The Lone Hero ~The Age of Iron and Blood~

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第二編 第一章 レジナルドの鉄腕

第13話: 王宮の密告者

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 王都ボルドーに、レジナルド・オーギュスタン・ド・ヴァランス公爵の鉄の意志が、まるで目に見えぬ鎖のように張り巡らされ、人々の自由と希望を静かに、しかし確実に奪い去ろうとしていた頃。その圧政に、最後まで屈することなく、アキテーヌの古き良き伝統と正義を守ろうとする一門があった。

 ヴァロワ家。アキテーヌ建国以来、王家に次ぐ名門として、幾多の困難を乗り越え、その誇りを守り抜いてきた一族である。

 その当主、アンリ・ド・ヴァロワ公爵は、白髪混じりの威厳ある風貌の中に、老いてなお衰えぬ気骨と、燃えるような愛国心を宿していた。彼は、レジナルド公爵の露骨なまでの権力掌握の動きと、その背後にある底知れぬ野心を、誰よりも早く見抜き、強く警戒していた。

「レジナルドめ…あの男、アキテーヌを私物化するつもりか。許せん…断じて許せんぞ!」

 ヴァロワ家の壮麗な屋敷の書斎で、アンリ公爵は、苦々しげにそう吐き捨てた。彼の前には、王宮内の不穏な動きを伝える、腹心からの密書が広げられている。

「父上、お言葉ですが、あまり感情的になられては、あの男の思う壺ですわ」

 部屋の隅で、静かに刺繍をしていたアンリ公爵の娘、イザボー・エレオノール・ド・ヴァロワが、父の言葉を嗜めるように言った。彼女はまだ若く、その類稀なる美貌は、深窓の姫君といった風情を漂わせていたが、その紫色の瞳の奥には、父譲りの誇りと、そして年齢に似合わぬほどの冷静な知性が宿っていた。

「イザボー、お前にはまだ早い話だ」

 アンリ公爵は、娘を一瞥し、ため息をついた。

「だが、覚えておくがいい。ヴァロワの血を引く者は、決して不正に屈してはならぬ。たとえ、それが茨の道であろうともな」

 彼は、水面下で、まだ良心を失っていない他の有力貴族たちと連携を取り、レジナルドの暴走を牽制するための策を練っていた。

 しかし、レジナルドの巧妙な分断工作と、王宮内に張り巡らされた密偵の網は、彼らの動きをことごとく妨害し、アンリ公爵の焦燥感を募らせるばかりだった。
 若きイザボーは、そんな父の苦悩を間近で見つめながら、レジナルド・ド・ヴァランスという男への、静かだが消えることのない敵対心を、その胸の内に深く刻みつけていた。彼女の美貌と、鋭敏な知性は、まだ宮廷の華やかな社交の舞台の奥に、その真価を隠していた。

 *

 レジナルド公爵の執務室。

 その日の議題は、言うまでもなく、最大の政敵であるヴァロワ家をいかにして無力化するか、であった。

「ヴァロワのアンリ…あの老害、まだ諦めておらぬようだな」

 レジナルドは、椅子に深く腰掛けたまま、まるで盤上の駒を眺めるかのように、アキテーヌの勢力図が描かれた羊皮紙を見下ろしていた。

「直接叩き潰すのは、まだ時期尚早か。奴らも、アキテーヌではそれなりの名門。下手に手を出せば、他の貴族どもが騒ぎ出すやもしれん」

 側近のギルバート男爵が、冷たい目で進言した。

「公爵閣下のおっしゃる通りです。ヴァロワ家を攻め滅ぼすのは容易いことではございません。ですが、どんな堅固な城も、内部からの裏切りには脆いもの。まずは、その城壁に小さな亀裂を入れることから始めるべきかと存じます」

「ほう、亀裂とな?」

 レジナルドの口元に、微かな笑みが浮かんだ。



「具体的には、どうする?」

「ヴァロワ家の財政状況、家臣団の忠誠心、そして何よりも、当主アンリやその一族の『弱み』となるような秘密…それらを徹底的に洗い出すのです。金か、女か、あるいは隠された野心か…人間というものは、必ずどこかに弱点を抱えているもの。そこを的確に突き、揺さぶりをかければ、いかに忠誠を誓った家臣とて、寝返らぬとも限りませぬ」

 ギルバート男爵の言葉は、人間の心の闇を知り尽くした者の、冷酷な響きを持っていた。

「ふむ…面白い」

 レジナルドは、満足げに頷いた。

「ヴァロワ家の内部に、我らのための『目』と『耳』を作り出すというわけか。良いだろう、ギルバート。その任、お前に任せる。結果を期待しておるぞ」

「ははっ! 公爵閣下のご期待に、必ずやお応えしてご覧にいれます」

 ギルバート男爵は、深々と頭を下げ、主人の冷徹な人間観察眼と、その底知れぬ策略に、改めて畏怖の念を抱いていた。

 *

 レジナルド公爵の目に留まったのは、ヴァロワ家の古参の家臣の一人、会計係のピエール・ド・ブロワだった。

 ピエールは、その真面目な仕事ぶりと、口の堅さから、アンリ公爵の信頼も厚い男だった。だが、その実、彼は長年にわたる自身の低い待遇への不満と、そして何よりも、若い頃に作った多額の賭博の借金に、人知れず苦しみ続けていた。借金取りの執拗な催促は、彼の心をじわじわと蝕み、夜も眠れない日々が続いていた。

 そんなピエールの弱みに、ギルバート男爵は巧みにつけ込んだ。

 ある夜、ピエールが酒場で一人、借金のことで思い悩んでいると、見慣れぬ男が声をかけてきた。ギルバート男爵の腹心の密偵だった。

「ピエール・ド・ブロワ殿ですな? 少し、お耳に入れたい儀がございます」

 密偵は、ピエールを酒場の奥まった席へと誘い、囁くような声で切り出した。

「あなた様の苦境、我々は全て存じ上げております。その莫大な借金、そしてヴァロワ家での不遇な立場…実にもったいないことですな。あなた様ほどの有能な方が、なぜそのような場所で燻っていなければならないのか」

 ピエールの顔色が変わった。なぜ、この男が自分の借金のことまで知っているのか。
 密偵は、ピエールの動揺を見透かしたかのように、さらに言葉を続けた。

「もし、あなた様が、ほんの少しばかり我々にご協力いただけるのなら…その借金は、全て帳消しにいたしましょう。それどころか、将来は、ヴァロワ家よりも遥かに高い地位と、莫大な富をお約束いたします。我々の後ろには、あのお方…摂政レジナルド公爵閣下がおられるのですからな」

 ピエールは、息を呑んだ。レジナルド公爵…! その名は、今のアキテーヌで、恐怖と同義だった。

「わ、私に…何をしろと…?」

「簡単なことです」

 密偵は、にやりと笑った。

「ヴァロワ家の内部の情報を、ほんの少しばかり、我々に教えていただきたいのです。例えば、アンリ公爵が、誰と密会しているのか、どのような計画を立てているのか…あるいは、ヴァロワ家の会計帳簿に、何か不審な記述はないか、とかね」

 それは、紛れもない裏切りへの誘いだった。

 ピエールは、激しく葛藤した。長年仕えてきたヴァロワ家への忠誠心。アンリ公爵からの信頼。それらを裏切ることへの罪悪感。

 しかし、同時に、彼の脳裏には、借金取りの脅迫的な顔と、レジナルド公爵の冷酷な瞳が浮かんでいた。もし、この誘いを断れば、自分はどうなるのか。そして、もし受け入れれば、長年の苦しみから解放され、富と地位が手に入るかもしれない。

「…考えさせてくれ…」

 ピエールは、かろうじてそう答えるのが精一杯だった。
 数日後、ピエール・ド・ブロワは、夜陰に紛れて、ギルバート男爵の待つ秘密の場所へと赴いた。その手には、ヴァロワ家の会計帳簿の写しと、アンリ公爵が他の貴族たちと交わした密書が、震える手で握りしめられていた。

 彼の心の中では、もう良心の声はかき消され、ただ恐怖と欲望だけが渦巻いていた。裏切りの味は、どこか甘美な毒のように、彼の魂を蝕み始めていた。

 *

 ピエールからもたらされた情報は、レジナルド公爵にとって、まさに宝の山だった。ヴァロワ家の財政状況、アンリ公爵の秘密の会合、そして何よりも、ヴァロワ家と地方の有力貴族たちとの間の、まだ表沙汰になっていない同盟関係。

 レジナルドは、その情報を元に、ヴァロワ家に対する最初の、しかし致命的な一撃を放つことを決断した。

 標的となったのは、マルコム卿。アキテーヌ東部の広大な穀倉地帯を治める、ヴァロワ家とは古くから親交の深い、気骨のある老貴族だった。彼は、レジナルドの圧政に公然と反対こそしていなかったが、水面下ではアンリ公爵と連携し、レジナルド包囲網の形成に尽力していた。

「マルコム卿が、ヴァロワ家と共謀し、王都への納税を意図的に滞らせ、反乱を企てている、か…」

 レジナルドは、ギルバート男爵が捏造した「証拠」の山を前に、満足げに呟いた。

「これで、あの老いぼれを潰す口実はできた。国王陛下の御名において、速やかに逮捕し、処刑せよ。その領地は没収し、ギルバート男爵、お前に与えよう。せいぜい、ヴァロワの残党どもへの見せしめとなるよう、華々しく執り行うのだな」

 ピエールからもたらされた情報を元に、レジナルドは、ヴァロワ家と繋がりの深い地方の有力貴族、マルコム・ド・サン=ジェルマン卿を標的に定めた。

 レジナルドは、マルコム卿が「ヴァロワ家と共謀し、王都への納税を意図的に滞らせ、反乱を企てている」という偽の証拠を捏造し、国王ギヨームの名において、黒狼兵団を派遣。マルコム卿は、何の弁明の機会も与えられぬまま逮捕され、王都ボルドーへと護送された。彼の領地は仮押さえとなり、その財産もまた、ギルバートによって厳しく管理されることとなった。

 これは、ヴァロワ家に対する最初の、しかし明確な警告であり、彼らの経済的・軍事的な基盤を揺るがすための、巧妙にして非情な一撃だった。アキテーヌの貴族たちは、この事件に戦慄し、レジナルド公爵への恐怖をさらに深めた。ヴァロワ家は、確実に、静かに、孤立と破滅の淵へと追い詰められていった。

 *

 ヴァロワ家の屋敷。

 当主アンリ・ド・ヴァロワ公爵は、腹心のマルコム卿が無実の罪で捕らえられ、王都へ連行されたという報せを受け、その顔を怒りと絶望で歪ませていた。

「レジナルドめ…! よくも…よくも、マルコムを!!」

 アンリ公爵の怒声が、書斎に響き渡った。彼は、これがレジナルド公爵によるヴァロワ家への明確な攻撃であると確信し、もはや一刻の猶予もないことを悟った。

「もはや黙ってはおれぬ! あの成り上がり者に、ヴァロワ家の誇りを、アキテーヌの正義を、今こそ思い知らせてくれるわ! イザボー! すぐに、まだ我らに与する者たちに連絡を取れ! レジナルドを討つ! たとえ、この身が滅びようともな!」

 アンリ公爵の瞳には、死を覚悟した者の、悲壮なまでの決意が宿っていた。

 しかし、彼のその怒りの背後では、最も信頼していたはずの家臣、会計係のピエール・ド・ブロワが、レジナルド公爵から新たな指示を受け、さらなる裏切りのための、そしてヴァロワ家を完全に破滅させるための、冷酷な罠を仕掛ける準備を、静かに進めていた。

 ヴァロワ家の悲劇は、まだ始まったばかりだった。
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