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第一編 シルヴァン村の孤星
第8話:庵での修練
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黒森の奥深く、人里離れた場所にひっそりと佇むエルミートの石造りの塔。そこは、外界の喧騒やアキテーヌ王国の圧政の影が届かぬ、静謐に包まれた聖域のようだった。カイルとリアナにとって、ここでの日々は、シルヴァン村でのそれとは全く異なる、新たな世界の始まりを意味していた。
エルミートは、カイルとリアナに、まず庵での生活の心得を厳しく、しかし愛情を込めて教え込んだ。
「この庵での暮らしは、お前たちにとって修行そのものじゃ」
朝靄が立ち込める塔の前の小さな広場で、エルミートは二人の前に立ち、静かに語り始めた。その声は、森の木々を揺らす風のように、穏やかだった。
「第一に、自然への敬意を忘れるな。我らはこの森の恵みによって生かされておる。水の一滴、木の実一つにも感謝の心を捧げよ。第二に、日々の鍛錬を怠るな。心身ともに健やかでなければ、真の力は得られぬ。そして何よりも大切なのは…」
エルミートは、そこで一度言葉を切り、カイルとリアナの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「…他者を慈しむ心と、己の弱さを知る謙虚さを、片時も忘れてはならぬ。力とは、それを持つ者の心次第で、薬にも毒にもなる。そのことを、肝に銘じよ」
食事は質素だった。森で採れた木の実や茸、エルミートが仕掛けた罠にかかった小動物、そしてリアナが栽培を始めた薬草園で採れる僅かな野菜。それらは三人の手で丁寧に調理され、塔の小さな食卓で、エルミートの語る古い物語や、カイルとリアナの他愛ない会話と共に味わわれた。それは、カイルにとって、温かく満ち足りた時間だった。
*
エルミートによるカイルへの修練は、まず剣術の基礎を徹底的に叩き込むことから始まった。塔の裏手にある、苔むした岩に囲まれた小さな訓練場。そこでカイルは、エルミートから木剣を渡され、来る日も来る日も、剣の振り方、足の運び、呼吸法、そして何よりも精神の集中という、剣術の根幹を叩き込まれた。
「カイル、剣を握る時、お前の心は静かな湖面のようでなければならぬ」
エルミートは、カイルの木剣が僅かに震えるのを見逃さなかった。
「風が吹けば水面は揺らぐ。小石を投げ込めば波紋が広がる。じゃが、真に静かな湖底は、決して揺らぐことはない。お前の心が、外界の些細な物音や、お前自身の心の内の雑念に乱されていては、真の剣の道は見えぬぞ」
カイルの剣への天賦の才は、エルミートの目から見ても明らかだった。一度教えられた型は瞬く間に覚え、その動きは十三歳の少年とは思えぬほど滑らかで、力強かった。しかし、彼には大きな課題があった。それは、彼の過敏すぎる感受性だった。
訓練中、ふとした風の音、遠くで鳴く鳥の声、あるいはエルミートの僅かな息遣いの変化。そういった些細な刺激が、カイルの集中を容易く乱した。彼の心は、まるで共鳴板のように、周囲のあらゆる音や気配を拾い上げ、その度に彼の剣先は微かに、しかし確実に軌道を逸れるのだ。
「また心が乱れておるぞ、カイル!」
エルミートの鋭い声が飛ぶ。
「お前の敵は、目の前のわしだけではない。お前自身の心の中に潜む、その過敏な感受性こそが、お前が乗り越えるべき最初の壁じゃ!」
カイルは、唇を噛み締め、何度も何度も木剣を振るった。汗が目に入り、腕は鉛のように重い。それでも、彼は決して弱音を吐かなかった。エルミートの言葉は厳しいが、その奥には自分への期待と、そして深い愛情があることを、カイルは感じ取っていたからだ。そして何よりも、リアナが、いつも訓練場の隅で、心配そうに彼を見守ってくれていたからだ。
*
一方、リアナは、エルミートから薬草学と、エルフの伝承に残るという補助的な治癒の心得を熱心に学んでいた。彼女は、エルミートの庵の周囲に小さな薬草園を作り、様々な種類の薬草を育て始めた。その知識の吸収力と、植物に対する愛情は、エルミートをしばしば感嘆させた。
「リアナ、お主には天賦の才があるようじゃな」
エルミートは、リアナが丁寧に薬草の手入れをする姿を見ながら言った。
「その手は、多くの命を救うことになるやもしれん。じゃが、覚えておくがよい。我ら人間の力には限りがある。真の癒しとは、薬草の力だけでなく、それを使う者の心、そして何よりも、癒される者自身の生命力が織りなすものじゃ。決して驕ることなく、常に謙虚な心で、自然の摂理に耳を傾けるのじゃ」
エルミートがリアナに教える治癒の心得は、一般的な物ではなかった。それは、エルフたちが古くから伝えてきた、人間の持つ生命力や「気」の流れを整え、自然治癒力を高めるための、繊細な技術だった。リアナは、その奥深い知識に魅了され、熱心にその習得に励んだ。
そして、彼女のその学びは、すぐにカイルの支えとなった。
カイルが、剣の修練で精神的に追い詰められ、集中力を失いそうになる時、リアナはそっと彼のそばに寄り添い、エルミートから教わった呼吸法や、気を鎮めるための薬草茶を勧めた。
「大丈夫よ、カイル」
彼女は、カイルの震える手を優しく握りながら言った。
「あなたの心は、きっと誰よりも強いわ。だって、あんなにたくさんの悲しみを、シルヴァン村で、たった一人で抱えてきたのだもの。エルミート様も言っていたでしょう? その感受性は、弱さなんかじゃない。それは、他の誰にもない、あなたの特別な力になるはずよ」
リアナの言葉と、彼女の持つ温かい雰囲気は、カイルの荒れ狂う心を、不思議と静めてくれるのだった。彼女の存在そのものが、カイルにとって何よりの癒しであり、力の源泉だった。
*
夜、エルミートの庵の書斎では、カイルとリアナに対する、もう一つの重要な「講義」が行われた。書斎の壁一面を埋め尽くす古書。その中から、エルミートはアキテーヌの歴史書や、彼自身がかつて王宮で見聞きした出来事を記録した羊皮紙の束を紐解きながら、この国の歪んだ現実について語り聞かせた。
「…あれは、今から十数年前のことじゃった」
エルミートの声は、蝋燭の揺らめく薄明かりの中で、一層重々しく響いた。
「当時のアキテーヌ王、アルベリク・レグルス陛下は、民を愛し、公正を重んじる、まさに『獅子の王家』の名にふさわしいお方じゃった。じゃが、その理想は、既得権益に凝り固まった多くの貴族たち、そして何よりも、当時まだ若き将軍であったレジナルド卿の野心によって、無残にも踏みにじられた」
エルミートは、レジナルド公爵がいかにして他の貴族を抱き込み、聖教の一部さえも利用し、アルベリク王を孤立させ、そして最後にはその命を奪ったのか。その巧妙で冷酷な手口を、淡々と、しかし怒りを込めて語った。
そして、王妃と幼い長男テオドール王子の悲劇的な「事故死」。最後に、レジナルドが、王家の遠縁で気弱なギヨーム卿を新たな王として擁立し、自らは摂政として、アキテーヌの全ての実権を握ったという、現在の歪んだ権力構造。
カイルは、息を詰めてエルミートの話に聞き入っていた。自分の背中の「印」が、そんなにも血塗られた歴史と、そして現在の圧政に繋がっているとは。その事実は、まだ十三歳の彼には、あまりにも重く、そして恐ろしいものだった。
リアナもまた、青ざめた顔でエルミートの言葉を聞いていた。シルヴァン村で目の当たりにした徴税官たちの暴虐は、この国の巨大な闇の、ほんの小さな一端に過ぎなかったのだ。
「…力とは、それを持つ者の意志だけでなく、それを利用しようとする者の悪意によっても、世界を歪める」
エルミートは、カイルの瞳をじっと見つめて言った。
「真の正義とは何か、カイル。お前は、その剣で何を守り、何を斬るのか。それを、この森で、これからじっくりと考えるがよい。そして、決して忘れるな。力なき正義は無力であり、正義なき力はただの暴力に過ぎぬということを」
エルミートの言葉は、カイルの心に、鋭い問いとなって突き刺さった。
自分は何のために強くなりたいのか。その剣で、一体何ができるというのか。
答えは、まだ見つからなかった。ただ、胸の奥底で、シルヴァン村で感じた村人たちの悲しみや、リアナの涙、そして徴税官たちの非道な行いに対する、静かだが消えることのない怒りが、燻り続けているのを感じていた。
*
エルミートの庵での日々は、瞬く間に過ぎていった。
カイルは、エルミートの厳しい指導のもと、剣術の修練に明け暮れた。彼の剣技は、驚異的な速さで上達していったが、同時に、彼の心の中の葛藤もまた、深まっていった。
リアナは、薬草学と治癒の心得の習得に励みながら、常にカイルの精神的な支えとなった。彼女の存在がなければ、カイルはとっくに心の均衡を失っていたかもしれない。
エルミートは、二人の成長を温かく見守りながらも、決して彼らに甘い言葉はかけなかった。むしろ、彼は、世界の厳しさ、人間の醜さ、そしてヘルマーチャーという、まだ見ぬ脅威の存在を、繰り返し彼らに語り聞かせた。それは、彼らに過酷な運命を背負わせることになるかもしれないという、エルミート自身の責任感と、そして彼らへの深い愛情の裏返しでもあった。
ある嵐の夜、エルミートは、カイルを書斎に呼び出した。窓の外では、風が唸りを上げ、木々が激しく揺れている。まるで、世界の終わりを告げるかのような荒々しさだった。
「カイルよ」
エルミートは、揺らめく蝋燭の灯りの下で、カイルの目をじっと見つめた。
「お前が、この庵に来てから、もう半年が経とうとしておる。お主の剣の腕は、目を見張るものがある。じゃが、それだけでは足りぬ」
エルミートは、ゆっくりと立ち上がると、書斎の最も奥まった場所へとカイルを導いた。そこには、古びた重々しい扉があった。その扉には、複雑な紋様が刻まれ、何重にも錠がかけられ、そして奇妙な文字で書かれた封印の札が貼られている。それは、カイルがこの庵に来た初日に、エルミートが「禁断の扉」と呼んだものだった。
「お前が真に世界を知り、そして自らの無力さを痛感した時、それでもなお、その心に宿る『誰かを守りたい』という誓いを持ち続けられるか…それが、お前に課せられた最初の試練じゃろう」
エルミートの声は、嵐の音にも負けないほど、厳かに響いた。
「あの扉の奥には…」
エルミートは、その禁断の扉を指差した。
「お前のその背にある『獅子の聖痕』の真実、お前の血筋の謎、そして、この世界の闇の根源に関わる、あまりにも重い真実が眠っておるだろう…。じゃが、いずれお前は、その扉を開けるか否かの選択を迫られる日が来るじゃろう。その時、お前は、何を選び、そして何を背負う覚悟があるのか…それを、この先の修練の中で、見つけ出すのじゃ」
エルミートの言葉は、カイルの心に、新たな、そしてさらに大きな問いを投げかけた。
禁断の扉。その向こうに広がる、未知の世界。
カイルは、まだその扉を開ける勇気も、その先に待ち受けるかもしれない真実と向き合う覚悟も、持ち合わせてはいなかった。
だが、彼の魂は、確かに、その扉の奥から聞こえてくる、か細い、しかし抗いがたい呼び声のようなものを感じ取っていた。
エルミートは、カイルとリアナに、まず庵での生活の心得を厳しく、しかし愛情を込めて教え込んだ。
「この庵での暮らしは、お前たちにとって修行そのものじゃ」
朝靄が立ち込める塔の前の小さな広場で、エルミートは二人の前に立ち、静かに語り始めた。その声は、森の木々を揺らす風のように、穏やかだった。
「第一に、自然への敬意を忘れるな。我らはこの森の恵みによって生かされておる。水の一滴、木の実一つにも感謝の心を捧げよ。第二に、日々の鍛錬を怠るな。心身ともに健やかでなければ、真の力は得られぬ。そして何よりも大切なのは…」
エルミートは、そこで一度言葉を切り、カイルとリアナの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「…他者を慈しむ心と、己の弱さを知る謙虚さを、片時も忘れてはならぬ。力とは、それを持つ者の心次第で、薬にも毒にもなる。そのことを、肝に銘じよ」
食事は質素だった。森で採れた木の実や茸、エルミートが仕掛けた罠にかかった小動物、そしてリアナが栽培を始めた薬草園で採れる僅かな野菜。それらは三人の手で丁寧に調理され、塔の小さな食卓で、エルミートの語る古い物語や、カイルとリアナの他愛ない会話と共に味わわれた。それは、カイルにとって、温かく満ち足りた時間だった。
*
エルミートによるカイルへの修練は、まず剣術の基礎を徹底的に叩き込むことから始まった。塔の裏手にある、苔むした岩に囲まれた小さな訓練場。そこでカイルは、エルミートから木剣を渡され、来る日も来る日も、剣の振り方、足の運び、呼吸法、そして何よりも精神の集中という、剣術の根幹を叩き込まれた。
「カイル、剣を握る時、お前の心は静かな湖面のようでなければならぬ」
エルミートは、カイルの木剣が僅かに震えるのを見逃さなかった。
「風が吹けば水面は揺らぐ。小石を投げ込めば波紋が広がる。じゃが、真に静かな湖底は、決して揺らぐことはない。お前の心が、外界の些細な物音や、お前自身の心の内の雑念に乱されていては、真の剣の道は見えぬぞ」
カイルの剣への天賦の才は、エルミートの目から見ても明らかだった。一度教えられた型は瞬く間に覚え、その動きは十三歳の少年とは思えぬほど滑らかで、力強かった。しかし、彼には大きな課題があった。それは、彼の過敏すぎる感受性だった。
訓練中、ふとした風の音、遠くで鳴く鳥の声、あるいはエルミートの僅かな息遣いの変化。そういった些細な刺激が、カイルの集中を容易く乱した。彼の心は、まるで共鳴板のように、周囲のあらゆる音や気配を拾い上げ、その度に彼の剣先は微かに、しかし確実に軌道を逸れるのだ。
「また心が乱れておるぞ、カイル!」
エルミートの鋭い声が飛ぶ。
「お前の敵は、目の前のわしだけではない。お前自身の心の中に潜む、その過敏な感受性こそが、お前が乗り越えるべき最初の壁じゃ!」
カイルは、唇を噛み締め、何度も何度も木剣を振るった。汗が目に入り、腕は鉛のように重い。それでも、彼は決して弱音を吐かなかった。エルミートの言葉は厳しいが、その奥には自分への期待と、そして深い愛情があることを、カイルは感じ取っていたからだ。そして何よりも、リアナが、いつも訓練場の隅で、心配そうに彼を見守ってくれていたからだ。
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一方、リアナは、エルミートから薬草学と、エルフの伝承に残るという補助的な治癒の心得を熱心に学んでいた。彼女は、エルミートの庵の周囲に小さな薬草園を作り、様々な種類の薬草を育て始めた。その知識の吸収力と、植物に対する愛情は、エルミートをしばしば感嘆させた。
「リアナ、お主には天賦の才があるようじゃな」
エルミートは、リアナが丁寧に薬草の手入れをする姿を見ながら言った。
「その手は、多くの命を救うことになるやもしれん。じゃが、覚えておくがよい。我ら人間の力には限りがある。真の癒しとは、薬草の力だけでなく、それを使う者の心、そして何よりも、癒される者自身の生命力が織りなすものじゃ。決して驕ることなく、常に謙虚な心で、自然の摂理に耳を傾けるのじゃ」
エルミートがリアナに教える治癒の心得は、一般的な物ではなかった。それは、エルフたちが古くから伝えてきた、人間の持つ生命力や「気」の流れを整え、自然治癒力を高めるための、繊細な技術だった。リアナは、その奥深い知識に魅了され、熱心にその習得に励んだ。
そして、彼女のその学びは、すぐにカイルの支えとなった。
カイルが、剣の修練で精神的に追い詰められ、集中力を失いそうになる時、リアナはそっと彼のそばに寄り添い、エルミートから教わった呼吸法や、気を鎮めるための薬草茶を勧めた。
「大丈夫よ、カイル」
彼女は、カイルの震える手を優しく握りながら言った。
「あなたの心は、きっと誰よりも強いわ。だって、あんなにたくさんの悲しみを、シルヴァン村で、たった一人で抱えてきたのだもの。エルミート様も言っていたでしょう? その感受性は、弱さなんかじゃない。それは、他の誰にもない、あなたの特別な力になるはずよ」
リアナの言葉と、彼女の持つ温かい雰囲気は、カイルの荒れ狂う心を、不思議と静めてくれるのだった。彼女の存在そのものが、カイルにとって何よりの癒しであり、力の源泉だった。
*
夜、エルミートの庵の書斎では、カイルとリアナに対する、もう一つの重要な「講義」が行われた。書斎の壁一面を埋め尽くす古書。その中から、エルミートはアキテーヌの歴史書や、彼自身がかつて王宮で見聞きした出来事を記録した羊皮紙の束を紐解きながら、この国の歪んだ現実について語り聞かせた。
「…あれは、今から十数年前のことじゃった」
エルミートの声は、蝋燭の揺らめく薄明かりの中で、一層重々しく響いた。
「当時のアキテーヌ王、アルベリク・レグルス陛下は、民を愛し、公正を重んじる、まさに『獅子の王家』の名にふさわしいお方じゃった。じゃが、その理想は、既得権益に凝り固まった多くの貴族たち、そして何よりも、当時まだ若き将軍であったレジナルド卿の野心によって、無残にも踏みにじられた」
エルミートは、レジナルド公爵がいかにして他の貴族を抱き込み、聖教の一部さえも利用し、アルベリク王を孤立させ、そして最後にはその命を奪ったのか。その巧妙で冷酷な手口を、淡々と、しかし怒りを込めて語った。
そして、王妃と幼い長男テオドール王子の悲劇的な「事故死」。最後に、レジナルドが、王家の遠縁で気弱なギヨーム卿を新たな王として擁立し、自らは摂政として、アキテーヌの全ての実権を握ったという、現在の歪んだ権力構造。
カイルは、息を詰めてエルミートの話に聞き入っていた。自分の背中の「印」が、そんなにも血塗られた歴史と、そして現在の圧政に繋がっているとは。その事実は、まだ十三歳の彼には、あまりにも重く、そして恐ろしいものだった。
リアナもまた、青ざめた顔でエルミートの言葉を聞いていた。シルヴァン村で目の当たりにした徴税官たちの暴虐は、この国の巨大な闇の、ほんの小さな一端に過ぎなかったのだ。
「…力とは、それを持つ者の意志だけでなく、それを利用しようとする者の悪意によっても、世界を歪める」
エルミートは、カイルの瞳をじっと見つめて言った。
「真の正義とは何か、カイル。お前は、その剣で何を守り、何を斬るのか。それを、この森で、これからじっくりと考えるがよい。そして、決して忘れるな。力なき正義は無力であり、正義なき力はただの暴力に過ぎぬということを」
エルミートの言葉は、カイルの心に、鋭い問いとなって突き刺さった。
自分は何のために強くなりたいのか。その剣で、一体何ができるというのか。
答えは、まだ見つからなかった。ただ、胸の奥底で、シルヴァン村で感じた村人たちの悲しみや、リアナの涙、そして徴税官たちの非道な行いに対する、静かだが消えることのない怒りが、燻り続けているのを感じていた。
*
エルミートの庵での日々は、瞬く間に過ぎていった。
カイルは、エルミートの厳しい指導のもと、剣術の修練に明け暮れた。彼の剣技は、驚異的な速さで上達していったが、同時に、彼の心の中の葛藤もまた、深まっていった。
リアナは、薬草学と治癒の心得の習得に励みながら、常にカイルの精神的な支えとなった。彼女の存在がなければ、カイルはとっくに心の均衡を失っていたかもしれない。
エルミートは、二人の成長を温かく見守りながらも、決して彼らに甘い言葉はかけなかった。むしろ、彼は、世界の厳しさ、人間の醜さ、そしてヘルマーチャーという、まだ見ぬ脅威の存在を、繰り返し彼らに語り聞かせた。それは、彼らに過酷な運命を背負わせることになるかもしれないという、エルミート自身の責任感と、そして彼らへの深い愛情の裏返しでもあった。
ある嵐の夜、エルミートは、カイルを書斎に呼び出した。窓の外では、風が唸りを上げ、木々が激しく揺れている。まるで、世界の終わりを告げるかのような荒々しさだった。
「カイルよ」
エルミートは、揺らめく蝋燭の灯りの下で、カイルの目をじっと見つめた。
「お前が、この庵に来てから、もう半年が経とうとしておる。お主の剣の腕は、目を見張るものがある。じゃが、それだけでは足りぬ」
エルミートは、ゆっくりと立ち上がると、書斎の最も奥まった場所へとカイルを導いた。そこには、古びた重々しい扉があった。その扉には、複雑な紋様が刻まれ、何重にも錠がかけられ、そして奇妙な文字で書かれた封印の札が貼られている。それは、カイルがこの庵に来た初日に、エルミートが「禁断の扉」と呼んだものだった。
「お前が真に世界を知り、そして自らの無力さを痛感した時、それでもなお、その心に宿る『誰かを守りたい』という誓いを持ち続けられるか…それが、お前に課せられた最初の試練じゃろう」
エルミートの声は、嵐の音にも負けないほど、厳かに響いた。
「あの扉の奥には…」
エルミートは、その禁断の扉を指差した。
「お前のその背にある『獅子の聖痕』の真実、お前の血筋の謎、そして、この世界の闇の根源に関わる、あまりにも重い真実が眠っておるだろう…。じゃが、いずれお前は、その扉を開けるか否かの選択を迫られる日が来るじゃろう。その時、お前は、何を選び、そして何を背負う覚悟があるのか…それを、この先の修練の中で、見つけ出すのじゃ」
エルミートの言葉は、カイルの心に、新たな、そしてさらに大きな問いを投げかけた。
禁断の扉。その向こうに広がる、未知の世界。
カイルは、まだその扉を開ける勇気も、その先に待ち受けるかもしれない真実と向き合う覚悟も、持ち合わせてはいなかった。
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