かに突き動かされたように、岩陰から飛び出していた。
「僕だ!」
カイルは、震える声で叫んだ。手に握った短剣を、無我夢中で兵士の方へと突き出す。
兵士は、突然現れた小柄な少年に一瞬面食らったようだったが、すぐに獰猛な笑みを浮かべた。
「なんだ、小僧か。こんな夜更けに、森の中で何をしている? さあ、大人しく捕まれ。少しばかり、聞きたいことがあるんでな。特に、お前の背中にあるという、奇妙な印についてな!」
兵士は、嘲るように言いながら、カイルに近づいてくる。やはり、ギルバート男爵からの報告で、カイルの「印」のことはある程度伝わっているのだ。
カイルの頭の中は、真っ白だった。ただ、リアナとエルミートを守らなければならない。その一心だけが、彼を突き動かしていた。
兵士が剣を振りかざした瞬間、カイルは、咄嗟に身を屈め、その攻撃を避けた。そして、そのまま兵士の足元に滑り込むようにして、持っていた短剣で、兵士の太腿を浅く切り裂いた。
「ぐあっ!」
兵士が、苦痛の声を上げて膝をついた。カイルの剣は、人を殺傷するほどの深手を与えてはいなかったが、それでも兵士の戦意を削ぐには十分だった。
「小僧…! よくも…!」
兵士は、憎悪に満ちた目でカイルを睨みつけた。そして、次の瞬間、彼はありったけの声で叫んだ。
「ここだ! 奴らがいたぞ! 小僧と、老いぼれと、娘だ! 早く来い! 逃がすなァッ!!」
その叫び声は、静かな夜の森に甲高く響き渡り、遠くで活動していた他の追っ手たちの耳にも、間違いなく届いただろう。
「まずい! 仲間を呼ばれた!」エルミートが、鋭い声で叫んだ。
「カイル、リアナ、すぐにここを離れるぞ! 奴らが集まってくる前に!」
エルミートは、カイルとリアナの手を掴むと、再び森の奥深くへと駆け出した。背後からは、兵士の罵声と、それに応えるかのように、複数の追っ手の怒声や猟犬の獰猛な吠え声が、急速に近づいてくるのが感じられた。
カイルは、息を切らしながら、必死にエルミートとリアナの後を追った。自分の軽率な行動が、事態をさらに悪化させてしまった。その悔しさと、迫りくる追っ手への恐怖で、心臓が張り裂けそうだった。
「カイル、気をしっかり持つのじゃ!」
エルミートが、走りながら叫んだ。
「わしに考えがある! 古い罠場を利用する!」
エルミートの脳裏には、この森の地形と、かつて彼自身が獣を捕らえるために仕掛けた古い罠の場所が、明確に描かれていた。
三人は、もはや道なき道を進み、険しい岩場や、絡みつく茨を乗り越え、ひたすらに走り続けた。追っ手の声は、すぐそこまで迫っている。松明の光が、木々の間から不気味に揺らめき、彼らの恐怖を煽った。
エルミートは、ある地点で足を止めると、リアナに指示を出した。
「リアナ、あの茂みの中に、お主が持っている刺激臭の強い薬草を撒け! 風下じゃ、奴らの犬は混乱するはずじゃ!」
リアナは、震える手で薬草を撒いた。
次にエルミートは、カイルを促し、古い大きな倒木を利用して、巧妙な罠を仕掛けた。それは、人が踏み込めば足を取られ、動きを封じられるという単純なものだったが、この暗闇と混乱の中では、十分に効果を発揮するだろう。
「よし、これで少しは時間を稼げるはずじゃ!」
エルミートは、息を切らしながら言った。
「カイル、リアナ、わしに付いてこい! この近くに、奴らの目をごまかせる場所がある!」
エルミートは、二人を連れて、さらに森の奥深く、誰も足を踏み入れないような獣道を進んでいった。月明かりさえ届かぬ暗闇の中、エルミートだけが、まるで長年住み慣れた我が家のように、迷うことなく進んでいく。
しばらく進んだ後、エルミートはある大きな岩壁の前で足を止めた。その岩壁の下、鬱蒼と茂る蔓草に覆われるようにして、ぽっかりと暗い穴が開いているのが見えた。
「ここじゃ…」エルミートは、低い声で言った。
「昔、この森で狩りをしていた時に見つけた、古い熊の巣穴じゃ。今はもう、その主はおらん。しばらくここで息を潜め、奴らが諦めるのを待つぞ」
三人は、その薄暗く、獣の匂いが微かに残る巣穴の中に、息を殺して身を隠した。巣穴の中は、ひんやりと湿っぽく、カイルとリアナは、互いの存在を確かめるように、そっと身を寄せ合った。
外からは、遠くに追っ手たちの怒声や、猟犬の混乱した吠え声が聞こえてくる。エルミートの仕掛けた罠と、リアナの撒いた刺激臭の強い薬草が、効果を発揮しているようだった。
長い、長い時間が過ぎたように感じられた。カイルは、暗闇の中で、先程の兵士の顔と、自分の手にした短剣の冷たい感触を思い出していた。人を傷つけたという事実は、彼の心に重くのしかかり、言いようのない罪悪感と恐怖をもたらしていた。
「カイル…大丈夫?」
リアナが、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。彼女の顔も、恐怖と疲労で青ざめていたが、その瞳には、カイルを気遣う優しい光が宿っていた。
「…うん…なんとか…」
カイルは、力なく答えた。
エルミートは、そんなカイルの様子を察したのか、静かに語りかけた。
「…カイルよ、お前の剣はまだ優しい。人を殺めることを躊躇う、その心は尊いものじゃ。じゃがな」
エルミートの声は、厳しさを帯びた。
「いずれお前は、本当に大切なものを守るために、その優しさを超えた決断を迫られる日が来るやもしれん。その時、決して迷うな。愛とは、時に厳しいものなのだから。そして、生き残るためには、時に非情な判断も必要となる。それが、この世界の厳しさなのじゃ」
エルミートの言葉は、カイルの心に深く刻み込まれた。優しさだけでは、何も守れないのかもしれない。その厳しい現実を、彼は今、身をもって体験したのだ。
リアナもまた、黙ってエルミートの言葉に耳を傾けていた。彼女もまた、この短い逃避行の中で、世界の非情さと、生き抜くことの困難さを、痛感していた。
*
巣穴の中で一夜を明かし、翌朝、エルミートは慎重に外の様子を窺った。
「…奴らの気配は、今のところないようじゃな。昨夜の混乱で、諦めて引き返したか、あるいは別の場所を探しに行ったか…じゃが、油断は禁物じゃ。レジナルドの執念深さを考えれば、奴らはそう簡単には諦めまい。ここから庵までは、まだ数日の道のりじゃ。細心の注意を払って進むぞ」
三人は、再び黒森の奥深くへと足を踏み入れた。追っ手の目を警戒しながら、時には獣道を辿り、時には道なき道を進む、過酷な旅だった。カイルとリアナは、エルミートから、森の中で生き抜くための様々な知識――食べられる植物の見分け方、水の探し方、動物の足跡の読み方、そして天候の変化を読む方法など――を学びながら、一歩一歩、確実に庵へと近づいていった。
カイルは、この旅の中で、自分の感受性が、必ずしも弱さだけではないことに気づき始めていた。森の微細な音や匂いの変化、動物たちの気配、そしてエルミートやリアナの僅かな表情の動きから、危険を察知したり、彼らの心情を理解したりするのに役立ったのだ。エルミートは、そんなカイルの才能を認めつつも、それを制御し、正しく使うことの重要性を繰り返し説いた。
*
数日間にわたる過酷な旅の末、三人は、ついにエルミートの庵に辿り着いた。
そこは、黒森の最も深い場所、まるで世界の果てのように、人里離れた場所にひっそりと佇んでいた。古びた石造りの塔が、周囲の木々よりも高くそびえ立ち、その頂上からは、遠く竜牙山脈の険しい峰々を望むことができた。
塔の周囲は、不思議な静寂と、どこか神秘的な空気に満ちていた。外界の喧騒や、シルヴァン村で感じた人々の苦しみや恐怖が、まるで嘘のように遠くに感じられる。ここは、まさに外界から完全に隔絶された、エルミートだけの聖域のようだった。
エルミートが、重々しい木の扉を開けると、内部には、カイルとリアナが想像もしていなかったような光景が広がっていた。壁一面には、天井まで届くほどの書棚が設えられ、そこには夥しい数の古びた書物が、ぎっしりと並べられている。その中には、革の表紙に奇妙な文字が記されたものや、パピルスのような紙に描かれた不可解な図形が描かれた巻物もあった。
部屋の中央には、大きな木の机が置かれ、その上には、天球儀や、複雑な模様が刻まれた金属の円盤、そして様々な種類の薬草や鉱物が、所狭しと並べられている。窓辺には、望遠鏡のようなものが置かれ、空へと向けられていた。
そして、部屋の隅には、数本の剣や槍、弓といった武具が、壁に立てかけられている。それらは、使い古されてはいたが、手入れが行き届いており、いつでも使える状態にあることが窺えた。
「ここが、わしの庵じゃ」
エルミートは、どこか誇らしげに、同時に、深い郷愁を込めたような声で言った。
「そして、お前たちの新たな学び舎であり…」
彼は、そこで一度言葉を切り、窓の外に広がる、果てしない黒森の闇へと視線を向けた。
「…あるいは、世界の運命を変えるための、最初の砦となるやもしれん」
エルミートは、カイルとリアナの方へと向き直った。その瞳には、深い叡智と、そして彼らの未来に対する、厳しくも温かい期待の色が浮かんでいた。
「だが、その道は長く、そして険しいぞ。お前たちには、これから多くのことを学んでもらわねばならぬ。剣の技、森の知識、星の運行、そして何よりも、この世界の真実と、それに立ち向かうための心の強さをな」
カイルとリアナは、エルミートのその言葉に、身の引き締まる思いを感じていた。
これから始まるであろう厳しい修練の日々。そして、エルミートが語るまだ見ぬ「世界の闇」との、戦い。
だが、カイルの心には、恐怖だけではなく、ほんの僅かな、しかし確かな決意の光が灯っていた。リアナがそばにいてくれる。そして、エルミートが導いてくれる。ならば、きっと――。
村長の家には、マティアス村長と、数人の信頼できる村の男たちが集まっていた。彼らは、エルミートから事情を聞き、青ざめた顔をしながらも、カイルとリアナの脱出を手助けすることを承諾してくれた。
「賢者様、そしてカイル、リアナ…どうか、ご無事で…」
マティアス村長は、震える手で、干し肉と硬いパン、そして古い毛布が入った袋をエルミートに手渡した。その目には、不安の色が浮かんでいた。
月も星も見えない、まさに漆黒の闇。三人は、他の村人たちに気づかれぬよう、息を殺して村の裏手から黒森へと足を踏み入れた。
カイルは、闇に沈む故郷の村を振り返った。養父母と暮らした小さな家、リアナと秘密を語り合った泉、そして、自分を疎みながらも、どこかで見守ってくれていた村の人々。その全てが、急速に闇の中へと溶けていく。もう二度と、この村に戻ることはないのかもしれない。そんな予感が、彼の胸を締め付けた。
リアナもまた、黙ってカイルの隣を歩いていた。彼女の故郷への想いは、カイル以上に強いはずだ。病気の母親や、幼い弟妹たちを残していくことへの辛さは、察するに余りある。だが、彼女の表情には、悲しみよりもむしろ、これから始まるであろう未知の旅への、そしてカイルと共にいることへの、静かな決意が滲んでいた。
*
村を出て、黒森の中を半刻ほど進んだ頃だった。
「…来たな」
エルミートが、低い声で呟いた。
カイルとリアナが緊張した面持ちで周囲を見回すと、後方の闇の中から、複数の松明の光と、犬の唸り声のようなものが微かに聞こえてきた。追っ手だ。それも、猟犬を連れている。
「やはり、わしの読み通りじゃったか。ギルバートの報告を受けた公爵の差し金に相違あるまい。奴ら、思ったよりも鼻が利くわい」
エルミートは、苦々しげに言った。しかし、その表情に焦りの色は見られない。むしろ、この状況を予測していたかのような冷静ささえ感じられた。
「カイル、リアナ、落ち着いてわしの言う通りにするのじゃ。この森は、わしにとっては庭のようなもの。奴らを撒くことなど、造作もないわ」
そう言うと、エルミートは二人を促し、獣道とも呼べないような、さらに深い森の奥へと進路を変えた。
息詰まる追跡劇が始まった。
追っ手の数は、おそらく五、六人。彼らは、猟犬を使って執拗に三人の匂いを追ってくる。松明の光が、木々の間からちらつき、その距離が徐々に縮まってきているのが分かった。
カイルの心臓は、激しく高鳴っていた。恐怖と、そしてリアナとエルミートを守らなければならないという焦りが、彼の全身を支配する。背中の「獅子の傷痕」が、まるで警告を発するように、ズキズキと熱を持っていた。
エルミートは、冷静だった。彼は、まるで森の精霊のように、音もなく木々の間をすり抜け、時折立ち止まっては地面の痕跡を消し、あるいはわざと偽の足跡を残して追っ手を別の方向へと誘導した。その知識と経験は、カイルとリアナにとって、まさに驚嘆すべきものだった。
「リアナ、あの崖の上の枯れ木に、お主が持っておる眠り草の粉を仕掛けよ。風向きを読めば、奴らの猟犬の鼻を一時的に麻痺させられるやもしれん」
「カイル、お主はわしと共に来い。あの岩陰に潜み、追っ手が通り過ぎるのを待つ。もし見つかった場合は…」
エルミートは、そこで一旦言葉を切り、懐から一本の古びた短剣を取り出すと、カイルに手渡した。
「…これを使え。ただし、殺すためではない。お主自身と、リアナを守るためにじゃ。良いな?」
カイルは、震える手で短剣を受け取った。冷たい鉄の感触が、彼の掌に重くのしかかる。人を傷つけるための道具。そんなものを、自分が使う日が来るなんて。
エルミートの策は、見事に功を奏した。リアナが仕掛けた眠り草の粉は、風に乗って追っ手の猟犬たちを混乱させ、彼らの追跡の足を鈍らせた。そして、エルミートとカイルが潜んだ岩陰を、追っ手の一隊が気づかずに通り過ぎようとした、その時だった。
不運にも、一人の兵士が、何かに気づいたように足を止め、カイルたちが隠れている岩陰の方へと鋭い視線を向けた。その手には、抜き身の剣が握られている。
「誰かいるのか! 出てこい!」
エルミートが、カイルの肩を強く押さえた。
「動くな、カイル。わしが出る」
しかし、エルミートが立ち上がろうとした瞬間、カイルは、まるで何かに突き動かされたように、岩陰から飛び出していた。
「僕だ!」
カイルは、震える声で叫んだ。手に握った短剣を、無我夢中で兵士の方へと突き出す。
兵士は、突然現れた小柄な少年に一瞬面食らったようだったが、すぐに獰猛な笑みを浮かべた。
「なんだ、小僧か。こんな夜更けに、森の中で何をしている? さあ、大人しく捕まれ。少しばかり、聞きたいことがあるんでな。特に、お前の背中にあるという、奇妙な印についてな!」
兵士は、嘲るように言いながら、カイルに近づいてくる。やはり、ギルバート男爵からの報告で、カイルの「印」のことはある程度伝わっているのだ。
カイルの頭の中は、真っ白だった。ただ、リアナとエルミートを守らなければならない。その一心だけが、彼を突き動かしていた。
兵士が剣を振りかざした瞬間、カイルは、咄嗟に身を屈め、その攻撃を避けた。そして、そのまま兵士の足元に滑り込むようにして、持っていた短剣で、兵士の太腿を浅く切り裂いた。
「ぐあっ!」
兵士が、苦痛の声を上げて膝をついた。カイルの剣は、人を殺傷するほどの深手を与えてはいなかったが、それでも兵士の戦意を削ぐには十分だった。
「小僧…! よくも…!」
兵士は、憎悪に満ちた目でカイルを睨みつけた。そして、次の瞬間、彼はありったけの声で叫んだ。
「ここだ! 奴らがいたぞ! 小僧と、老いぼれと、娘だ! 早く来い! 逃がすなァッ!!」
その叫び声は、静かな夜の森に甲高く響き渡り、遠くで活動していた他の追っ手たちの耳にも、間違いなく届いただろう。
「まずい! 仲間を呼ばれた!」エルミートが、鋭い声で叫んだ。
「カイル、リアナ、すぐにここを離れるぞ! 奴らが集まってくる前に!」
エルミートは、カイルとリアナの手を掴むと、再び森の奥深くへと駆け出した。背後からは、兵士の罵声と、それに応えるかのように、複数の追っ手の怒声や猟犬の獰猛な吠え声が、急速に近づいてくるのが感じられた。
カイルは、息を切らしながら、必死にエルミートとリアナの後を追った。自分の軽率な行動が、事態をさらに悪化させてしまった。その悔しさと、迫りくる追っ手への恐怖で、心臓が張り裂けそうだった。
「カイル、気をしっかり持つのじゃ!」
エルミートが、走りながら叫んだ。
「わしに考えがある! 古い罠場を利用する!」
エルミートの脳裏には、この森の地形と、かつて彼自身が獣を捕らえるために仕掛けた古い罠の場所が、明確に描かれていた。
三人は、もはや道なき道を進み、険しい岩場や、絡みつく茨を乗り越え、ひたすらに走り続けた。追っ手の声は、すぐそこまで迫っている。松明の光が、木々の間から不気味に揺らめき、彼らの恐怖を煽った。
エルミートは、ある地点で足を止めると、リアナに指示を出した。
「リアナ、あの茂みの中に、お主が持っている刺激臭の強い薬草を撒け! 風下じゃ、奴らの犬は混乱するはずじゃ!」
リアナは、震える手で薬草を撒いた。
次にエルミートは、カイルを促し、古い大きな倒木を利用して、巧妙な罠を仕掛けた。それは、人が踏み込めば足を取られ、動きを封じられるという単純なものだったが、この暗闇と混乱の中では、十分に効果を発揮するだろう。
「よし、これで少しは時間を稼げるはずじゃ!」
エルミートは、息を切らしながら言った。
「カイル、リアナ、わしに付いてこい! この近くに、奴らの目をごまかせる場所がある!」
エルミートは、二人を連れて、さらに森の奥深く、誰も足を踏み入れないような獣道を進んでいった。月明かりさえ届かぬ暗闇の中、エルミートだけが、まるで長年住み慣れた我が家のように、迷うことなく進んでいく。
しばらく進んだ後、エルミートはある大きな岩壁の前で足を止めた。その岩壁の下、鬱蒼と茂る蔓草に覆われるようにして、ぽっかりと暗い穴が開いているのが見えた。
「ここじゃ…」エルミートは、低い声で言った。
「昔、この森で狩りをしていた時に見つけた、古い熊の巣穴じゃ。今はもう、その主はおらん。しばらくここで息を潜め、奴らが諦めるのを待つぞ」
三人は、その薄暗く、獣の匂いが微かに残る巣穴の中に、息を殺して身を隠した。巣穴の中は、ひんやりと湿っぽく、カイルとリアナは、互いの存在を確かめるように、そっと身を寄せ合った。
外からは、遠くに追っ手たちの怒声や、猟犬の混乱した吠え声が聞こえてくる。エルミートの仕掛けた罠と、リアナの撒いた刺激臭の強い薬草が、効果を発揮しているようだった。
長い、長い時間が過ぎたように感じられた。カイルは、暗闇の中で、先程の兵士の顔と、自分の手にした短剣の冷たい感触を思い出していた。人を傷つけたという事実は、彼の心に重くのしかかり、言いようのない罪悪感と恐怖をもたらしていた。
「カイル…大丈夫?」
リアナが、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。彼女の顔も、恐怖と疲労で青ざめていたが、その瞳には、カイルを気遣う優しい光が宿っていた。
「…うん…なんとか…」
カイルは、力なく答えた。
エルミートは、そんなカイルの様子を察したのか、静かに語りかけた。
「…カイルよ、お前の剣はまだ優しい。人を殺めることを躊躇う、その心は尊いものじゃ。じゃがな」
エルミートの声は、厳しさを帯びた。
「いずれお前は、本当に大切なものを守るために、その優しさを超えた決断を迫られる日が来るやもしれん。その時、決して迷うな。愛とは、時に厳しいものなのだから。そして、生き残るためには、時に非情な判断も必要となる。それが、この世界の厳しさなのじゃ」
エルミートの言葉は、カイルの心に深く刻み込まれた。優しさだけでは、何も守れないのかもしれない。その厳しい現実を、彼は今、身をもって体験したのだ。
リアナもまた、黙ってエルミートの言葉に耳を傾けていた。彼女もまた、この短い逃避行の中で、世界の非情さと、生き抜くことの困難さを、痛感していた。
*
巣穴の中で一夜を明かし、翌朝、エルミートは慎重に外の様子を窺った。
「…奴らの気配は、今のところないようじゃな。昨夜の混乱で、諦めて引き返したか、あるいは別の場所を探しに行ったか…じゃが、油断は禁物じゃ。レジナルドの執念深さを考えれば、奴らはそう簡単には諦めまい。ここから庵までは、まだ数日の道のりじゃ。細心の注意を払って進むぞ」
三人は、再び黒森の奥深くへと足を踏み入れた。追っ手の目を警戒しながら、時には獣道を辿り、時には道なき道を進む、過酷な旅だった。カイルとリアナは、エルミートから、森の中で生き抜くための様々な知識――食べられる植物の見分け方、水の探し方、動物の足跡の読み方、そして天候の変化を読む方法など――を学びながら、一歩一歩、確実に庵へと近づいていった。
カイルは、この旅の中で、自分の感受性が、必ずしも弱さだけではないことに気づき始めていた。森の微細な音や匂いの変化、動物たちの気配、そしてエルミートやリアナの僅かな表情の動きから、危険を察知したり、彼らの心情を理解したりするのに役立ったのだ。エルミートは、そんなカイルの才能を認めつつも、それを制御し、正しく使うことの重要性を繰り返し説いた。
*
数日間にわたる過酷な旅の末、三人は、ついにエルミートの庵に辿り着いた。
そこは、黒森の最も深い場所、まるで世界の果てのように、人里離れた場所にひっそりと佇んでいた。古びた石造りの塔が、周囲の木々よりも高くそびえ立ち、その頂上からは、遠く竜牙山脈の険しい峰々を望むことができた。
塔の周囲は、不思議な静寂と、どこか神秘的な空気に満ちていた。外界の喧騒や、シルヴァン村で感じた人々の苦しみや恐怖が、まるで嘘のように遠くに感じられる。ここは、まさに外界から完全に隔絶された、エルミートだけの聖域のようだった。
エルミートが、重々しい木の扉を開けると、内部には、カイルとリアナが想像もしていなかったような光景が広がっていた。壁一面には、天井まで届くほどの書棚が設えられ、そこには夥しい数の古びた書物が、ぎっしりと並べられている。その中には、革の表紙に奇妙な文字が記されたものや、パピルスのような紙に描かれた不可解な図形が描かれた巻物もあった。
部屋の中央には、大きな木の机が置かれ、その上には、天球儀や、複雑な模様が刻まれた金属の円盤、そして様々な種類の薬草や鉱物が、所狭しと並べられている。窓辺には、望遠鏡のようなものが置かれ、空へと向けられていた。
そして、部屋の隅には、数本の剣や槍、弓といった武具が、壁に立てかけられている。それらは、使い古されてはいたが、手入れが行き届いており、いつでも使える状態にあることが窺えた。
「ここが、わしの庵じゃ」
エルミートは、どこか誇らしげに、同時に、深い郷愁を込めたような声で言った。
「そして、お前たちの新たな学び舎であり…」
彼は、そこで一度言葉を切り、窓の外に広がる、果てしない黒森の闇へと視線を向けた。
「…あるいは、世界の運命を変えるための、最初の砦となるやもしれん」
エルミートは、カイルとリアナの方へと向き直った。その瞳には、深い叡智と、そして彼らの未来に対する、厳しくも温かい期待の色が浮かんでいた。
「だが、その道は長く、そして険しいぞ。お前たちには、これから多くのことを学んでもらわねばならぬ。剣の技、森の知識、星の運行、そして何よりも、この世界の真実と、それに立ち向かうための心の強さをな」
カイルとリアナは、エルミートのその言葉に、身の引き締まる思いを感じていた。
これから始まるであろう厳しい修練の日々。そして、エルミートが語るまだ見ぬ「世界の闇」との、戦い。
だが、カイルの心には、恐怖だけではなく、ほんの僅かな、しかし確かな決意の光が灯っていた。リアナがそばにいてくれる。そして、エルミートが導いてくれる。ならば、きっと――。
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